レンツ警告後、日本での回収決定は大幅に遅れた

2022年4月17日

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POD版、Kindle版共に、Web版よりもきちんとまとまっています。(図版も入っています)

Web版の方が分量の多い箇所も、一部あります。ただし、Web版は全て〈参考資料〉の位置付けです。このWebをご覧いただく際には、〈未完成原稿〉であることをご了解くださいますようお願いいたします。

はじめに

レンツ警告(1961年11月)後、欧州各国では直ちにサリドマイドの回収が行われた。1961年末までには回収作業は終了したものと思われる。これに対して、日本国内の動きは非常に緩慢かつ信じられないものであった。

製薬メーカー、厚生省、あるいはマスコミなどの反応は鈍かった

レンツ警告の内容はグリュネンタール社から大日本製薬(株)に届けられ、厚生省にも報告された。しかしながら、大日本製薬(株)や厚生省はそれらの情報を何一つ公にしなかった。

大日本製薬(株)が、自社のサリドマイド製剤を出荷中止(1962年5月)するのは、レンツ警告の約半年後のことであり、製品の全面回収を決定(1962年9月)するまでには、それからさらに4か月を要した。

その間、厚生省から製品の回収命令が出されることはなかった。それどころか、厚生省はレンツ警告後に新たなサリドマイド製剤(ゾロ品)を2剤認可している。

マスコミの対応も遅れた。レンツ警告後の約半年間、わが国ではサリドマイド事件は全く報道されなかった。朝日新聞スクープ「自主的に出荷中止/イソミンとプロバンM」(1962年5月17日付け)が、わが国でのサリドマイド事件の第一報とされている。

しかし、この時の朝日新聞の報道では、日本国内にはサリドマイド児は存在しないことにされてしまった。

日本のサリドマイド児の存在を初めて明らかにしたのは、梶井正講師(北海道大学医学部)のデータを紹介した読売新聞スクープ「日本にも睡眠薬の脅威」(1962年8月28日付け)である。

そしてその記事がきっかけとなり、大日本製薬(株)は、翌月(9月13日)になってやっと製品の全面回収を決定した。この時既にレンツ警告から約10か月が経過していた。

その間米国では、ケルシー博士がケネディ大統領から大統領勲章を受章(1962年8月4日)した。米国でのサリドマイド発売を未然に防いだ功績に対するものである。

大日本製薬(株)、イソミン販売中止せず

レンツ警告(1961年11月)は、12月4日、グリュネンタール社の日本代理店(日瑞貿易)を通じて大日本製薬(株)に届けられた。

大日本製薬(株)は、翌日グリュネンタール社に国際電話で問合せをした。その答えは、「発表は科学的には信じられないが、全国の新聞にニュースが流れてしまった。もはや検討のひまはない。とりあえず、薬をひきあげた」というものであった。(平沢1965,p.150)

大日本製薬(株)は、それらを受けて厚生省と協議(12月6日)した。ところが、「有用な薬品を回収すれば社会不安を起こす」として販売を続行することになった。

そして年明け早々(1962年1月)、大日本製薬(株)から西ドイツに学術課長が派遣された。

ところが同課長は、現地にてグリュネンタール社の関係者に面会したのみであった。サリドマイドと奇形発生との関係について、レンツ博士やそのほかの学者の意見を聞くことはなかった。西ドイツの州政府を訪問することもなかった。

それにもかかわらず、帰国してから「レンツ博士の発表には科学的根拠が無い」と報告した。

グリュネンタール社からは矢継ぎ早に警告が発せられた

レンツ警告の前後、グリュネンタール社からは大日本製薬(株)に対して順次情報がもたらされた。

その内容は、「西ドイツのアーヘン州検事局の押収したグリュネンタール社側の資料」で以下のとおり確認することができる。(シェストレーム1973,増山:序に代えてp.7)

  • 1961年10月11日、副作用のあること
  • 11月28日、出荷停止のこと
  • 12月8日、回収のこと
  • 1962年3月29日、“今後販売しないように”、“販売を続けるとしても、妊婦がサリドマイドを服用する危険は除かなければならない”と警告
  • 4月25日、“販売を継続しても責任は負わない”

なお、上記10月11日の「副作用」については、レンツ警告(11月15日)よりも前の日付となっている。恐らく、同じサリドマイドによる副作用である「多発神経炎」に関することと思われる。

しかしながら、大日本製薬(株)が、日本国内の多発神経炎について自らどこまで調査したかは全く不明である。その当時のことを記した諸資料の中で、日本の多発神経炎に関する記述は全然見当たらない。

厚生省、新たなサリドマイド製剤(ゾロ品)認可

厚生省は、レンツ警告(1961年11月)が日本に届けられた後に、新たなサリドマイド剤(ゾロ品)2剤、すなわち「パングル」(亜細亜製薬:1962年2月)と「ネルトン」(柏製薬:同年5月)の発売を許可した。その後、両剤が実際に販売されたかどうかは不明であるとはいうものの、信じられない行為である。

最後の「ネルトン」が認可(5月1日)された頃には、大日本製薬(株)と厚生省の間で、サリドマイド製剤の出荷中止(5月17日)が検討され始めていたはずである。どうしてそのような時期にゾロ品を新たに認可したのであろうか。

ネルトンの販売許可について、川俣修壽(サリドマイド事件支援者)は、「(国は)この情報はこれまで故意に国民に伏せてきた」としている。私には、どのように情報を隠していたのか、その内容はよく分からない。(川俣2010,p.43)

それはともかくとして、いしずえ1984(年表pp.117-122)にも、「ネルトン」の記述はない。

そして、日本のサリドマイド裁判でも、レンツ警告後に認可されたサリドマイド製剤としては、「パングル」のみが取り上げられたようである。当時の製薬課長は、パングルを認可した理由を問われて、「(責任者として自ら決裁したことを)覚えておりません」と証言している。(藤木&木田1974,平瀬証言p.267)

厚生省は、国内のサリドマイド出荷中止の1週間後、各都道府県薬務課宛に厚生省通達「サリドマイド製剤について」(1962年5月25日付け)を出している。そこには「国内ではまだ患者についての報告が一件もない」と記載してあった。

その翌年、1963年5月(昭和38)になってから、厚生省の製薬課長が西ドイツを訪問した。そして、そこでレンツ博士に面会した。しかし、面会時間は通訳を交えてわずか30分程度のものであった。しかもその翌日、休日で子どもを連れたレンツ博士と市内の動物園ですれ違ったという。

この一件以外、厚生省及び日本の製薬会社からレンツ博士を訪問したケースはなく、手紙やそのほかの手段での問合せも一切なかった。(藤木&木田1974,レンツ証言pp.112-114)

松永英(国立遺伝学研究所人類遺伝部長)の場合

レンツ警告は、その意義を理解できる日本人学者の目に触れることはなかったのであろうか。日本国内では欧州各国と異なり、「何はともあれ直ちに回収」という措置が取られる気配は全くなかった。

松永英(国立遺伝学研究所人類遺伝部長)は、後のサリドマイド訴訟で原告側証人として出廷(1971年2月、4月の2回)した。

そして「サリドマイドの事件を私が初めて知りましたのは、翌年の三月ごろだったと思うんですが、ランセットで、初めて見たんです」と証言している。恐らくレンツ博士の論文のことであろう。(増山編1971,松永pp.122-124)

その当時、英国の医学雑誌「The Lancet(ランセット)」がロンドンから日本に届くまで1~2か月(船便)かかっていた。そうしたランセットなどの国際的な医学雑誌によって、レンツ博士や梶井博士はお互いの論文を読んでいたのである。

松永部長が梶井博士を知ったのも、ランセット(1962年7月21日号)に載った梶井論文を読んでからだという。

松永部長の専門は遺伝疫学である。レンツ論文を読んで、サリドマイド禍について知っていた。しかしその当時、サリドマイド製剤が日本で販売されていることは全く知らなかった。松永部長に対して厚生省や大日本製薬(株)から、レンツ警告に関する問合せは何もなかった。

松永部長は、証言の中で、電話一本かけて聞いてもらえれば、レンツ警告「サリドマイドには催奇形性がある」について的確なアドバイスができたと、日本での回収が大幅に遅れたことを悔やんでいる。

参考)日本薬剤師会の場合はどうか

日本薬剤師会雑誌の2013年8月号付録(同年6月11日発行)に、『日本薬剤師会年表』がある。公益社団法人日本薬剤師会の創立120周年記念事業の一環として作成されたものである。

サリドマイド関連の項目は、下記3件のみである。なお、それらの記述が極めて不正確であり、参照するには注意が必要であろう。

  • 1961年(昭和36)11月、日本でもサリドマイド奇形児問題化
  • 1962年(昭和37)5月、厚生省、サリドマイド製剤の製造販売中止を勧告
  • 1974年(昭和49)10月、サリドマイド訴訟和解成立

1961年11月の記事は、明らかにレンツ警告(1961年11月)と取り違えている。日本国内でサリドマイド児問題が顕著となるのは、読売新聞スクープ(1962年8月)以降のことである。

1962年5月の記事は、正しくは「自主的に販売中止/イソミンとプロバンM」(朝日新聞スクープ)であり、実際に大日本製薬(株)が「製造販売の中止」を決定したのは、それから4か月後の同年9月になってからのことである。

1974年の記事も不正確である。確かに同年10月13日、原告・被告双方の間で和解確認書に調印して、東京地裁で和解が成立(10月26日)している。ただし、東京も含めて全国8地裁の全てで和解が成立し終わるのは、翌月の11月20日のことである。

つまり、ここは正しくは「サリドマイド訴訟、東京地裁で和解成立」、あるいは、それに付け加えて「その後、東京以外の7地裁でも同年11月中までに順次和解成立」とすべきであろう。

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1)サリドマイド事件全般について、以下で概要をまとめています。
サリドマイド事件のあらまし(概要)
上記まとめ記事から各詳細ページにリンクを張っています。
(現在の詳細ページ数、20数ページ)

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本書は、『サリドマイド胎芽症診療ガイド2017』で参考書籍の一つに挙げられています。

Web管理人

山本明正(やまもと あきまさ)

1970年3月(昭和45)徳島大学薬学部卒(薬剤師)
1970年4月(昭和45)塩野義製薬株式会社 入社
2012年1月(平成24)定年後再雇用満期4年で退職
2012年2月(平成24)保険薬局薬剤師(フルタイム)
2023年1月(令和5)現在、保険薬局薬剤師(パートタイム)