サリドマイド事件

サリドマイド販売量をサリドマイドの新聞広告スペース量で推測することはできない

投稿日:2018年6月10日 更新日:

イソミンの新聞広告は、レンツ警告(1961年11月)の月でピタリと止まっていた。そしてそれ以降、プロバンMが広告量を急激に伸ばし、朝日新聞スクープ「自主的に出荷中止/イソミンとプロバンM」(1962年5月17日付け夕刊)の直前まで広告を出し続けていた。

中森黎悟さん(サリドマイド児の父親)による新聞広告量の調査結果である。

「イソミンではまずいとおもい、のこったサリドマイドをプロバンMにぶちこんで、ジャンジャン宣伝して、売りまくったのではなかろうか・・・・・。中森さんの疑いは消えなかった」。

しかし、そのことを裏付ける事実は見当たらない。

(平沢1965,pp.202-205、このページの「」内は特に断りの無い限り左記資料からの引用、なお算用数字に変更箇所有り)

新聞広告量とサリドマイド児発生数(高野哲夫のグラフ)

高野哲夫(立命館大学)は、中森データを使用して「新聞広告量とサリドマイド児発生数」の経時変化を示したグラフを作成している。(高野1981,p.127)

高野グラフでは、中森の調べた新聞広告量(棒グラフ)と、日本先天異常学会によるサリドマイド児発生数(折れ線グラフ)を組み合わせて表示している。

新聞広告量は1961年にピークを示し、サリドマイド児発生数は1962年にピークを迎えている。また、両者のピーク前後における増減傾向はよく似ている。

高野は、自身の作成したグラフについて、「サリドマイド剤の新聞広告と奇形児発生とのあいだに見事な平行関係が認められている」としている。

しかしながら私は、サリドマイド剤の新聞広告と奇形児発生との間の「並行」関係は、ただ単に相関関係があるように見えるだけであり、因果関係があることの証明にはならないと考えている。

新聞広告量とサリドマイド児発生数(佐藤嗣道による紹介)

佐藤嗣道(自身もサリドマイド被害者)は、第1回医薬ビジランスセミナー(1997年9月)でこの高野グラフを紹介している。

そして、「レンツ警告を境に睡眠薬の広告をやめ胃腸薬プロバンMを大々的に売りまくったということで、一種の在庫整理と言われてもしかたがないやり方です」と説明している。(ビジランス1999,佐藤p.43)

しかし、そうした事実は確認できない。

レンツ警告(1961年11月)以降もイソミンの販売は継続されていた。そしてその販売量は、レンツ警告の翌年になっても出荷中止(1962年5月)まで減少傾向を示していない。

中森の新聞広告量と販売量の関係を追求した努力には頭が下がる思いである。しかしながら、イソミンとプロバンMの新聞広告量の経時変化のみから両者の販売量を推し量ることは、元々不可能であったと言わざるを得ない。

なお、佐藤は公益財団法人いしずえの理事長として、第16回薬害根絶デー(2015年8月)でもこの高野グラフを紹介している。(佐藤2015スライド原稿)

イソミンに替えてプロバンMのみを売りまくったという事実は確認できない

新聞広告量(イソミンとプロバンM)の増減は、果たしてイソミンとプロバンMのそれぞれの販売量に比例しているのだろうか。さらには、サリドマイド児出生数の増減と比例していると言えるのであろうか。

日本のサリドマイド製剤の販売量は「1962年1月~4月」にピークを迎えた(梶井データ)

まず最初に、梶井データを確認しておこう。梶井正(北海道大学医学部)は、日本におけるサリドマイド児発症数を4か月ごとにまとめて集計している。

梶井データによれば、日本における発症数のピークは「1962年9~12月」にある。つまり、その約8か月前の「1962年1月~4月」に最も多くの妊婦がサリドマイド製剤を服用したことを示唆している。

レンツ警告(1961年11月)の翌年のことであり、朝日新聞スクープ「自主的に出荷中止/イソミンとプロバンM」(1962年5月17日付け夕刊)よりも前の時期である。

その「1962年1月~4月」時点で、大日本製薬(株)がイソミンに替えてプロバンMのみを売りまくっていたのかどうかは疑問である。

なぜならば、1962年に入ってからもイソミンの販売量は減少せず、逆にわずかながら増加傾向を示しているからである。なお、「プロバンMの販売量は、1961年の秋から1962年の冬にかけてピークに達した」という。

これらを総合すると、日本のサリドマイド製剤は、レンツ警告(1961年11月)の翌年になって最も売上げを伸ばしたものと思われる。そしてその時、大日本製薬(株)がイソミンに替えてプロバンMのみを売りまくったという事実は確認できない。

イソミンの販売量はレンツ警告以降も減少していない

「大日本製薬が公表したイソミン販売量と奇形児出生数」(プロバンMを除く)の表を改めて確認してみよう。(増山編1971,吉村p.243)

その表から私なりの集計をした結果、イソミンの販売量(錠数)は年ごとに倍以上の伸びを示しており、出荷中止(1962年5月)まで増加し続けていたことが分かった。

川俣修壽は、イソミンの売上高に関して次のデータを引用している。(川俣2010,p.35)

すなわち、景山喜一「サリドマイド・組織論的分析」『中央公論経営問題』1972年3月25日によれば、イソミンの販売額は、1958年(4,400万円)、1959年(6,100万円)、1960年(1億3,900万円)、1961年(3億2,500万円)そして1962年は出荷中止(5月17日)までの4か月半で(1億6,100万円)となっている。

つまり、イソミンの売上高は出荷中止(1962年5月)まで増加し続けている。

メーカー公表のイソミン販売量(錠数)と景山データ(売上高)の増加傾向は、初年度(1958年)を除いてほぼ一致している。

ここで、私なりに大日本製薬(株)のデータからイソミンの販売額を計算してみた(イソミン25mg錠10円として)。すると、1962年(出荷停止までの約4か月半)の販売額は、約1億4千万円となる。景山データの1962年(約1億6千万円)とほぼ一致している。

最盛期のプロバンMの販売額はイソミンよりも大きかった

サリドマイド裁判において、大日本製薬(株)の取締役は、最盛期のイソミンの売上高(6~7千万円)は、最盛期のプロバンM(1億円)の6~7割だったと証言している。

「プロバンMというのは、期におきましては、大体一億ちょっと越したぐらいですから、37年ごろ。(中略)イソミンは大体一番多いときで6~7千万です」。(サリドマイド裁判1976,第4編,p.264)

なおここで期とは、通常の解釈では半年決算(6か月ごと)のことと思われるが、そうすると前記の計算結果とはかけ離れてしまうことになる。むしろ、四半期決算(3か月ごと)の方が整合性がとれる数値となる。

イソミンとプロバンMでサリドマイド胎芽病の発症リスクに差はあったのだろうか

イソミン(25mg錠、100mg/1.0g散剤)とプロバンM(サリドマイド6mg含有)を比べた場合、両者でサリドマイド胎芽病の発症リスクに差はあったのだろうか。

レンツ警告(1961年11月)以降、イソミンに替えてプロバンMのみを売りまくったというのが事実であるならば、「1962年9~12月」以降に生まれたサリドマイド児は、圧倒的にプロバンMによるものが多くなっているはずである。

ただし残念ながら、サリドマイド児の原因薬剤別(イソミンとプロバンMなど)発症数を示したデータは、公表されていないようである。

イソミンとプロバンMの新聞広告(縮刷版20万ページの分析から)

最後に、中森の調査結果について、もう少し詳しくまとめておこう。

中森はある時偶然に、サリドマイド販売量を新聞広告のスペース量で推測することを思い付いた。

それから約一か月間、彼は京都府立図書館にこもって、「大判の分厚い縮刷版のページをめくりつづけた」。そして、『朝日』、『毎日』、『読売』三紙について、1957年10月(昭和32)から1962年末(昭和37)までの医薬品広告を調べ尽くした。

なお中森は、次のようなことから新聞広告量の調査を思い立ったという。

「医薬品は、外国では75%、日本では100%までが、広告の力で売れている」という趣旨の文章をたまたま目にした。大手製薬企業の社長が書いたものであった。

イソミンとプロバンMの新聞広告(掲載期間)

睡眠薬イソミン(サリドマイド製剤)の発売は、1958年1月20日(昭和33)である。

「イソミンの広告は、発売直前の1958年1月15日にはじめて出た」。そして、「イソミン広告の最後は、(1961年)11月30日」であった。その間、イソミンの広告は断続的に、1958年7~9月、1959年3~8月、1960年2~3月と続き、「1960年5月からはずっとつづけて、1961年11月にいたっている」。

胃腸薬プロバンM(サリドマイド含有製剤)の発売は、1960年8月22日(昭和35)である。

「プロバンMの広告の初出は、1961年5月21日」であった。「プロバンの広告は、イソミンの広告が出なくなったあともつづき、1962年の5月まで出されていた」。最後は5月13日で、「4日後の17日、大日本は、製造と出荷の中止を発表した」。

大日本製薬(株)によれば、「プロバンMは、はじめ医家むけとして、売りだした。発売後1年近くなってから、医家向けの実績のうえにたって、一般大衆むけに売ろうとして、宣伝を開始した。それが1961年の秋から1962年の冬にかけて、ピークに達した」という。

イソミンとプロバンMの新聞広告量(レンツ警告前後の変化)

中森は、広告量を「1段の半分のスペースを1とした指数」で表わしている。

1)レンツ警告の前月(1961年10月)、イソミンとプロバンMの広告量(指数)は、ほぼ同数(15.5、16.7)である。

つまり、プロバンMの広告量(初出、1961年5月)は、初出から数か月経った頃、イソミンの広告量とほぼ同じであった。

2)レンツ警告の当月(1961年11月)、イソミンの広告量(20.0)は前月から約3割増しなのに対して、プロバンM(53.0)は3倍以上も増加している。

つまり、レンツ警告の当月になってプロバンMの販促活動に弾みがついたものと思われる。なお、ここではまだレンツ警告の影響は何も出ていないと考えられる。

3)レンツ警告の翌月(1961年12月)、イソミンの広告が姿を消した。それと入れ替わるようにして、プロバンMの広告量は、86.8(1961年12月)、113.5(1962年1月)と急増している。

大日本製薬(株)は、イソミン広告の中止に関して、その当時次のような厚生省の通達があり、それに従ったまでであるとしている。

「11月22日(1961年)、厚生省は、薬務局長名の告示396号を出して、睡眠薬にはすべて、習慣性ある旨を効能書に明記することをきめ、未成年者には売らないこととし、広告を出すことも当分の間禁止した」。

これは、「はびこる睡眠薬への対策の一環として、とられた措置であった」。つまり、イソミン広告の中止は、「西ドイツのサリドマイド禍のニュースとは、なんの関係もない」。

平沢は、上記種々の資料(「」内引用文など)を提供した上で、最後に「中森さんの疑問が的を射たものどうか。大日本の説明が事実ありのままであるかどうかは、決めようがない」と結論付けている。

しかしながら、私なりの確認では、「イソミンの販売量はレンツ警告以降も減少していない」(既述)。

プロバンM(あるいはプロバンMB)の広告はいつまで出されたのか

大日本製薬(株)は、1962年7月7日(昭和37)、プロバンMの替わりにプロバンMBを発売している。配合剤の成分の一つを、サリドマイドからブロムワレリル尿素に替えた製剤である。

大日本製薬(株)は、1962年5月の出荷中止や同年9月の回収決定後もプロバンMの新聞広告を出し続けていた。しかしそれは、サリドマイドを含まないプロバンMBをプロバンMとして宣伝広告したものだったようである。

以下にて、その前後の広告活動がどうだったのか確認しておこう。

中森の調査では、プロバンMの広告は、朝日新聞スクープ「自主的に出荷中止/イソミンとプロバンM」(1962年5月17日付け夕刊)の直前まで出されていたとしている(既述)。

川俣修壽は、「(プロバンMの広告は)イソミンの出荷停止後も依然としてつづけられ、回収開始の22日前まで出されていた」としている(景山喜一「サリドマイド・組織論的分析」『中央公論経営問題』1972年3月25日からの引用による)。(川俣2010,p.35)

つまり、読売新聞スクープ「日本にも睡眠薬の脅威」(1962年8月28日付け)の直前まで、プロバンMの広告が出されていたことになる。

ちなみに、川俣は、プロバンMの出荷中止は除外されており、注文があれば卸から小売り店への出荷を続けていたとも書いている。(川俣2010,pp.44-45,533)

松下一成(市民の医療ネットワーク)は、その著書で「プロバンMの新聞広告」のコピー画像を掲載している。朝日新聞夕刊(1962年12月19日付け)に載ったものである。(松下1996,p.25)

栢森良二(帝京大学医学部)の著書にも、イソミン錠やプロバンM錠の新聞広告のコピー写真が載っている。その中で、プロバンM錠のものは、上記松下のものとほとんど同じデザインである。しかも、松下資料よりも後の1962年12月27日付けとなっている。(栢森1997,pp.10-11.)

そして、松下や栢森の新聞広告画像をよく見ると、小さく「新処方」と書かれている。これらは、プロバンMBをプロバンMとして宣伝広告したものと考えられる。

参考URL

関連URL及び電子書籍(アマゾンKindle版)

1)サリドマイド事件全般について、以下で概要をまとめています。
サリドマイド事件のあらまし(概要)
上記まとめ記事から各詳細ページにリンクを張っています。
(現在の詳細ページ数、20数ページ)

2)サリドマイド事件に関する全ページをまとめて電子出版しています。(アマゾンKindle版)
『サリドマイド事件(第3版)』
世界最大の薬害 日本の場合はどうだったのか
加筆修正⇒2019年10月12日(第3版発行)

www.amazon.co.jp/ebook/dp/B00V2CRN9G/
2015年3月21日(電子書籍:Amazon Kindle版)
2016年11月5日(第2版発行)
2019年10月12日(第3版発行)

『サリドマイド胎芽症診療ガイド2017』で参考書籍の一つに挙げられています。

Web管理人

山本明正(やまもと・あきまさ)

1970年3月(昭和45)徳島大学薬学部卒(薬剤師)
1970年4月(昭和45)塩野義製薬株式会社 入社
2012年1月(平成24)定年後再雇用満期4年で退職
2012年2月(平成24)保険薬局薬剤師(フルタイム)
2019年5月(令和1)現在、保険薬局薬剤師(パートタイム)

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