イソミンとプロバンMの新聞広告(縮刷版20万ページの分析から)

2022年4月17日

紙の書籍『サリドマイド事件(第三版)』(アマゾン・ペーパーバック版:POD版)を出版しました(2023年2月20日刊)。内容はKindle版(第七版)と同じです。現在の正式版は、アマゾンPOD版(紙の書籍)としています。(最新:2023/02/25刷)

POD版、Kindle版共に、Web版よりもきちんとまとまっています。(図版も入っています)

Web版の方が分量の多い箇所も、一部あります。ただし、Web版は全て〈参考資料〉の位置付けです。このWebをご覧いただく際には、〈未完成原稿〉であることをご了解くださいますようお願いいたします。

はじめに

イソミンの新聞広告は、レンツ警告(1961年11月)の月でピタリと止まっていた。
そしてそれ以降、プロバンMが広告量を急激に伸ばし、朝日新聞スクープ(自主的に出荷中止)の直前まで広告を出し続けていた。

「イソミンではまずいとおもい、のこったサリドマイドをプロバンMにぶちこんで、ジャンジャン宣伝して、売りまくったのではなかろうか・・・・・。中森さんの疑いは消えなかった」。

イソミンの新聞広告はレンツ警告の月でピタリと止まっていた

イソミンの新聞広告は、レンツ警告(1961年11月)の月でピタリと止まっていた。

そしてそれ以降、プロバンMが広告量を急激に伸ばし、朝日新聞スクープ「自主的に出荷中止/イソミンとプロバンM」(1962年5月17日付け夕刊)の直前まで広告を出し続けていた。

中森黎悟さん(サリドマイド児の父親)は、縮刷版20万ページにも及ぶ新聞広告を調査した結果、上記のような傾向があることに気が付いた。

「イソミンではまずいとおもい、のこったサリドマイドをプロバンMにぶちこんで、ジャンジャン宣伝して、売りまくったのではなかろうか・・・・・。中森さんの疑いは消えなかった」。

しかし、そのことを裏付ける事実は見当たらない。私なりに検討した結果は以下のとおりである。⇒(レンツ警告以降もイソミンの販売量が減少することはなかった

(平沢1965,pp.202-205、この項の「」内は特に断りの無い限り左記資料からの引用、なお和暦を西暦に直した(算用数字に変更)箇所有り)

中森黎悟による新聞広告量の調査

中森はある時偶然に、サリドマイド販売量を新聞広告のスペース量で推測することを思い付いた。

それから約一か月間、彼は京都府立図書館にこもって、「大判の分厚い縮刷版のページをめくりつづけた」。
そして、『朝日』、『毎日』、『読売』三紙について、1957年10月(昭和32)から1962年末(昭和37)までの医薬品広告を調べ尽くした。

なお中森は、次のようなことから新聞広告量の調査を思い立ったという。

「医薬品は、外国では75%、日本では100%までが、広告の力で売れている」という趣旨の文章をたまたま目にした。大手製薬企業の社長が書いたものであった。

イソミンとプロバンMの新聞広告(掲載期間)

睡眠薬イソミン(サリドマイド製剤)の発売は、1958年1月20日(昭和33)である。

「イソミンの広告は、発売直前の1958年1月15日にはじめて出た」。
そして、「イソミン広告の最後は、(1961年)11月30日」であった。
その間、イソミンの広告は断続的に、1958年7~9月、1959年3~8月、1960年2~3月と続き、「1960年5月からはずっとつづけて、1961年11月にいたっている」。

胃腸薬プロバンM(サリドマイド含有製剤)の発売は、1960年8月22日(昭和35)である。

「プロバンMの広告の初出は、1961年5月21日」であった。
「プロバンの広告は、イソミンの広告が出なくなったあともつづき、1962年の5月まで出されていた」。
最後は5月13日で、「4日後の17日、大日本は、製造と出荷の中止を発表した」。

大日本製薬(株)によれば、「プロバンMは、はじめ医家むけとして、売りだした。
発売後1年近くなってから、医家向けの実績のうえにたって、一般大衆むけに売ろうとして、宣伝を開始した。
それが1961年の秋から1962年の冬にかけて、ピークに達した」という。

イソミンとプロバンMの新聞広告量(レンツ警告前後の変化)

中森は、広告量を「1段の半分のスペースを1とした指数」で表わしている。

1)レンツ警告の前月(1961年10月)

イソミンとプロバンMの広告量(指数)は、ほぼ同数(15.5、16.7)である。
つまり、プロバンMの広告量は、初出(1961年5月)から数か月たった頃、イソミンの広告量とほぼ同じであった。

2)レンツ警告の当月(1961年11月)

イソミンの広告量(20.0)は前月から約3割増しなのに対して、プロバンM(53.0)は3倍以上も増加している。

ただし、この月はまだレンツ警告の影響は何も出ていない。
レンツ警告が大日本製薬(株)にもたらされたのは、翌月(12月)に入ってからである。

つまり、レンツ警告の当月にプロバンMの広告量が急増し始めたのは、それ以前からの販促活動に弾みがついた結果と考えられる。

3)レンツ警告の翌月以降(1961年12月以降)

イソミンの広告が姿を消した。
それと入れ替わるようにして、プロバンMの広告量は、86.8(1961年12月)、113.5(1962年1月)と急増している。

睡眠薬の規制強化(厚生省)

レンツ警告(11月15日)とちょうど時を同じくして、厚生省は睡眠薬の規制強化に乗り出した。
その内容は、平沢によれば以下のとおりである。

「11月22日(1961年)、厚生省は、薬務局長名の告示396号を出して、睡眠薬にはすべて、習慣性ある旨を効能書に明記することをきめ、未成年者には売らないこととし、広告を出すことも当分の間禁止した」。

「はびこる睡眠薬への対策の一環として、とられた措置であった」。

大日本製薬(株)は、イソミン広告の中止に関して、上記厚生省の通達に従ったまでであるとしている。
つまり、イソミン広告の中止は、「西ドイツのサリドマイド禍のニュースとは、なんの関係もない」との見解を示している。

平沢は、上記種々の資料(「」内引用文など)を提供した上で、最後に「中森さんの疑問が的を射たものどうか。大日本の説明が事実ありのままであるかどうかは、決めようがない」と結論付けている。

参考)睡眠薬の規制強化(梶井証言)

梶井正博士は、日本のサリドマイド裁判において、睡眠薬の規制強化に関して次のように証言している。

1962年の1月1日から薬局で買う場合には買う人が住所氏名を記載して買うということになりました。しかしこれはサリドマイドの問題が起きたからではなくて、その当時青少年の睡眠薬遊びが流行していたのでそれを防止するための措置であったと解釈しています」。(藤木&木田1974,梶井証言pp.131-132)

プロバンM(あるいはプロバンMB)の広告はいつまで出されたのか

大日本製薬(株)は、1962年7月7日(昭和37)、プロバンMに替えてプロバンMBを発売している。
配合剤の成分の一つを、サリドマイドからブロモバレリル尿素に切り替えた「新処方」の製品である。

実は大日本製薬(株)は、1962年5月の出荷中止や同年9月の回収決定後もプロバンMの新聞広告を出し続けていた。
しかしそれは、いつの時点からか、サリドマイドを含まないプロバンMBをプロバンMとして宣伝広告したものだったようである。

プロバンMの広告は回収決定の直前まで出されていた

中森データでは、プロバンMの広告は、朝日新聞スクープ「自主的に出荷中止/イソミンとプロバンM」(1962年5月17日付け夕刊)の直前まで出されていたとしている(既述)。

川俣修壽(サリドマイド事件支援者)は、影山文献1972を引用する形で、「(プロバンMの広告は)イソミンの出荷停止後も依然としてつづけられ、回収開始の22日前まで出されていた」としている。
(影山1972,p.326-327、川俣2010,p.35)⇒後日影山文献のコピーを入手して確認。

つまり、読売新聞スクープ「日本にも睡眠薬の脅威」(1962年8月28日付け)の直前まで、プロバンMの広告が出されていたことになる。
ただし、このプロバンMの広告は、プロバンMB(同年7月発売)の可能性がある(下記)。

なお、影山文献1972におけるイソミン広告月のデータ(中森データの引用)は、平沢1965(上記)のそれとは異なっている。
つまり、広告有りの月と広告無しの月が、平沢と影山ではあべこべになっている箇所がある。
そして川俣は、影山データをそっくりそのまま引用している。

ちなみに、川俣は、プロバンMの出荷中止は除外されており、注文があれば卸から小売り店への出荷を続けていたとも書いている。(川俣2010,pp.44-45,533)

プロバンMBの広告は「プロバンM」としてそのまま続けられた

松下一成(市民の医療ネットワーク)は、その著書で「プロバンMの新聞広告」のコピー画像を掲載している。
朝日新聞夕刊(1962年12月19日付け)に載ったものである。(松下1996,p.25)

栢森良二(帝京大学医学部)の著書にも、イソミン錠やプロバンM錠の新聞広告のコピー写真が載っている。
その中で、プロバンM錠のものは、上記松下のものとほとんど同じデザインである。
しかも、松下資料よりも後の1962年12月27日付けとなっている。(栢森1997,pp.10-11)

1962年12月といえば、プロバンMは既に販売中止(同年9月)となっている。
それに対して、上記の松下や栢森の新聞広告画像を確認すると、小さな文字で「新処方」と書かれていることが分かる。
つまり、プロバンMB(同年7月発売)をプロバンMとして宣伝広告を続けたものと考えられる。

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参考URL

関連URL及び電子書籍(アマゾンKindle版)

1)サリドマイド事件全般について、以下で概要をまとめています。
サリドマイド事件のあらまし(概要)
上記まとめ記事から各詳細ページにリンクを張っています。
(現在の詳細ページ数、20数ページ)

2)サリドマイド事件に関する全ページをまとめて電子出版しています。(アマゾンKindle版)
『サリドマイド事件(第7版)』
世界最大の薬害 日本の場合はどうだったのか(図表も入っています)

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2015年3月21日(電子書籍:Amazon Kindle版)
2016年11月5日(第2版発行)
2019年10月12日(第3版発行)
2020年05月20日(第4版発行)
2021年08月25日(第5版発行)
2022年03月10日(第6版発行)
2023年02月20日(第7版発行)、最新刷(2023/02/25)

本書は、『サリドマイド胎芽症診療ガイド2017』で参考書籍の一つに挙げられています。

Web管理人

山本明正(やまもと あきまさ)

1970年3月(昭和45)徳島大学薬学部卒(薬剤師)
1970年4月(昭和45)塩野義製薬株式会社 入社
2012年1月(平成24)定年後再雇用満期4年で退職
2012年2月(平成24)保険薬局薬剤師(フルタイム)
2023年1月(令和5)現在、保険薬局薬剤師(パートタイム)