サリドマイドの血管新生抑制作用と不斉合成

2022年4月17日

紙の書籍『サリドマイド事件(第三版)』(アマゾン・ペーパーバック版:POD版)を出版しました(2023年2月20日刊)。内容はKindle版(第七版)と同じです。現在の正式版は、アマゾンPOD版(紙の書籍)としています。(最新:2023/02/25刷)

POD版、Kindle版共に、Web版よりもきちんとまとまっています。(図版も入っています)

Web版の方が分量の多い箇所も、一部あります。ただし、Web版は全て〈参考資料〉の位置付けです。このWebをご覧いただく際には、〈未完成原稿〉であることをご了解くださいますようお願いいたします。

はじめに

サリドマイドによる四肢短縮など(奇形)は、TNF-αの持つ血管新生作用が抑制されることによって生じる。

サリドマイドには「不斉」炭素が一つある。

睡眠・鎮静作用があるのは「右手型(R体)」、催奇性による四肢の矮小化などの作用があるのは「左手型(S体)」である。ただし、生体内では、R体のみを投与しても速やかにS体に変化するとされており、副作用対策は単純にはいかない。

サリドマイドはTNF-αの血管新生作用を抑制する

TNF-αには血管新生作用がある

サリドマイドの催奇形性に関して、サリドマイドによる血管新生抑制作用は有力な仮説の一つである。

サリドマイドは、血管新生作用を持つTNF-αの免疫系内での合成を選択的に抑制する。

つまり、サリドマイドによってTNF-αの合成が抑制されるということは、血管新生作用が抑制されることを意味する。その結果、例えば四肢に育つ組織に血管が作られず、手足の正常な形成が阻害されると考えられている。

腫瘍壊死因子:TNF(Tumor Necrosis Factor)は、腫瘍細胞を壊死させる作用のある物質として発見されたサイトカインである。その中の一つにTNF-αがある。

サイトカイン:細胞から分泌されるタンパク質で、標的細胞に対して情報伝達を行う。サイトカインは、インターフェロンやインターロイキンあるいは腫瘍壊死因子(TNF)などに分類される。

サリドマイドは免疫抑制剤の一種である

最近では、サリドマイドは免疫抑制剤として、ステロイドよりも優れているとするデータが数多く発表されるようになっている。

例えば、ヒト免疫不全ウイルス(HIV-1)の増殖そのものを抑制したり、自己免疫疾患(慢性関節リウマチ、動脈硬化症、乾癬症、SLEなど)に対して有効とされている。

逆に、サリドマイドによる血管新生抑制作用を治療に応用できる可能性がある。

例えば、新たな血管が異常に形成される病態である糖尿病性網膜症や老人性黄斑変性症では、むしろ血管新生を抑制することが治療につながるからである。

同様の理由で、各種がんに効果が期待できる。

例えば、1999年10月、米国国立がん研究所はサリドマイドによる結腸・直腸がん治療の臨床試験を開始すると発表した。2001年8月には、Mayo Clinicによって、サリドマイドが早期多発性骨髄腫(血液がんの一種)に有効であるとの報告がなされている。

このように、サリドマイドの薬剤としての可能性は非常に高い。今後ともさらにその適応は広がっていくものと考えられる。

サリドマイドは、グアニン(核酸塩基の一種)とよく似ている

以下では、主としてステフェン(邦訳2001,pp.259-279)を参考にしてまとめてみた。

サリドマイド分子の一部は、DNAを構成する核酸塩基の一種であるグアニン(G)と驚くほどよく似ている。そして、グアニン(G)と類似構造を有するサリドマイドは、DNAの二重鎖の中に滑り込む(インターカレートする)ことができる。DNA:デオキシリボ核酸―Deoxyribo Nucleic Acid(遺伝子の本体)

DNA塩基配列の中には、5′-GGCGGG-3’という特殊な配列(グアニンとシトシンによる配列でGCボックスと呼ばれる)をもつ個所がある。このGCボックスが、成長刺激の連鎖反応に関する一連のたんぱく質(複数)のそれぞれの遺伝子中に8箇所も発見されている。

DNAに入り込んだサリドマイドが、この“GCボックス”に何らかの影響を及ぼし、胚の一部での血管新生とそれに続く正常な発達を妨げるものと考えられる。

DNA(核酸の一種)の構成成分となる4つの塩基:

  • アデニン(A)—-プリン塩基
  • グアニン(G)—-プリン塩基
  • シトシン(C)—-ピリミジン塩基。グアニンと塩基対を形成(水素結合3つ)
  • チミン(T)——ピリミジン塩基。アデニンと塩基対を形成(水素結合2つ)

サリドマイドの標的タンパク質(セレブロン)が見つかった

サリドマイド禍の主要な原因標的タンパク質を同定

国立大学法人東京工業大学は、2010年3月8日(平成22)、「サリドマイド催奇性における主要な標的因子を発見」したことを公表した。その内容(冒頭一部のみ)は、次のとおりである。(同大学Webより、2014/10/19閲覧、「」内引用)

「国立大学法人東京工業大学(伊賀健一学長)の統合研究院・半田宏教授と伊藤拓水研究員らのグループは,東北大学加齢医学研究所・小椋利彦教授との共同研究で,1960年前後において引き起こしたサリドマイド禍の主要な原因標的タンパク質を同定した」。これによって、「催奇性を軽減させたより優れた新薬開発への道」が開かれたことになる。

注)標的タンパク質の名前:セレブロン(CRBN:cereblon)

サリドマイド誘導体による抗炎症作用のメカニズムを解明

大阪大学は、2016年9月8日(平成28)、レナリドミド(サリドマイド誘導体)による抗炎症作用のメカニズムを解明することに成功したと発表した。

同大学免疫学フロンティア研究センターの岸本忠三教授らの研究グループによる研究成果で、今後、炎症性自己免疫疾患(関節リウマチなど)にいかに応用していくかが注目される。

サリドマイドの催奇形性問題を分子レベルで解明

国立大学法人名古屋工業大学は、2018年2月20日(平成30)、「サリドマイドの催奇形性問題を分子レベルで解明-40年間の謎に終止符-」することに成功したと発表した。その内容(冒頭一部のみ)は、次のとおりである。(同大学Webより、2019/10/09確認、「」内引用)

「箱嶋敏雄教授ら(奈良先端科学技術大学院大学)、半田宏特任教授ら(東京医科大学)および柴田哲男教授ら(名古屋工業大学)の共同研究グループは、40年近くもの間詳細が不明であったサリドマイドの催奇形性(胎児に奇形が起こる危険性)にまつわる問題をついに分子レベルで解明することに成功しました。今後、催奇形性の無い安全なサリドマイド型治療薬の開発が期待されるほか、新規治療薬の開発に向けての大きな足掛かりになることが期待されます」。

サリドマイドが手足や耳に奇形を引き起こすメカニズムを解明

国立大学法人東京工業大学は、2019年10月8日(令和1)、「サリドマイドが手足や耳に奇形を引き起こすメカニズムを解明」したことを公表した。その内容(一部のみ)は、次のとおりである。(同大学Webより、2019/10/8閲覧、「」内引用)

「東京医科大学 ナノ粒子先端医学応用講座(現・ケミカルバイオロジー講座)の半田宏特任教授(東京工業大学 名誉教授)および伊藤拓水准教授、東京工業大学 生命理工学院の山口雄輝教授、イタリア ミラノ大学のルイーサ・ゲリーニ(Luisa Guerrini)博士らの国際共同研究グループは、サリドマイドの深刻な奇形がp63というタンパク質の分解によって引き起こされることを明らかにしました」。

  • 「セレブロンというタンパク質がサリドマイドの主要な細胞内標的因子である」。
  • 「サリドマイド系の化合物がセレブロンに結合するとセレブロンの基質特異性が変化」する。
  • すると、「通常は分解されないタンパク質が分解されるように」なる。
  • 「このように、薬剤依存的に分解されるタンパク質をセレブロンの「ネオ基質」」と呼ぶ。
  • この度、「サリドマイドの催奇形性に関わるネオ基質がp63というタンパク質である」ことを見出した。
  • 「p63タンパク質には大小の2つのタイプ」がある。
  • 「胎児の発生過程で小さい方が手足の形成に、大きい方が耳の形成に重要な役割」を果たしている。
  • 「サリドマイドがセレブロンに結合するとp63の大小両方の分解が誘導」される。
  • 「その結果、手足や耳の奇形が引き起こされる」。

「本研究によりp63の分解が副作用の原因であることが判明しました。p63の分解を誘導しないサリドマイド系化合物を探索することにより、安全性の高い新薬の開発が可能になると考えられます」。

セレブロンをめぐる一連のメカニズムと、サリドマイドの血管新生抑制作用との関わりについても研究が進むことが期待される。

サリドマイドには「不斉」炭素が一つある

サリドマイドの催奇形性は左手型(S体)にある

サリドマイドには「不斉」炭素が一つある。そして長年、睡眠・鎮静作用があるのは「右手型(R体)」、催奇性による四肢の矮小化などの作用があるのは「左手型(S体)」だとされてきた。

そのことが分子レベルで解明されたのは2018年(平成30)のことで、科学誌「Scientific Reports」のオンライン速報版(2018年1月22日)で公表された。

ただし、サリドマイドの催奇形性対策を考えるとき、ことはそう単純ではない。

  • 催奇形性が「左」「右」両者のうち一方のみにあるということは事件後に分かったことである。
  • たとえ、事件前にその事実をつかんでいたとしても、両者を完全に分離生産する技術は当時まだ確立されていなかった。
  • さらに、その後の研究によると、サリドマイドの場合、右手型も体内で少しづつ左手型に変化していく。つまり、ラセミ化していくという。

サリドマイドが市場に登場した段階で既に悲劇は始まっていた。医薬品を製造販売することの責任の厳しさを示す事件である。

ノーベル化学賞・野依良治教授(不斉合成)

2001年度ノーベル化学賞に、野依のより良治りょうじ(名古屋大学大学院教授)ら3名が選ばれた。

スエーデン王立科学アカデミーは2001年度のノーベル化学賞を “触媒による不斉合成(Catalytic asymmetric synthesis)" の業績に対して贈ることを決定した。その半分は “キラル触媒による不斉水素化反応の研究" に対するものであり、米国のウィリアム・ノールズ氏(William S.Knowles、米モンサント元研究員)と野依良治氏(名古屋大学大学院教授)に連名で、残り半分を “キラル触媒による不斉酸化反応の研究" に対し、米国のバリー・シャープレス氏(K.Barry Sharpless、米スクリプス研究所教授)に贈ることを決定した。

日本人のノーベル化学賞授賞は、前年の白川英樹・筑波大学名誉教授に引き続くもので、日本の化学の水準の高さを示す結果となった。なおこの時点において、日本人のノーベル賞授賞者は野依教授も含めて全部で10人である。そして翌年、田中耕一・島津製作所フェロー(受賞後昇進)が2002年度のノーベル化学賞を受賞した。3年連続で日本人がノーベル化学賞を受賞したことになる。

なお、野依良治教授は、2003年10月から独立行政法人理化学研究所(理研)の初代理事長となり、2015年3月末で辞任した。その理研から、STAP細胞に関する論文が発表されたのは、2014年1月のことであった。(科学誌『ネイチャー』2014年1月30日号掲載)

不斉合成とは何か

ニュートン22巻1号(2002年1月号)pp.26-33.
(ニュートン特別インタビュー)

  • ノーベル化学賞受賞 野依良治名古屋大学大学院教授に聞く
    化学物質の左右型のつくり分けに成功、合成化学に新たな道を切り開いた
  • 野依:ものの形には二つしかありません。一つは左右対称で右と左の区別がないもの。もう一つは左右の区別があるものです。たとえば、野球の世界でいうとボールは左右対称ですが、グローブには左右の区別があります。
  • Newton:右手型と左手型とでは、おたがいが鏡に映った像の関係にあるので、それらのことを「鏡像異性体」とよびますね。

有機化合物で基本となるのは炭素(C)である。その炭素には腕が4本あり、炭素同士あるいは他の原子(分子)と結びつく。そして、炭素同士が鎖状に連なってできた化合物においてそれぞれの炭素について見ると、炭素を中心に置いた正四面体(三角錐)構造をとる。

ここで、炭素に結合している4つの原子(分子)がすべて異なるとき、ちょうど人間の右手と左手のように、鏡に映すとぴったり重なる関係にある2つの物質(鏡像体、光学異性体)が存在することになる。このような炭素を不斉炭素という。そして、不斉炭素を含む分子を「不斉である」「キラルである」といい、左右型をつくり分けることを不斉合成という。

生体内(生化学反応)では不斉合成はごく当たり前に行われている。例えば、糖類はすべて右手型であり、アミノ酸はすべて左手型である。それぞれの反対型は生体内には全く存在しない。しかし、人工的な化学合成において、左右型の作り分けはそれほど簡単なことではなかった。

野依教授による不斉合成

野依教授は、世界で初めて「右手型」と「左手型」の人工的なつくり分けの可能性を示唆し、その後自らBINAP触媒というものを開発してそのことを実証した。

この技術を用いて、1983年に世界初の不斉合成による工業化が日本で実現した。対象となったのは“L-メントール”で、高砂香料工業(株)において、野依教授の研究グループや大阪大学などとの共同研究によって製造方法が確立された。

  • 左手型メントール:
    単一の香料としては世界的に最も需要の多い、薄荷やペパーミントの主成分でありスッキリとした清涼感がある。タバコ、のど飴、そして歯みがき粉などに幅広く利用されている。
  • 右手型メントール:
    ほこりっぽく、消毒薬臭い。
  • その他の実用化例:
    プロスタグランジン、βラクタム系抗生物質、キノロン系抗菌剤など多数。

参考:光学異性体の物理化学的な性質はほとんど同じだが、旋光性(直線偏光がその物質を通過するとき偏光面が回転する現象)が異なる。回転方向が右回りの場合を右旋性(dextrotatory)といい、d または + を付けて表し、左まわりの場合は左旋性(levorotatory)といって、l または – を付けて表す。さらに、結合する置換基の順位付けをして、その並び方の約束から定める区別もあり、RとS、あるいは旧来のDとLで分類する場合もある。(Web生活環境科学の部屋/本間善夫より)

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1)サリドマイド事件全般について、以下で概要をまとめています。
サリドマイド事件のあらまし(概要)
上記まとめ記事から各詳細ページにリンクを張っています。
(現在の詳細ページ数、20数ページ)

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本書は、『サリドマイド胎芽症診療ガイド2017』で参考書籍の一つに挙げられています。

Web管理人

山本明正(やまもと あきまさ)

1970年3月(昭和45)徳島大学薬学部卒(薬剤師)
1970年4月(昭和45)塩野義製薬株式会社 入社
2012年1月(平成24)定年後再雇用満期4年で退職
2012年2月(平成24)保険薬局薬剤師(フルタイム)
2023年1月(令和5)現在、保険薬局薬剤師(パートタイム)