片平洌彦著『ノーモア薬害』を読む

新型コロナウイルス感染症の巨大な波が襲う中で、催奇形性を有するアビガン錠の追加承認があるかどうか、薬屋としても緊迫したコロナ第2年目を迎えました。

ここでは、薬害というものを改めて考え直すきっかけとして、片平洌彦著「ノーモア薬害」のサリドマイドの項を読んでみました。

本書は、基礎的な資料として、とても参考になる力作です。
ただし、サリドマイドの項は、全く使い物になりません。要注意!!

片平洌彦『ノーモア薬害』は、内容が古い・間違っている・使えない

片平著は、1995年6月(初版第1刷)から、内容は全く変わっていない。
増補改訂版が出ているが、サリドマイドの項は、何も書き換えられていない。

  • 片平洌彦『ノーモア薬害(増補改訂版)』桐書房(1997年12月)
    私の手元にあるのは、『ノーモア薬害』桐書房(1995年6月、第1刷)と増補改訂版の第2版(2005年5月)だが、サリドマイドに関する記述は、1995年6月(第1刷)から変わりないものと思われる。
  • 木田盈四郎『先天異常の医学』中公新書(1982年)
    私の手元にあるのは、第13版(1998年5月25日)だが、内容は初版と変わりないと思われる。
  • 栢森良二『サリドマイド物語』医歯薬出版(1997年6月)、初版所有
    栢森良二『サリドマイドと医療の軌跡』西村書店(2013年12月)、初版所有
  • 増山元三郎編『サリドマイド』UP選書(1971年8月)、初版所有
  • 『薬害はなぜなくならないか』日本評論社(1996年11月)、第3刷(1997年2月)所有
  • 『サリドマイド胎芽症 診療ガイド2017』⇒2020年版有り
  • 公益財団法人「いしずえ」>>サリドマイド事件-事件の概要/被害の実態
    http://ishizue-twc.or.jp/thalidomide/damage-01/

わが国のサリドマイド胎芽病患者(309名)の症状別分類

「わが国のサリドマイド胎芽病患者(309名)の症状別分類」
(いしずえ調査(1981年11月)の内容、「いしずえ」公式Webの数値と同一)
片平は、これを木田1982,p162から引用している。
(片平1997,p.31)

新しい資料である「サリドマイド胎芽症 診療ガイド2017」p.13では、次のようになっている。
「上肢低形成群で 230/309(75%)人、聴器低形成群 59/309(19%)人であり、2つのグループの混合群 20/309(6%)」。(230+59+20=309:認定患者数、診療ガイド2017より)

これらの数値は、「いしずえ」公式Web(2021/01/11確認)とは異なっています。
同Webの数値を、診療ガイド2017のまとめ方で置き換えると、次のようになります。
(227+63+19=309:認定患者数、「いしずえ」公式Webより)

このような数値の食い違いが生ずるのは、時期によって診断基準が異なるなどの原因があるのかもしれません。
最新の基準に照らしたデータの提示が望まれます。

世界のサリドマイド被害児の数

世界のサリドマイド被害児の数が、木田1982,p.163から引用(要約)されています。(片平1997,p.31)
木田1982の該当箇所を確認すると、「最近レンツ博士から直接聞いたところによる」となっています。

レンツはその後(1988年)、次の論文を発表しています。
そして、同文献は栢森1997,pp.39-41で既に紹介されています。

Lenz W: A short history of thalidemide embryopathy. TERATOLOGY,38:203-215,1988

木田1982(レンツからの聞き書き)と栢森1997(レンツの公表文献からの引用)では、国別患者数や生存率(死亡率)で異なる箇所が幾つかあります。

この二つを比べるならば、より新しい公表文献の方を基礎資料にすべきと考えます。

ケルシー博士・FDA(米国食品医薬品局)の活躍

「多発性神経炎などの副作用が相次ぎ(1961年5月までに約1,300件)、米国では食品薬品庁のケルシー女史がこれを問題にして製造承認を与えませんでした」。(片平1997,p.32)

ケルシー博士の活躍(ストーリー)について、私は以下のように考えています。

「ケルシーが当初指摘したのは、あくまでも、安全性を示す動物実験が不十分だったことにあります。
そしてその後、フローレンスの多発神経炎の記事(英国医師会雑誌:British Medical Journal)を読んで、催奇形性に注目したというのが真相のようです」。

なお、厚生労働省の関連リンク集では、
FDA:Food and Drug Administration(米国食品医薬品局)としています。
(通常、食品薬品庁と表記されることはない)
また、女史という表現は、現在では「性差別語(sexist language)」の一つに挙げられていると理解します。

https://yakugai.akimasa21.net/thalidomide-outline/
https://yakugai.akimasa21.net/thalidomide-kelsey/

レンツ警告(1961/11/15)について

「西ドイツでは、小児科医ノバック・レンツのもとに1961年6月5日以降続々と奇形児出生の報告が寄せられ、レンツは11月8日に至ってサリドマイドをその原因と疑い、11月18日のデュッセルドルフの会議において「サリドマイド剤を直ちに回収するように」警告を発しました」。(片平1997,p.33)

片平1997では、「小児科医ノバック・レンツ」としています。
なるほど、「サリドマイド胎芽病の過敏期(82例)」では、ノバック・レンツという表記になっています。

しかしながら、この表について、増山編1971(木田p.137)は「この点に関してはノバックとレンツの詳しい研究がある」とした上で、彼らの研究結果である「サリドマイド胎芽病の過敏期(82例)」について、それこそ詳しく解説しています。

ノバック(E Nowack)とレンツ博士(Widukind Lenz)は別人です。

さて、レンツ警告をめぐるストーリーについて、私は以下のように考えています。
https://yakugai.akimasa21.net/thalidomide-lenz/

片平1997には、「小児科医ノバック・レンツのもとに1961年6月5日以降続々と奇形児出生の報告が寄せられ」とあります。

しかしその当時、レンツは多忙を極めていました。
そうした中で、新しいタイプの奇形児発生には強い関心を持っていたものの、自らが次々と報告を受け取れる状況にはなかったと考えます。

片平1997には、「レンツは11月8日に至ってサリドマイドをその原因と疑い」とあります。

しかしながら、レンツ博士が新しいタイプの奇形児発生について、本格的な調査を開始したのは11月9日とされています。
そしてその直後(11月13日)、サリドマイドが疑わしいとの結論を出しています。

片平1997には、「11月18日のデュッセルドルフの会議において「サリドマイド剤を直ちに回収するように」警告を発しました」とあります。

しかしながら、レンツ博士は、11月18日には小児科学会地方会で発言していますが、この学会上ではサリドマイドの名前を出すことはありませんでした。つまり、同日に警告は発していません。
なお、11月18日に開かれたのは、あくまでも地方学会です。それをデュッセルドルフの会議という表現にしてしまうと、11月24日にデュッセルドルフで行われた三者会談(グリュネンタール社、レンツそして行政当局)と混同してしまう恐れがあります。

片平著では、「レンツ警告=1961年11月15日」という一番大切な日付が欠落しています。

しかしながら、レンツ警告が発せられたのは、あくまでも11月15日のことです。
当日、レンツはグリュネンタール社に電話をしました。
それに対応したのが、サリドマイド開発者のミュクター博士でした。
そして、11月20日、グリュネンタール関係者とレンツの会談が始まりました。

グリュネンタール社は、終始レンツに理不尽な態度をとったようです。
しかしながら、同社は、何はともあれ交渉のテーブルについています。
そして、結果的に、早い段階で販売を中止し、回収作業を徹底して行いました。

それに対して、日本では、梶井正博士(北海道大学医学部小児科)が、サリドマイドの催奇形性を疑うデータを持って大日本製薬(株)札幌支店を訪問したにもかかわらず、その後、全く何の反応も示すことはありませんでした。(時期は、Lancet投稿直後、1962年6月末から7月の間)

梶井は、この時同時に、北海道庁衛生部も訪問しましたが、特に何の動きもありませんでした。
同社と国(厚生省)は、レンツ警告や梶井データを受け取った後も、そろって警告を無視し続けました。

薬事審議会と事務局限りの包括建議について

包括建議とは、多数の案件を円滑に処理するためとして、薬事審議会(薬審)に諮ることなく、〈事務局限り〉(厚生省薬務局製薬課)で処理を行っていた制度のことです。
対象となったのは、その当時常態化していたゾロ品(後発のまね薬)などです。
つまり、イソミンのような新医薬品(日本国内で初めての医薬品)は、通常は対象とならないはずでした。

片平1997では、イソミンの製造承認をめぐる出来事に関して、次のようにまとめています。
「厚生省は9月9日に中央薬事審議会の下部組織である新医薬品調査会において、わずか1時間半の書面手続きだけで製造の承認を与えました」。(片平1997,p.35)

私には、「〈書面手続きだけで〉製造の承認を与えました」という文言の意味がよく分かりません。
1957年9月2日、新医薬品調査会の開催通知が各委員に発送され、9月9にはそれらの委員が集まって〈審議をした〉ことは間違いありません。
それを、ことさら〈書面手続きだけで〉という表現になっているのは、何か意味があるのでしょうか。

イソミンは、日本国内では初めての医薬品(新医薬品)でした。
したがって、もちろん薬事審議会の対象品目とみなされます。
つまり、ゾロ品(後発のまね薬)ではありませんから、包括建議の対象となることはないはずです。

ところが、イソミンの申請書には、「先進国では既に発売されている医薬品である」という情報が添付されていたというのです。
こうして、イソミンは、包括建議(第八項)の対象とされました。
その結果、専門家の審議(新医薬品調査会)は必要としたものの、薬事審議会にかけられることなく製造販売許可を得ました。
そこには、製薬メーカーと厚生省の深いつながりが感じられます。

さて、改めて片平1997,p.35を確認すると、「「米国、独国(一部略)等において既に製造販売されている有名医薬品で効能の他の内容が適当なもの」(他に7項目)」はいわば事務手続きだけで製造を認めてよいとしていた」となっています。

しかしながら、この個所は言葉足らずであると考えます。

包括建議(第八項)に該当する品目だけは、ゾロ品(後発のまね薬)などの扱い(第1~7項)とは異なり、〈書面手続きだけ〉で済ますことはできませんでした。
だからこそ、少なくとも新医薬品調査会(薬事委員会の下部組織)で審議されたのです。

結論として、ここの文章が「新医薬品調査会の審議」=「(厚生省薬務局製薬課による)書面手続きだけ」とする内容であるとするならば、間違いだと考えます。

自主的に出荷中止/イソミンとプロバンM(朝日夕刊1962/05/17付け)

片平1997では、「日本国民がサリドマイド事件について知らされたのは1962年8月26日、北海道大学梶井正氏の学会報告を読売新聞が報道したのが最初だった」としています。(片平1997,p.36)

この新聞記事によって、やっと日本国内にもサリドマイド患者がいることが公になりました。
ただし、上記文章では、読売新聞の報道=1962年8月26日付けの記事と読み取れます。

私は以前から、「梶井博士のランセット掲載(1962年7月)に続く地方会での発表(8月26日)、そして読売新聞スクープ(8月28日)あるいは販売中止(9月13日)の日付を時系列で正確に伝えている資料は極めて少ない」ことを残念に思っています。

そして片平著では、「自主的に出荷中止/イソミンとプロバンM(朝日新聞・1962/05/17付け夕刊記事)に言及していないのもまた残念なことです。

「奇妙なのは日本のマスコミで、レンツ警告以後、欧米のマスコミはサリドマイド事件を次々と報道しているのに、日本ではいっこうに報道されませんでした」(片平1997,p.36)とありますが、この論調は、木田1982と全く同じです。

しかしながら、朝日新聞記事(1962/05/17付け夕刊)こそ、わが国でのサリドマイド事件の第一報(いわゆるマスコミ報道)であることは間違いありません。

サリドマイドに関する時効は、国内で初めてサリドマイド禍が報道された同記事から3年と判断されました。
そして実際に、「こどもたちの未来をひらく父母の会」(サリドマイド児の父母の会)では、「とりあえず時効の中断手続きをとるため、大急ぎで原告予定者のリストを作成して東京地裁宛に投函した」という事実があります。

それより何よりも、朝日の記事は以下のように非常に多くの問題を含んでおり、日本のサリドマイド事件の中で、重要なポイントになっていると考えます。

朝日新聞記事は、日本国内のサリドマイド児の存在を否定しました。
翌日の同朝刊記事では、専門家による長文のコメント「悪影響の実例、日本ではない」を掲載しました。
その内容は、「妊娠中の婦人で睡眠薬を使用された方はけっして心配することはないと思う」という、レンツ警告(疫学調査)を全く無視したものでした。
厚生省も同様に、新聞記事の1週間後、「国内ではまだ患者についての報告が一件もない」という通達を出しました。

こうして、出荷停止の措置は取られたものの、既に出荷された商品は回収されることなく、その後も薬局で売られ続けました。
つまり、朝日新聞スクープは、日本国内におけるサリドマイド製剤の販売中止を決定付ける要因とはなりませんでした。
その後に続いた読売新聞スクープ(梶井データの紹介)によって、やっと、日本国内の被害の実態が明らかにされました。

以上、私なりの気付きです。

レンツ警告以降もイソミンの販売量が減少することはなかった

紙の書籍『サリドマイド事件(第三版)』(アマゾン・ペーパーバック版:POD版)を出版しました(2023年2月20日刊)。内容はKindle版(第七版)と同じです。現在の正式版は、アマゾンPOD版(紙の書籍)としています。(最新:2023/02/25刷)

POD版、Kindle版共に、Web版よりもきちんとまとまっています。(図版も入っています)

Web版の方が分量の多い箇所も、一部あります。ただし、Web版は全て〈参考資料〉の位置付けです。このWebをご覧いただく際には、〈未完成原稿〉であることをご了解くださいますようお願いいたします。

新聞広告量とサリドマイド児発生数(高野哲夫グラフ)

高野哲夫(立命館大学)は、中森データを使用して「新聞広告量とサリドマイド児発生数」の経時変化を示したグラフを作成している。(高野1981,p.127)

注)アマゾンKindle版には図表が入っています。

高野グラフでは、中森の調べた新聞広告量(棒グラフ)と、日本先天異常学会によるサリドマイド児発生数(折れ線グラフ)を組み合わせて表示している。

注)イソミンの新聞広告は1961年11月でぴたりと途絶え、それ以降は、1961年5月から新聞広告を出し始めたプロバンMが急速に掲載量を増やしていった。
なお、1962年は5月(出荷中止)までのデータとなっている。

改めてグラフを確認すると、新聞広告量(イソミン+プロバンM)は1961年にピークを示し、サリドマイド児発生数は1962年にピークを迎えている。
また、両者のピーク前後における増減傾向はよく似ている。

高野は、自身の作成したグラフについて、「サリドマイド剤の新聞広告と奇形児発生とのあいだに見事な平行関係が認められている(ママ)」としている。

しかしながら私は、サリドマイド剤の新聞広告と奇形児発生との間の「並行」関係は、ただ単に相関関係があるように見えるだけであり、因果関係があることの証明にはならないと考えている。

新聞広告量とサリドマイド児発生数(佐藤嗣道による紹介)

佐藤嗣道(自身もサリドマイド被害者)は、第1回医薬ビジランスセミナー(1997年9月)でこの高野グラフを紹介している。

そして、「レンツ警告を境に睡眠薬の広告をやめ胃腸薬プロバンMを大々的に売りまくったということで、一種の在庫整理と言われてもしかたがないやり方です」と説明している。(ビジランス1999,佐藤p.43)

しかし、そうした事実は確認できない。

中森の新聞広告量と販売量の関係を追求した努力には頭が下がる思いである。
とはいえ、イソミンとプロバンMの新聞広告量の経時変化のみから両者の販売量を推し量ることは、元々不可能であったと言わざるを得ない。

なお、佐藤は公益財団法人いしずえの理事長として、第16回薬害根絶デー(2015年8月)でもこの高野グラフを紹介している。(佐藤2015スライド原稿)

イソミンに替えてプロバンMのみ売りまくったという事実は確認できない

新聞広告量(イソミンとプロバンM)の増減は、果たしてイソミンとプロバンMのそれぞれの販売量に比例しているのだろうか。
さらには、サリドマイド児出生数の増減と比例していると言えるのであろうか。

以下にて、改めて確認をしておこう。

イソミンの販売量は「1962年1月~4月」にピークを迎えた(梶井データ)

梶井正(北海道大学医学部)は、日本におけるサリドマイド児発症数を4か月ごとにまとめて集計している。

梶井データによれば、日本における発症数のピークは「1962年9~12月」にある。
つまり、その8か月前の「1962年1月~4月」に最も多くの妊婦がサリドマイド製剤を服用したことを示唆している。

レンツ警告(1961年11月)の翌年のことであり、朝日新聞スクープ「自主的に出荷中止/イソミンとプロバンM」(1962年5月17日付け夕刊)よりも前の時期である。

なお、梶井データでは、サリドマイド製剤の販売量として北海道における店頭販売量を採用している。
そしてその販売量は、「1962年1月がピークで、1963年1月にゼロであった」。(平沢1965,p.200)

この販売量は、各社の錠剤のみを合計したもので、その中にプロバンMは含まれていない。
したがって、実質的にはイソミンの販売量そのものと見なしてよいであろう。

注)大日本製薬(株)のサリドマイド製剤だけで各社売上合計の90~95%を占めていた。
注)北海道におけるサリドマイド製剤の店頭販売量と全国のサリドマイド販売量との間にはきれいな比例関係がある。(増山編1971,吉村p.256)

イソミンの販売量はレンツ警告以降も減少していない(大日本製薬公表データ)

「大日本製薬が公表したイソミン販売量と奇形児出生数」(プロバンMを除く)の表を改めて確認してみよう。(増山編1971,吉村p.243)

その表から私なりの集計をした結果、イソミンの販売量(錠数)は年ごとに倍以上の伸びを示しており、出荷中止(1962年5月)まで増加し続けていたことが分かった。⇒(イソミン販売量が大日本製薬(株)から公表されている)

川俣は、イソミンの売上高に関して次のデータを引用している。

すなわち、影山喜一1972によれば、イソミンの販売額は、1958年(4,400万円)、1959年(6,100万円)、1960年(1億3,900万円)、1961年(3億2,500万円)そして1962年は出荷中止(5月17日)までの4か月半で(1億6,100万円)となっている。
(影山1972,p.326、川俣2010,p.35)⇒後日影山文献のコピーを入手して確認。

原文献を確認すると、「販売額は既発表の数量を定価で換算したため、実際よりも多目になっていると思われる」としている。

そこで、影山データの販売額から年ごとの増加率を計算してみた。
すると、私なりに集計した年ごと販売量(錠数)の増加率と極めて近い数値となった。
もちろん、私なりに集計した年ごとの販売額(1錠10円で計算)とも似通っている。

影山データも私と同じく大日本製薬(株)の公表データ(錠数)をベースにしていることは間違いない。
なお、影山データ(販売額)では、1錠当たりの定価を10円80銭強として計算しているようである。

いずれにしても、イソミンの売上高は出荷中止(1962年5月)まで増加し続けている。

プロバンMの販売量は、1961年の秋から1962年の冬にかけてピークに達した(大日本製薬の話)

サリドマイド裁判において、大日本製薬(株)の取締役は、イソミンとプロバンMの売上高について次のように証言している。

「プロバンMというのは、期におきましては、大体一億ちょっと越したぐらいですから、37年ごろ。(中略)イソミンは大体一番多いときで6~7千万です」。(サリドマイド裁判1976,第4編,p.264)

注)四半期決算(3か月ごと)の数値である。

そして、「(大日本製薬によると)プロバンMの販売量は、1961年の秋から1962年の冬にかけてピークに達した」という。(平沢1965,p.205)

以上、梶井データと大日本製薬の公表データ(いずれもイソミン販売量)及び大日本製薬の話(プロバンMの販売量)を総合すると、日本のサリドマイド製剤は、レンツ警告(1961年11月)の翌年になって最も売上げを伸ばしたものと思われる。

サリドマイド児の原因薬剤別(イソミンとプロバンMなど)発症数は公表されていない

レンツ警告(1961年11月)以降、“イソミンに替えてプロバンMのみを売りまくった”というのが事実であるならば、「1962年9~12月」以降に生まれたサリドマイド児は、圧倒的にプロバンMによるものが多くなっているはずである。

しかしながら、サリドマイド児の原因薬剤別(イソミンとプロバンMなど)発症数を示したデータは公表されていない。
結局のところ、“イソミンに替えてプロバンMのみを売りまくった”という事実を証明する資料は何一つ無い。

<<前のページ・・・次のページ>>

参考URL

大日本製薬(株)が公表したイソミン販売量と奇形児出生数

紙の書籍『サリドマイド事件(第三版)』(アマゾン・ペーパーバック版:POD版)を出版しました(2023年2月20日刊)。内容はKindle版(第七版)と同じです。現在の正式版は、アマゾンPOD版(紙の書籍)としています。(最新:2023/02/25刷)

POD版、Kindle版共に、Web版よりもきちんとまとまっています。(図版も入っています)

Web版の方が分量の多い箇所も、一部あります。ただし、Web版は全て〈参考資料〉の位置付けです。このWebをご覧いただく際には、〈未完成原稿〉であることをご了解くださいますようお願いいたします。

イソミン販売量が大日本製薬(株)から公表されている

吉村功(名古屋大学助教授)の論文の中に、「大日本製薬が公表したイソミン販売量と奇形児出生数」(プロバンMを除く)の表がある。(増山編1971,吉村p.243)

全国を9つの地域に分けて(北海道、東北、関東、中部、北陸、近畿、中国、四国、そして九州)、イソミン発売年の1958年(昭和33)から、回収決定の翌年1963年までの各種数字を、以下の項目ごと(年ごと)に並べたものである。

  • A=イソミン販売量(錠)
  • B=奇形発生数
  • C=出産児数
  • D=年度別奇形発生に関与したと思われる販売量(錠)
  • X=妊婦のサリドマイド服用率の推定値=D/C
  • Y=奇形発生率=B/C×100,000

イソミン販売量Aとは大日本製薬(株)からの「出荷量」のことか

イソミン販売量Aとは、「大日本からの出荷量である可能性が大きい。もしそうであれば、発売前後と出荷停止前後には、特別な政策的配慮をしている可能性が大きい」。(増山編1971,吉村p.252)

つまり、発売前後には、まずはまとまった数量を卸に出荷した可能性があること、そして、出荷停止直前には、できる限りの在庫を卸に押し付けた可能性があることを示唆している。

なお、この販売量Aは、イソミンの販売量(錠数)のみであり、プロバンMなどの販売量は未公表となっている。

私なりにイソミン販売量を集計してみた

大日本製薬(株)公表のイソミン販売量(地域別)を集計して、全国計(年度ごと)を算出してみた。なお、対前年増加率を付記した。

  • 1958年(4,069,824錠)、対前年増加率(-)、1月20日新発売
  • 1959年(5,589,132錠)、対前年増加率(137.3%)
  • 1960年(12,845,942錠)、対前年増加率(229.8%)
  • 1961年(30,003,608錠)、対前年増加率(233.6%)
  • 1962年(14,871,632錠)、対前年増加率(49.6%)、5月17日出荷中止

イソミン発売(1958年1月)の年と比べて、その翌年1959年はわずかに増加傾向を示している。そのことから、初年度からそれなりの売上げを達成したと言えなくもない。

ただし、この販売量(錠数)が大日本製薬(株)からの出荷量とするならば(上記吉村説)、発売年には、押し込み(まとまった数量を卸に押し付けた)が行われた可能性も考えられる。

1960年、1961年と販売量は年ごとに倍以上伸びている。そして1961年にピークを迎える(前年比約2.3倍)。

1962年は、出荷中止(5月17日)をした年である。しかしながら4か月半で、ピーク時(1961年)の半分近くの販売量(錠数)となっている。ただし、最終年には最後の押し込みが行われた可能性も否定はできない。

いずれにしても、イソミンの販売量(錠数)は、年ごとに倍以上の伸びを示す勢いであった。そして、自主的に販売を中止した年(1962年)でも販売ペースに減少傾向は見られていない。

なお、このイソミン販売量の増加傾向(年率)は、日本におけるサリドマイド児の出生傾向とよく一致している。⇒(日本におけるサリドマイド被害者の出生年と男女比(いしずえ))

私なりに奇形発生数を整理してみた

大日本製薬(株)公表の症例数(地域別)を集計して、全国計(年度ごと)を算出してみた。すると、高野哲夫のグラフ「アンケート調査の年ごと出生数」の年度別症例数とほとんど同じであることが分かった。

高野データは、森山豊(東大分院教授)による日本先天異常学会のアンケート調査(936症例)を採用している。したがって、大日本製薬(株)の公表データは、先天異常学会データを参考にしたものと推測される。

ちなみに、私の集計結果(大日本製薬データ)と高野データ(先天異常学会データ)を併記すると以下のようになる。

1958年73症例(高野データ76症例)、1959年63(高野61)、1960年98(高野97)、1961年149(高野153)、1962年334(高野337)、そして1963年219(高野212)である。

総計は936症例で両者一致している。⇒(高野哲夫:アンケート調査の年ごと出生数)

大日本製薬(株)の公表データは、実はサリドマイド仮説を支持している

吉村は、大日本製薬(株)から得られたデータのみを駆使して、それらの数値が持つ意味、あるいは数値の中に潜む歪みなどを徹底的に分析した。

そしてその結果、同じデータを使って行われた大日本製薬(株)や一部の学者の主張は間違いであることを証明した。

つまり、「大日本の公表したデータが、その主張と正反対に、サリドマイド仮説を支持する有力な証拠になっている」ことを示した。(増山編1971,吉村p.254)

吉村は、統計学的処理をきちんと行って再検討した結果、大日本製薬(株)や一部学者とは全く異なる結論を導き出したのである。

<<前のページ・・・次のページ>>

日本におけるサリドマイド被害児数(梶井データ/いしずえデータ)

紙の書籍『サリドマイド事件(第三版)』(アマゾン・ペーパーバック版:POD版)を出版しました(2023年2月20日刊)。内容はKindle版(第七版)と同じです。現在の正式版は、アマゾンPOD版(紙の書籍)としています。(最新:2023/02/25刷)

POD版、Kindle版共に、Web版よりもきちんとまとまっています。(図版も入っています)

Web版の方が分量の多い箇所も、一部あります。ただし、Web版は全て〈参考資料〉の位置付けです。このWebをご覧いただく際には、〈未完成原稿〉であることをご了解くださいますようお願いいたします。

日本におけるサリドマイド胎芽症の出生頻度(梶井データ)

梶井正(当時、ジュネーブ大学助教授)は、日本のサリドマイド裁判で原告側証人として出廷している(1971年10月、東京地裁)。

その時の尋問で取り上げられた資料の一つに、「甲一二九号証の一」がある。梶井が自ら作成した資料である。(藤木&木田1974,梶井証言p.166)

私なりに、出生児数の部分(棒グラフ)を取り出して、「サリドマイド胎芽症の出生頻度を示すヒストグラム(180例)」として以下のようにまとめてみた。なお、元データそのものが、発症数(死産も含む)を4か月ごとに集計したものとなっている。

注)アマゾンKindle版には図表が入っています。

症例数は180例で、ランセット投稿(7症例)後の自験例に加えて、全国の大学へのアンケート結果や文献から収集したものである。なお、生年月日を付き合わせることによって、重複例を除去している。

梶井は、できる限り患者及び両親のところに自ら出かけて行き、詳しい聞取り調査を行なっている。北海道内はもちろんのこと、本州の事例についても出張の都度可能な限りの調査をしている。梶井の臨床家としての資質、真摯な調査態度によってデータの正確性が高められている。

1962年1月以降にサリドマイドを服用した母親から生まれた患者数は全体の約43.9%に達している

梶井データからは次のようなことが分かる。

  1. 初めての発症例は、「1959年9~12月」にある。
    ⇒イソミンの発売は1958年1月(昭和33)だが、それから1年半以上発症例は無かった。
  2. 発症数のピークは、「1962年9~12月」にある。
    ⇒レンツ警告(1961年11月)の翌年、「1962年1~4月」に最も多くの妊婦がサリドマイドを服用した。
    ⇒レンツ警告に対して、何の措置も取ることなく被害を拡大させた。
  3. 「1963年1~4月」の発症数は、その前の4か月(ピーク時)の1/3まで減少している。
    ⇒出荷中止(1962年5月)以降、サリドマイドを服用した妊婦の数は大幅に減少した。
    ⇒町の薬局の在庫量が減ってきたためとも考えられる。
  4. 回収決定(1962年9月)の翌年、「1963年5~8月」以降及び1966年の発症例が確認されている。
    ⇒回収作業そのものが徹底していなかったため、その後も継続して被害が生じた。

結論として、「1962年9~12月」以降の生まれ、つまり、「1962年1~4月」以降にサリドマイド製剤を服用した母親から生まれた患者数は、全体の43.9%に達している。

日本におけるサリドマイド被害者の出生年と男女別(いしずえ)

認定患者数(いしずえ)は309人である

「財団法人いしずえ」のホームページを確認(2013/01/24閲覧)すると、「サリドマイドと薬害」のページに、「日本におけるサリドマイド被害者の出生年と男女別」の表が示されている。私なりにそれをグラフ化して以下のようにまとめてみた。

注)アマゾンKindle版には図表が入っています。

年ごとの内訳は以下のとおりである。なお、対前年増加率を付記した。

  • 1959年生(男6、女6)12、対前年増加率(-)
  • 1960年生(男16、女9)25、対前年増加率(208.3%)
  • 1961年生(男34、女24)58、対前年増加率(232.0%)
  • 1962年生(男88、女74)162、対前年増加率(279.3%)
  • 1963年生(男24、女23)47、対前年増加率(29.0%)
  • 1964年生(男2、女2)4、対前年増加率(-)
  • 1969年生(男1、女0)1、対前年増加率(-)
    合計309(男171、女138)

1959年:イソミン発売の翌年、最初の被害児が生まれている

  • 1960年・1961年は年ごとに倍以上増加して、レンツ警告の翌年(1962年)ピークに達する。
  • その傾向は、大日本製薬(株)が公表しているイソミン販売量の増加傾向(年率)とほぼ一致している。⇒(イソミン販売量が大日本製薬(株)から公表されている)

1962年:レンツ警告の翌年、ピークに達している

  • 1962年生のサリドマイド児の母親がサリドマイドを服用した時期は、おおまかには1961年5月~1962年4月と考えられる。
  • サリドマイドの販売錠数(年間合計)は1961年がピークとなっている。したがって、1961年5月~12月(8か月)にサリドマイドを服用した母親の数は非常に多かったと考えられる。
  • レンツ警告(1961年11月)の年に販売を中止しておれば、1962年1月~4月(4か月)の服用は避けられたことになる。つまり、1962年9月~12月(4か月)のサリドマイド児出生はなかったはずである。

1963年:前年(ピーク時)の1/3以下に急減して一応の終息をみている

  • 1963年生のサリドマイド児の母親がサリドマイドを服用した時期は、おおまかには1962年5月~1963年4月と考えられる。
  • 出荷中止(1962年5月)及び販売中止(1962年9月)によって、サリドマイドを服用した母親が減少した結果、サリドマイド児は減少したと考えられる。
  • しかしながら中には、販売中止以降に販売されたサリドマイド製剤(1962年9月~1963年4月)で被害に会った患者がいた可能性もある。さらには、家庭内で手持ちしていた残薬によるものもあるだろう。

1964年:少数例ながら発症がある

  • 1964年生のサリドマイド児の母親がサリドマイドを服用した時期は、おおまかには1963年5月~1964年4月と考えられる。
  • その間の服用が、新たに薬局で購入したものか家庭内で手持ちしていた残薬によるものかは分からない。

1969年:それからさらに5年後、最後の被害児が生まれた

  • 1969年の1例は、「母親が妊娠中に不眠のため、娘時代に購入し保存してあったイソミンを服用」したもので、「(その後)保存してあった空き箱を提出した。現地調査を行ない、その背景が認められた」。(木田1982,p.162)

1962年9月以降の生まれが100人いる

“いしずえ”データによれば、1962年生まれのサリドマイド児の数が一番多くなっている(前年比279.3%)。

この母親たちがサリドマイドを服用した時期は、おおまかには1961年5月~1962年4月である。つまり、1961年5月ごろから1962年4月(あるいは5月の出荷中止)にかけての約1年間、サリドマイド販売量はピークに達したと考えられる。

ところで、栢森良二(帝京大学医学部)は、「1962年9月以降に生まれたサリドマイド児が100名ほど」いるとしている。(栢森1997,p.42)

もしもこの数字が、“日本の認定患者309名中の100名ほどは1962年9月以降に生まれた”ということであれば、その比率は全体の約1/3ということになる。

またこの数値から、「1962年9月~12月」(4か月間)に生まれたサリドマイド児の数、言い換えると、「1962年1月~4月」(4か月間)にサリドマイド製剤を服用した母親の数を計算すると以下のようになる。

100人(1962年9月以降の生まれ)-(1963年生47+1964年生4+1969年生1)=48人であり、これは、1962年生162人中の29.6%を占めている。

つまり、「1962年1月~4月」(4か月間)にサリドマイド製剤を服用した母親の数(48人)は、「1961年5月~1962年4月」(12か月間)のうちの4か月分平均(54人)よりも多少ではあるが少なくなっている(有意差があるかどうかは不明)。

これに対して、上記梶井データでは、「1962年1月~4月」(4か月間)に服用した母親の数が一番多いとしている。梶井データは4か月ごとの集計であり、いしずえデータ(1年ごと集計)よりも細かい変化を正確に捉えていると考えられる。

両者を合わせ考えれば、日本国内でサリドマイドを服用した母親の数は、「1961年春から1962年5月(出荷停止)にかけてピーク状態を維持していた」ことは間違いない。

<<前のページ・・・次のページ>>

サリドマイド製剤の催奇形性の強さ(コンテルガン、イソミンそしてプロバンM)

紙の書籍『サリドマイド事件(第三版)』(アマゾン・ペーパーバック版:POD版)を出版しました(2023年2月20日刊)。内容はKindle版(第七版)と同じです。現在の正式版は、アマゾンPOD版(紙の書籍)としています。(最新:2023/02/25刷)

POD版、Kindle版共に、Web版よりもきちんとまとまっています。(図版も入っています)

Web版の方が分量の多い箇所も、一部あります。ただし、Web版は全て〈参考資料〉の位置付けです。このWebをご覧いただく際には、〈未完成原稿〉であることをご了解くださいますようお願いいたします。

ヒトのサリドマイドに対する感受性は極めて高い

ヒトのサリドマイドに対する感受性の強さについて、レンツ教授は次のように語っている。

「西ドイツでの調査によると、外観に異常がなくても、危険期に服用した母親から生まれた児には、必ず異常が発見できた」。(シェストレーム1973,増山:序に代えてp.8)

サリドマイドの感受性は種差が非常に大きい

「催奇形に必要なサリドマイドの最低量(mg/kg)」は、イヌ100、マウス31、ラット10、サル10に対して、ウサギ2.5、そしてヒト(0.5-1.0)mg/kgとなっている。(「PMDA サリドマイドの非臨床における概括評価書」より)

注)PMDA:独立行政法人 医薬品医療機器総合機構

このデータを見ると、サリドマイドに対する感受性は種差が非常に大きく、特にヒトの感受性は極めて高いことが分かる。

「サリドマイドの毒性に対する感受性は動物によって大きく異なっていて、マウスなどの実験結果に基づいてその安全性を判断することが難しい物質であることが今では判明」している。(国医食衛研2015,p.8)

なお、サリドマイドの催奇形性を初めて証明した実験動物はウサギ(1962年)である。さらに、「アカゲザルを用いた実験でヒトとまったく同様の奇形が生ずること」(1964年)が報告された。
Somers GF:Lancet,2,912-913,1962.
Delahunt CS,and Lassen LJ:Science,146,1300-1305,1964.
(アニテックス1993,p.53)

1回2錠(サリドマイド50mg)で発症したケースが有る

上記のヒトにおける感受性の最低量(0.5-1.0mg/kg)は、体重50kgの成人に直すと、コンテルガンやイソミンの1錠(サリドマイド25mg含有)あるいは2錠(サリドマイド50mg相当)にちょうど当てはまる量となる。

実際の臨床例として、西ドイツでは、薬局で買い求めたコンテルガン(サリドマイド25mg錠)を1回2錠飲んだだけで発症したケースが紹介されている。(栢森2013,p.17)

日本でも、イソミン(サリドマイド25mg錠)を1回2錠その次に4錠と、1週間おきに2回服用(合計150mg)しただけで発症した実例がある。
この例では、日々の仕事に疲れて寝つきの悪かった妻が、夫の常備薬を服用したために障害児が生まれている。(平沢1965,p.19)

高橋晄正(東大医学部講師)は、「東京都立築地産院における妊娠中のイソミン投与114例」について、約10年後に改めて分析を行った。
そしてその結果、「(サリドマイドの)危険期を求めるなら最終月経の第1日から数えて36~44日」という結論を導き出した。⇒(高橋晄正(東大医学部講師)による処方分析)

その危険期にイソミンを投与された妊婦は3名おり、1日50mgの継続投与でいずれも奇形児を生じ、いずれも死産となっている。
また第4例として、44日目からサリドマイドを服用した可能性のある母親がいるが、正常児を生んでいる。

つまり、確実に薬を服薬したかどうか分からない例(1例)を除いた場合には、危険率100%(3例中3例とも発症)となる。

催奇形性の強さ(イソミンとプロバンMで違いはあったのだろうか)

イソミンとプロバンMは共に催奇形性を有していた

イソミン(サリドマイド25mg錠)とプロバンM(サリドマイド6mg含有の胃腸薬)は、共に催奇形性を有していたことは間違いない。
ただし、イソミンとプロバンMを比べた場合、両剤間で1錠当たりどの程度のリスク差があったのか確かなことは分からない。

なぜならば、プロバンMの売上高推移及びそれに伴う患者数の推移は公表されていないからである。
そうした中で、ごく一部の限られた範囲とはいえ、次のようなデータが有り参考となる。

つまり平沢によれば、「(サリドマイド児の父親である)中森さんが知っている京都のサリドマイド児は、(中略)7人いる。その過半数の4人は、母親がプロバンMをのんだために、奇形児がうまれた」という。(平沢1965,p.204)

平沢は、その結果について、「庶民にとっては、胃腸薬のほうが、睡眠薬よりもはるかに親しまれている。のむ機会も多い。それだけに被害も大きいのではないか」との見解を示している。

平沢の言うように、プロバンMの方が「のむ機会も多い」、つまりイソミンよりも服薬人数が多かったというのは事実であろうか。
以下にて、私なりに検討してみた。

1962年1月ごろ、イソミン・プロバンM共にその売上高はピークに達した

北海道における店頭販売量の調査結果から、「(サリドマイド製剤の)販売量は、1962年1月がピークだった」ことが分かっている。
なおこの調査では、イソミンを含む各メーカーの錠剤が対象となったものの、プロバンMはそこに含まれていない。(平沢1965,p.200)

そして大日本製薬(株)によると、「(プロバンMの売上高は)1961年の秋から1962年の冬にかけて、ピークに達した」という。(平沢1965,p.205)

以上から、1962年1月(昭和36)ごろ、全国的にみてもイソミン・プロバンM共にその売上高はピークに達したと考えてよいであろう。

1962年1月ごろ、イソミン・プロバンMの販売錠数はほぼ同じだった

サリドマイド裁判の証言で、イソミンの売上高は6~7千万円(一番多いとき)、プロバンMの売上高は1億円ちょっと越したぐらい(37年ごろ)とされている。(サリドマイド裁判1976,第4編,p.264)

これらの売上高(金額)を販売錠数に換算すると以下のようになる。

  • イソミン売上高:7千万円(販売価格10円/錠)⇒販売錠数:7百万錠
  • プロバンM売上高:1億円(販売価格14.3円/錠)⇒販売錠数:699万3千錠

つまり、イソミンとプロバンMは、同一時期(1962年1月ごろ)に売上高ピークとなり、その時のそれぞれの販売錠数はほぼ同じであったと推測される。

参考までに、「大日本製薬が公表したイソミン販売量と奇形児出生数」によれば、最盛期(1961年)のイソミン販売錠数は約3千万錠/年、つまり、750万錠/3か月となっている。
金額に直すと、7,500万円/3か月(1錠10円として)である。

したがって、上記裁判の証言によるイソミン売上高6~7千万円、プロバンM売上高1億円という数値は、四半期決算(3か月)のものと思われる。

1962年1月ごろ、イソミンの方がプロバンMよりも服薬人数が多かった

イソミンとプロバンMの用法・用量を比較すると以下のようになる。

  • イソミンは睡眠薬としては1回2錠(サリドマイド50mg)服用したケースが多い。
  • プロバンM(胃腸薬)の用法用量は不明だが、最大で1回2錠1日4回(サリドマイド48mg)服用した可能性もある。

注)2019年10月現在、薬価収載されているプロパンテリン臭化物錠の添付文書を見ると、「通常、成人には1回1錠(プロパンテリン臭化物として15mg)を1日3~4回経口投与する」となっている。
注)プロバンMの1錠中には、プロパンテリン臭化物7.5mgを含んでいた。

これをみると、服用方法によっては、1日当たりのサリドマイド量がイソミンとプロバンMでほぼ同じになる可能性もあったことが分かる。
ただしその場合、当然ながらプロバンMの服用錠数はイソミンの約4倍必要となる。

イソミンとプロバンMの一人当たり服用錠数を、イソミン:1日2錠、プロバンM:1日6~8錠と仮定してみよう。
つまり、プロバンMの一人当たり1日服用錠数を、イソミンの3~4倍としてみる。

イソミンとプロバンMの販売錠数(総数)は、1962年1月ごろ、ほぼ同数であった。
したがって、プロバンMを服用した人数(1日当たり)は、イソミンの1/3~1/4くらいだったことになる。

つまり、「のむ機会」が多かったのは、プロバンMではなくてイソミンの方であった。

平沢の見解「庶民にとっては、胃腸薬のほうが、睡眠薬よりもはるかに親しまれている。のむ機会も多い。それだけに被害も大きいのではないか」(前述)は、データに基づかないただ単なる憶測に過ぎなかったことがよく分かる。

1錠当たりの感受性の強さを比較検討することはできない

それではなぜ、京都の例のようにごく限られた範囲とはいえ、7人中4人がプロバンMというケースがあったのだろうか。

残念ながら、プロバンMの売上高推移及びそれに伴う患者数の推移が公表されていないため、これ以上イソミンの場合と比較検討することはできない。

プロバンMに関して、きちんとした調査がなされなかったことが悔やまれる。

<<前のページ・・・次のページ>>

サリドマイドの復権 ― サレドカプセル(日本の場合)

紙の書籍『サリドマイド事件(第三版)』(アマゾン・ペーパーバック版:POD版)を出版しました(2023年2月20日刊)。内容はKindle版(第七版)と同じです。現在の正式版は、アマゾンPOD版(紙の書籍)としています。(最新:2023/02/25刷)

POD版、Kindle版共に、Web版よりもきちんとまとまっています。(図版も入っています)

Web版の方が分量の多い箇所も、一部あります。ただし、Web版は全て〈参考資料〉の位置付けです。このWebをご覧いただく際には、〈未完成原稿〉であることをご了解くださいますようお願いいたします。

サリドマイド新たな脚光を浴びる

1964年(昭和39)、全くの偶然からエルサレム・ハンセン病病院(ヤコブ・シェスキン院長)で、サリドマイドがハンセン病患者に多発する難治性の皮膚炎(結節性紅斑)に劇的に効くことが確かめられた。

ところで、ハンセン病患者の多い国としてブラジルが挙げられる。レンツ警告(1961年11月)後、世界中で製造中止されたサリドマイドが、実はその後、南米、特にブラジルで製造され続けていた。ところが、同国ではサリドマイドの安易な使用に伴って、新たなサリドマイド児を数多く生み出してしまっている。

サリドマイドに頼らざるを得ない疾患が確かに存在している。サリドマイドを「「悪魔の薬」から「福音の薬」へ」(栢森1997,p58)と復活させるためには、どの様にして副作用を防止すればよいのであろうか。

以下では、主としてステフェン(邦訳2001)を参考にしてまとめてみた。

米国FDA、サリドマイドを承認(1998年)

1998年7月16日、FDA(米国食品医薬品局)は、サリドマイドをハンセン病に伴う皮膚炎(結節性紅斑)の治療薬として販売許可した。米国におけるサリドマイドは、1960年代初頭に、ケルシー博士によって一度承認を拒否されている。したがって、同国での発売は今回が初めてである。

エイズ対策が目的だった

米国における承認の背景には、エイズの流行があった。エイズ患者のカポジ肉腫にサリドマイドが非常によく効くのである。そこで、米国内の患者は闇市場でサリドマイドを買い求めていた。

FDAとしては、流通経路の不透明なサリドマイドが、規制を逃れて出回ることを防ぎたいところである。サリドマイドを承認薬にしておけば、米国産サリドマイドを適応外使用(医師の裁量権)として、エイズ患者に自由に処方することが可能となる。

実際に、1998年7月の承認以降、米国の医師は130以上もの症状に対してサリドマイドを処方しているという。

その多くは自己免疫反応に関するものであり、多発性硬化症、狼蒼(全身性エリテマトーデス、円板状(皮膚)エリテマトーデス)、移植片対宿主病(特に、命にかかわる骨髄移植)、炎症性腸疾患(クローン病、潰瘍性大腸炎)、強皮症、壊疽性膿皮症などが挙げられる。

その後の研究によって、サリドマイドは各種の難治性粘膜皮膚疾患に対する「特効薬」としての地位を確立した。その適応は、例えばハンセン病、全身性エリテマトーデス(SLE)、ベーチェット病、そしてエイズなどに至るまで非常に幅広い。

ただ皮肉なことに、エイズに関しては、その後いくつかの優れた薬剤が開発されたため、サリドマイドの出番は予想よりは少ないようである。

副作用防止のためのSTEPSプログラム

サリドマイドの承認に際しては、STEPS(サリドマイド教育と安全処方のためのシステム)というプログラムの実施が義務付けられており、リスクの非常に高い薬剤の使用モデルとして注目されている。(STEPS:System for Thalidomide Education and Prescribing Safety)

サリドマイドの使用を希望する医師は、まずこのプログラム(STEPS)に登録して、薬理作用、副作用、過去の被害などについて学ぶ。患者に対する十分な情報提供が義務付けられており、処方後は使用状況の監視を受けることになる。当然、調剤できるのは登録済みの薬局に限られる。

STEPSでは、男性も含めて厳格な避妊指導が行われる。その理由は、男性服用患者の体液を通して女性に影響を与えることが分かってきたからである。そして、女性患者には妊娠検査が義務付けられている。もちろん、他者への譲渡は厳禁である。

藤本製薬(株)のサレドカプセル

2009年2月(平成21)、ついに日本でもサリドマイド製剤の販売が再開された。藤本製薬(株)のサレドカプセル100で、効能・効果は「再発又は難治性の多発性骨髄腫」となっている。

ちなみに、製造販売承認年月日(2008/10/16)、薬価基準収載年月日(2008/12/12)、そして発売年月日(2009/02/06)である。

さらに同社では、2011年7月、らい性結節性紅斑に係る効能追加のため一部変更承認申請を行い、2012年5月、らい性結節性紅斑に対する「効能・効果」及び「用法・用量」が追加承認された。

なお現在では、サレドカプセル100に加えて、50mg及び25mg含有製剤の製造承認申請を得て発売している。共にサレドカプセル100と同様の承認条件が付されている。

以下では、サレドカプセル100が発売されるまでの経過について、まとめてみることにする。

医療用医薬品には治験が必須である

ある化合物が治療薬として認められるためには、その化合物が人間にとって有効であり、かつ安全性が高いことが確かめられなければならない。

それを証明するために実施される臨床試験のことを、特に治験〈ちけん〉といっている。新薬開発のための、治療を兼ねた試験という意味であり、通常数千人規模の患者を対象に実施されるものである。

日本国内で治療薬として認められるためには、治験の結果を元に、中央薬事審議会(2001年以降、薬事・食品衛生審議会、厚生労働大臣の諮問機関)による審査を受け、最終的に〈承認〉されなければならない。

さらに、中央社会保険医療協議会(通称:中医協、厚生労働大臣の諮問機関)による審査を受け、〈医療用〉医薬品の大部分は、〈薬価基準〉に〈収載〉されることによって、いわゆる保険が利く薬となる。

大量のサリドマイド製剤が個人輸入されていた

日本国内では、サレドカプセル100が製造販売承認(2008年10月16日)されるまで、サリドマイド製剤の承認は取り消されたままの状態であった。つまり、サリドマイドは保険が利かない薬剤であった。もちろん、日本国内でサリドマイド製剤はどこにも存在しなかった。

ところが、このサリドマイド製剤が医師を通じた個人輸入で急増していた。対象は多発性骨髄腫(血液がんの一種)の患者で、2003年度の輸入量は約53万錠に上っていた。もちろん全額自己負担である。

そこで、当該がん患者団体はサリドマイドの承認を求めて声を上げていた。それに対して、サリドマイドの被害者団体は新たな薬害を防ぐための規制を求めていた。

そうした状況を踏まえて、厚生労働省は「多発性骨髄腫に対するサリドマイドの適正使用ガイドライン」を公表(2004年12月)した。未承認薬としては異例の対策といってよいであろう。

サリドマイド、希少疾病用医薬品(オーファンドラッグ)」に指定される

欧米で承認されているにもかかわらず、国内では未承認の薬剤が幾つかある。

日本での承認に時間がかかり、承認までの医療費が全額自己負担になるなど、特にがん患者などから改善を求める切実な声が上がっている。

こうした患者の要望に応えると同時に、医薬品の安全性を確保するための制度作りが始まった。

2005年01月21日(平成17)、薬事・食品衛生審議会医薬品第二部会の審査において、サリドマイドが「希少疾病用医薬品(オーファンドラッグ)」に指定されることとなった。このことによって、サリドマイドが医療用医薬品として、日本でも復活する(薬価基準に収載される)可能性が高まった。

希少疾病用医薬品(オーファンドラッグ)」とは

オーファンドラッグ(Orphan Drug)「希少疾病用医薬品」とは、医療上の必要性は非常に高いものの対象となる患者数が少なく、多くの生産量を見込めない医薬品のことをいう。

新薬の研究開発には膨大な費用が掛かる。したがって、通常はこのような採算性の低い医薬品を開発しようとするメーカーはなかなか現れない。

オーファンドラッグの指定とは、そのような医薬品を積極的に開発する意欲のあるメーカーに対して、種々の優遇措置を与えて開発を促す制度である。

例えば、ほかの医薬品に優先して審査を受けられる(薬価基準収載が早まる)、開発費の助成が得られる、などである。

なお、オーファンドラッグの指定を受けるには、我が国における患者数5万人未満で、しかも、医療上特にその必要性が高いことが必要条件となる。すなわち、代替する適切な医薬品や治療方法がない、あるいは既存の医薬品と比較して著しく高い有効性又は安全性が期待されること、が求められる。

注)もともと「オーファン」とは、面倒をみる親や親戚がいない、誰も引き取り手のいない子どもを意味する単語(英語)である。

混合診療の解禁に向けて

2005年01月24日、厚生労働省の「未承認薬使用問題検討会議」(座長=黒川清・日本学術会議会長)の初会合が開かれ、サリドマイドなどの〈未〉承認抗がん剤3種類について、〈混合診療〉(保険診療と保険外診療との併用)を認めることで概ね了承された。

日本の医療保険制度では混合診療は原則禁止となっている。したがって、保険対象外の医療技術や薬剤を使用すると、そのほかの保険診療分まで含めて、全額患者が負担しなければならない。

混合診療を認める例外として、特定療養費制度がある

特定療養費制度とは、高度医療を含んだ療養や、特に定められた特別サービスを含んだ療養などにかかる費用のうち、基礎部分については保険給付を行い、特別サービス部門は自己負担とすることによって、患者の医療選択の幅を広げようとするものである。

特定療養費制度は、〈治験〉に参加した患者にも適用される。

その場合、基礎的な診療部分が保険給付の対象となり、それ以外の高度医療部分は被験者の代わりに企業(依頼者)が その費用を負担することになる。したがって、患者の負担はかなり軽減されることになる。

未承認薬使用問題検討会議の結論は、サリドマイドが承認(薬価収載)される前であっても、治験に参加して当該医薬品による治療を受ける場合には、 特定療養費制度の運用によって、保険給付を受ける道が開かれたということを意味している。

サリドマイドの承認申請を目指している藤本製薬(株)では、1月24日(2005年)には既に被害者団体と面談したとしており、引き続き話し合う場を設けたいとしていた。そしてその後、治験が開始された。

承認条件:TERMS(サリドマイド製剤安全管理手順)を適正に遵守すること

2009年2月(平成21)、種々の手続きを経て、ついに日本でもサリドマイド製剤が再び販売されることになった。

承認条件として、「本剤の製造販売・管理・使用等にあたっては、「サリドマイド製剤安全管理手順」を適正に遵守すること」などが添付文書に記載されている。(サリドマイド製剤安全管理手順⇒TERMS:Thalidomide Education and Risk Management System)

TERMSでは、サリドマイド製剤を安全に使用するために、それを使用する医療関係者や患者などに向けて、守るべき事項を定めている。

サリドマイド系薬物は、抗炎症薬・免疫調整薬として非常に優れた医薬品である。今後とも大切に育てていきたいものである。

<<前のページ・・・次のページ>>

サリドマイド訴訟(因果関係・責任論・損害)

紙の書籍『サリドマイド事件(第三版)』(アマゾン・ペーパーバック版:POD版)を出版しました(2023年2月20日刊)。内容はKindle版(第七版)と同じです。現在の正式版は、アマゾンPOD版(紙の書籍)としています。(最新:2023/02/25刷)

POD版、Kindle版共に、Web版よりもきちんとまとまっています。(図版も入っています)

Web版の方が分量の多い箇所も、一部あります。ただし、Web版は全て〈参考資料〉の位置付けです。このWebをご覧いただく際には、〈未完成原稿〉であることをご了解くださいますようお願いいたします。

証人尋問始まる

1971年2月18日(昭和46)、東京地裁で第1回口頭弁論が開かれ、直ちに証拠調べに入った。証人尋問が始まったのである。以来月平均2回弱のペースで、丸1日を全部使う証拠調べが行われた。

山田伸男(弁護士=サリドマイド訴訟原告弁護団)は、サリドマイド訴訟について、次のようにまとめている。

「サリドマイド訴訟の外形上の特色は、(中略)まず第一に、国を被告としていること、第二に、国あるいは公共的機関が、これまで一度としてサリドマイドと奇形発生という一般的因果関係を研究・調査しないばかりか公にも認めていないことにある。そのため、請求の原因は、「一般的因果関係」「個人別の因果関係」「責任論」「損害」から構成されている」。(ジュリスト1973,No.548,山田pp.335-339)

なお、1971年中には、争点である「因果関係」と「責任論」の大半を原告側申請の証人及び鑑定人計8名でもってほぼ立証した。

因果関係(サリドマイド胎芽病の原因はサリドマイドに有る)

原告側は、以下によってサリドマイド仮説「サリドマイド胎芽病の原因はサリドマイドに有る」を主張した。(No.1,2が最も重要)

  1. 疫学研究によれば、サリドマイド胎芽病は、サリドマイドが販売された場所(国)と時間(期間)でのみ発生している。つまり、サリドマイド販売量の増加・減少とともにピークを形成して最後はゼロになっている。
  2. サリドマイド児を生んだ母親とそうでない母親とをグループ分けした場合、二つのグループ間で、サリドマイドを服用した割合には統計学的に有意差がある。(参考:四分表(2×2表))
  • サリドマイド胎芽病には、ほかの先天奇形と違った法則性(連続性)がある。つまり、各種動物実験(最終的にはアカゲザル)によって、サリドマイドを服用させた時期と障害の現れ方に一定のルールがあることが分かった。
  • ノバックとレンツによって、ヒトの場合でも、服用の時期つまり胎芽の発達段階に応じて、障害される場所が異なることが分かった。つまり、体内で胎児の耳や上肢・下肢などができていく過程のどの時期に服用したかによって、障害の場所と程度が異なることが分かった。既に明らかになっているヒトの胎芽の発育順序法則に従っているのである。
  • そのほか、妊娠初期のサリドマイド服用以外、特に意味のある事項はなく、ほかの原因は見当たらない。

これに対して、被告側は「サリドマイドには催奇形性は認められない」(一般的因果関係)とし、また「妊娠出産は未知の分野が多く、遺伝、突然変異もあり、サリドマイド服用の結果、当該奇形が発生したとの確証はない」(個人別因果関係)と反論した。

責任論(催奇形性をめぐって)

被告側の主張は、「(当時の学問水準では)成人に安全と考えられていた薬が奇形を発生させることは想像すらできなかった」、したがって過失はないというものであった。

これに対して原告側は、時期を分けて(製造販売許可時点、販売後、そしてレンツ警告後)、不法行為に基づく責任根拠を主張した。

つまり、加害企業と国に対して、本質的には毒物である薬(特に未知の新医薬品)については、常に世界最高の学問水準に従った副作用テストを行う高度の注意義務があると主張した。

また、当該企業は、「催奇形性テストもせずに「妊産婦、子どもにも安全」と積極的に表示、宣伝、販売した以上、妊産婦がこれを服用したため生じた結果に対しては、厳格なる責任を負担すべきこと」を主張した。

企業責任における無過失責任主義につながる考え方である。

注)無過失責任:損害の発生について行為者に故意や過失がない場合でも、行為者が損害賠償の責任を負うこと。(法テラス:www.houterasu.or.jp/houritsu_yougoshuu/yougo_mu/mu_1.html)

そして、「疑わしきは消費者の利益」とすべきであり、何か疑わしいと思ったら、その薬は直ちに中止すべきであると主張した。

なお上記引用文中に、「妊産婦がこれを服用したため生じた結果」とあるが、明らかに「妊婦」が服用した結果(サリドマイド児が生まれた)の間違いである。

損害

損害賠償金額は、他国よりも安いとされる自動車事故の損害賠償金額を基準に算定された。これに対して原告側は、人間の身体・生命はもっと尊重されるべきであると強く主張した。

東京地裁における口頭弁論終結

東京地裁における口頭弁論は、1971年2月から1973年12月まで54回開かれた。その間約3年で、証人尋問(原告側・被告側)は全て終了した。最初の提訴(名古屋地裁)から、約10年が経過していた。

山田伸男(弁護士=サリドマイド訴訟原告弁護団)によれば、口頭弁論終結直前の各地裁の状況は次のとおりである。(ジュリスト1973,No.548,山田pp.335-339)

「(1973年)現在、第二次訴訟を含め、東京地裁に39家族、京都、名古屋、大阪、広島、福岡、岡山、岐阜の全国7地裁に24家族、合計8地裁に63家族、請求額総計約23億5,000万円の事件が係属している」。

因果関係・責任を認め、和解申入れ

被告側は、1973年12月14日(昭和48)、「因果関係と責任を争うことをやめる」旨声明を発表した。つまり、サリドマイドによって障害が生じたという因果関係、及び法律上の責任があるということを認め、原告側に正式に和解の申入れを行った。

その後約1年間の交渉の末、全国サリドマイド訴訟統一原告団と国及び大日本製薬(株)との間で和解確認書に調印した(1974年10月13日)。以後、東京地裁で和解が成立(10月26日)したのに続いて、東京以外の全国7地裁でも11月20日までに順次和解が成立した(8地裁63家族)。

ところで、日本のサリドマイド裁判(民事訴訟)では、国及び大日本製薬(株)は全国8地裁の全てで、そしてセイセー薬品工業(株)は東京地裁のみで被告となった。両社以外で被告となったサリドマイド製剤の販売会社は無い。

さて、和解確認書で調印したのは、被告側では国と大日本製薬(株)のみである。そこで同確認書には、「セイセー薬品工業株式会社に係る原告の請求については本確認書に準じて処理する」という一項が入っている。(セイセー薬品工業(株)は和解当時既に倒産していた)

サリドマイド訴訟における和解確認書の特徴として、以下の点が評価されている。

賠償金額が相当大きく、その中で年金部分が物価スライド制になっていること。そして福祉項目の中では、薬に何か不都合があった場合、「まず一旦薬の販売を中止する、場合によっては回収する」というように政府の強制力を強めたことである。

<<前のページ・・・次のページ>>

サリドマイド事件(日本でも民事訴訟始まる)

紙の書籍『サリドマイド事件(第三版)』(アマゾン・ペーパーバック版:POD版)を出版しました(2023年2月20日刊)。内容はKindle版(第七版)と同じです。現在の正式版は、アマゾンPOD版(紙の書籍)としています。(最新:2023/02/25刷)

POD版、Kindle版共に、Web版よりもきちんとまとまっています。(図版も入っています)

Web版の方が分量の多い箇所も、一部あります。ただし、Web版は全て〈参考資料〉の位置付けです。このWebをご覧いただく際には、〈未完成原稿〉であることをご了解くださいますようお願いいたします。

サリドマイド児の父母たち動き始める

サリドマイド児の父母たちは、1962年(昭和37)になってサリドマイド禍の原因追究運動を始めた。

法務省や厚生省を訪ねたり、大日本製薬(株)に抗議を申込むなどした。サリドマイドと障害との因果関係を認めること、そして責任を認めることを求めた。

しかし、人権侵害を地方法務局に訴えて退けられたり、大日本製薬(株)に直接補償を要求して拒否されるなど、納得のいく答えは得られなかった。

中森黎悟さん(サリドマイド児の父親)刑事告発

中森黎悟さんは、1966年12月7日(昭和41)、大日本製薬(株)を薬事法違反及び業務上過失致死傷害罪で京都地検に告発した。しかしながら、京都地検は大日本製薬(株)を不起訴処分と決定した。

それを受けて、中森さんが京都検察審査会に申し立てた結果、京都検察審査会は京都地検の不起訴処分を不当とした。ところが、1970年8月15日(昭和45)、京都地検は再調査でも不起訴と決定した。

そして、担当検事はその翌日和歌山地検へ転出した。

日本のサリドマイド裁判(民事訴訟)の経緯

日本のサリドマイド裁判(民事訴訟)は、1963年6月28日(昭和38)、被害者家族が大日本製薬(株)を相手に、損害賠償請求訴訟を名古屋地裁に提訴したことに始まる。

そしてその後、京都(1964年12月)、東京(1965年11月)などが続き全国で8地裁となった。そうした動きの中で、やがて東京地裁をリーディングケースとして訴訟を進めることになった。

東京地裁では、提訴以来約5年をかけて準備手続が行われ、要約調書が作成された(1970年11月)。

引き続き、証人尋問(原告側・被告側)が約3年にわたって(1971年2月から1973年12月まで)行われた。そして被告側は、1973年12月14日、因果関係と責任を全面的に認め、正式に和解申入れを行った。

なおその間に、1971年11月(昭和46)、全国サリドマイド訴訟統一原告団(45家族)が結成された。

さて、約1年間の和解交渉の末、一時金、年金(物価スライド制)に加えて、財団法人サリドマイド福祉センター(仮称)の設立が決定した。それは間もなく、財団法人「いしずえ」として設立が許可されることになる。

各地で損害賠償請求訴訟が相次ぐ

それではまずは、最初の提訴(名古屋地裁)から証人尋問が始まる前(東京地裁)までの状況について、振り返ってみよう。

1963年6月28日(昭和38)、被害者家族から大日本製薬(株)を相手に損害賠償請求訴訟を名古屋地裁に提訴した(民事訴訟)。これを契機に、京都(1964年12月)、東京(1965年11月)などが続き、それぞれ被告として大日本製薬(株)のほか国を相手として加えている。

なお、東京地裁だけは、さらにセイセー薬品工業(大日本製薬(株)を含むサリドマイド販売会社6社のうちの1社)も加えている(1家族のみ)。(全国8地裁:東京、岐阜、名古屋、京都、大阪、岡山、広島、福岡の各地裁)

西田公一(旧原告弁護団長・いしずえ顧問)によれば、訴訟を起こした当時の様子は以下のとおりである。

当初は各地域ごとの訴訟団の連絡はなかったものの、「間もなく各地域ごとの弁護団、原告団の連絡組織をつくりまして、東京がその中心となりまして、リーディングケースとして訴訟を進めるということになりました」。(ジュリスト1974,No.577,西田p.16)

そこで、以下では主として、東京地裁のケースを中心にまとめた。(いしずえ1984,西田p.17)

1965年5月ごろ、東京の自由人権協会に対して、サリドマイド児の父母の会である「こどもたちの未来をひらく父母の会」から、とりあえず時効の中断手続きをしてほしいと依頼があった。

父母の会の中には、訴訟積極派と消極派があり、訴訟に対する態度が統一されていなかったのである。

本件の時効は、国内で初めてサリドマイド禍が報道された朝日新聞スクープ(1962年5月17日夕刊)から3年と判断された。父母の会から協会に話があった時、時効は目前に迫っており、大急ぎで原告予定者のリストを作成して東京地裁宛に投函した。

そしてその後、結局訴訟と決定した。

1965年11月13日に、患者家族(26家族)が東京地方裁判所に第一次の訴訟を起こした。なおこの時の確定診断は、ちょうどその時国際学会で初来日中のレンツ博士が行った。この間、自由人権協会所属の弁護士が中心となり、弁護団を編成した。

正直いって、勝てるとは思わなかった

「正直いって勝てるとは思わなかった」。西田公一(旧原告弁護団長・いしずえ顧問)の率直な感想である。(いしずえ1984,p.18)

東京地裁に訴訟を起こした1965年11月(昭和40)ごろ、国内でサリドマイドが原因だということをはっきり言っていたのは、梶井正博士(北海道大学医学部講師)だけだった。原告側に有利な証拠は梶井論文しかなかった。その梶井博士は、当時まだ30代の若さであり、医学会における影響力は決して大きいとは言えなかった。

そのうち、沼津の松永英(国立遺伝研究所人類遺伝学部長)が、「自分はサリドマイドが原因であるということを学問的に信ずる」と言って、弁護団に医学的な手ほどきをするようになる。そして、そのほかの協力者も少しずつ増えていった。

東京地裁に提訴以来、争点及び証拠の整理のため34回の準備手続期日が開かれた。その後裁判所が1年くらいかけて検討して、全部の訴訟記録を整理した。そして、120ページにわたる要約調書を作成して準備手続は終結した(1970年11月)。5年がかりだった。

西ドイツ・アーヘン地裁、サリドマイド刑事事件訴訟の打ち切り決定

東京地裁にて準備手続が進められている間に、西欧諸国におけるサリドマイド裁判(民事)は、次々と和解していった。

そして、1970年12月(昭和45)、西ドイツの刑事裁判も終結した。被告9名(いずれもグリュネンタール社の幹部)のうち死亡者などが続出して、裁判継続可能な被告が3名のみとなったため、国連の人権憲章の条項を適用して、長期裁判による被告の負担をなくす措置をとったためである。

ただし、この刑事訴訟は、ただ単に「判決を出さないまま終結した」のではない。

アーヘン地裁は、サリドマイド仮説「サリドマイド胎芽病の原因はサリドマイドに有る」をしっかりと認めている。その点について、イギリスの新聞『ガーディアン』1970年12月19日付けは、次のように伝えている。(増山編1971,平沢pp.162-163)

「裁判所のくだした結論によれば、奇形児を発生させたことは、刑法上、重大な身体傷害をあたえる行為、ときには怠慢のための致死行為ともなる。さらに、これらの奇形および成人における神経障害がサリドマイドのためであることは明らかであり、動物実験の結果、否定的データが出ても、それでもって、この主張をくつがえすことはできない」。

「サリドマイドのメーカー、グリュネンタール社のとった措置は、“良心的かつ労をいとわぬ”製薬会社にはふさわしくなかった。会社側は、サリドマイドに疑いをもったときに、即刻、なんらかの手を打つべきであった。にもかかわらず、会社はそれを歯牙にもかけなかった ― 裁判官は、こうのべているのである」。

大日本製薬(株)、証人尋問が始まる前に、突然和解意向を表明

平沢正夫(フリージャーナリスト)は、西ドイツのサリドマイド刑事事件訴訟打ち切り決定に関して、次のように述べている。

「日本の被告たちは、おそらく、この事態を正しくうけとめたにちがいあるまい。そして、表面上はともかく、心の底では、「勝ち目がない」とハラをくくったであろう」。(増山編1971,平沢p.163)

そのような状況の中で、大日本製薬(株)の社長が突然の和解表明を行った。まだ証人尋問も始まっていない段階での異例とも言える行動について、平沢は次のようにまとめている。(増山編1971,平沢p.158)

「1971年1月8日、大日本製薬の宮武徳次郎社長は、同社の11月期決算を発表するための記者会見で、とつぜん、和解の意向を表明した。これを皮きりに、和解キャンペーンが、被告側から一方的にはじまった」。

「2月16日、宮武社長は、共同被告である国側の代表(厚生省と法務省)とともに、東京地裁民事31部の園田治裁判長に、和解の申しいれをおこなった。その後、2月23日、京都地裁でも、被告側は小西勝裁判長に対し、おなじように申しいれた」。

もちろん、こうした動きで事態が解決するはずもなく、まもなく口頭弁論が開始された。

<<前のページ・・・次のページ>>

ケルシー博士(米国FDA)、米国内でのサリドマイド発売を阻止する

紙の書籍『サリドマイド事件(第三版)』(アマゾン・ペーパーバック版:POD版)を出版しました(2023年2月20日刊)。内容はKindle版(第七版)と同じです。現在の正式版は、アマゾンPOD版(紙の書籍)としています。(最新:2023/02/25刷)

POD版、Kindle版共に、Web版よりもきちんとまとまっています。(図版も入っています)

Web版の方が分量の多い箇所も、一部あります。ただし、Web版は全て〈参考資料〉の位置付けです。このWebをご覧いただく際には、〈未完成原稿〉であることをご了解くださいますようお願いいたします。

信頼できるデータが圧倒的に少なすぎた

サリドマイドは、米国ではついに発売されることはなかった。FDA新薬部門の新しい医務官(医学博士)となったフランシス・ケルシー博士が、米国メレル社の発売申請に待ったをかけ続けたためである。

時の米国大統領ジョン・F・ケネディは、1962年8月4日(昭和37)、ケルシー博士を米国の救世主としてたたえて大統領勲章を贈った。

サリドマイドは米国では発売されなかった

米国メレル社からサリドマイド発売申請

米国のサリドマイド(商品名:ケバドン)の発売申請は、1960年9月8日、米国メレル社からFDAに提出された。同社は、グリュネンタール社(西ドイツ)のサリドマイドを導入して、カナダではケバドンという商品名ですでに販売中であった。
注)レンツ警告(1961年11月15日)

なお、米国メレル社については、ウィリアム・S・メレル社(リチャードソン・メレル社の子会社)、あるいは、リチャードソン・メレル社(ウィリアム・S・メレル社から社名変更)とするなど、諸書によって表記方法が異なっている。私にはどれが正確であるのか全く分からないので、ここでは、米国メレル社(あるいは単にメレル社)という表記を使用した。

担当官のケルシー博士が発売阻止

サリドマイドは、米国ではついに発売されることはなかった。FDA(米国食品医薬品局)の新しい医務官となったフランシス・ケルシー博士が、米国メレル社の発売申請に待ったをかけ続けたためである。

その間、当然ながら、発売を急ぐメレル社とケルシーとの間で激しいやり取りが交わされた。その内幕は、「ワシントン・ポスト」紙(1962年7月15日付け)の記事で初めて明らかにされた。

時の米国大統領ジョン・F・ケネディは、ケルシー博士を米国の救世主としてたたえ、大統領勲章「President’s Award for Distinguished Federal Civilian Service」を贈った(1962年8月4日)。

ケルシー博士、当初からサリドマイドの安全性に疑問を持つ

FDAでサリドマイドを担当することになったのは、フランシス・ケルシー博士(1914年カナダ生、当時46歳)である。彼女は、1960年8月1日からFDA新薬部門の医務官(医学博士)として勤務を開始したばかりだった。

以下「」内は全て引用:朝日新聞記事(1994年11月1日付け)

ケルシーは、夫と同様に薬理学者としてのキャリアを持っていた。「十二年間在籍したシカゴ大で、抗マラリア薬の研究を続け、安全を証明するため、動物実験をいやというほど繰り返した」。

そうした経験を積んだ彼女の目には、ケバドンの申請資料は「安全性を示す動物実験が不十分に見えた」。そこで「追加データを求め、承認を保留にした」。

ケバドンの発売申請から1年余りが経過した時、レンツ警告(1961年11月)が出された。その時の心境を、ケルシーは次のように語っている。

「承認を拒み続けて一年が過ぎた。「もう持ちこたえられない」と感じていたとき、「妊娠中に服用した母親から奇形児が生まれている」と会社側から製品回収の報告があった」。「大変だ、というより、もう戦わなくてすむとホッとした気持ちの方が強かった」。

なお同新聞記事は、FDA本部のケルシーの部屋で直接インタビューしたものである。彼女は当時80歳で、しかもFDAの現役部長だった。(2005年に90歳でFDA退職、2015年8月死去・享年101歳)

ケルシー博士、その後「英国医師会雑誌」(多発神経炎の記事)に注目する

藤木&木田は、ケルシーが「後日サリドマイドを許可しなかった理由をロンドン大学における講演の中で、次のように述べている」として、その内容を引用している。(藤木&木田1974,p.29)

英国医師会雑誌(1960年12月31日号)の中の「一つの論文の中で、サリドマイド剤の長期使用の副作用らしきもの、すなわち、多発性神経炎に注目された」。そこから「次の仮説がたてられた」として、「もしこの薬を妊娠中に服用するならば、(中略)発生中の胎児は、(中略)障害に遭い易くなるであろう」と考えたとしている。

ステフェンは、上記論文に関して、次のように書いている。(ステフェン2001,pp.88-91)

「彼女が目にしたのは、A・レズリー・フローレンスのレターだった。末梢神経炎の最初の症例報告である」。ケルシーは、「(メレル社が)神経障害の証拠があることを知りながら申請書にそれを正直に記載していなかったのではないかと重大な懸念」を示した。

それと同時に、「サリドマイドは成人に神経障害を引き起こすのだから、胎児にはより影響が出やすいということではないのか」として、安全性に関する新たなデータを要求した。「記録に残っている限り最初にこの素朴な疑問を呈したのはケルシーだった」。

なお、この英国医師会雑誌(1960年12月31日号)は、船のストライキで翌年1961年2月になってケルシーの目に触れることになる。当時、イギリスやそのほか外国からの雑誌は、通常は航空便ではなく船便だった。

ケルシーが発売を許可しなかった理由(まとめ)

高野哲夫は、ケルシーがケバドンの発売を許可しなかった理由について、以下の三点を挙げている。そして結局、ケルシーの申請却下は14回にも及んだ。(高野1985,p.58)

  • ヒトと動物実験での薬理作用の違いが不明である
  • 神経炎に対する副作用データがない
  • 妊娠時催奇形性の有無を示すデータがない

まとめてして再確認をしておくと、最初にケルシーが指摘したのは、安全性を示す動物実験が不十分だったことである。そしてその後、多発神経炎の記事を読んで、催奇形性に注目した、というのが真相のようである。

FDAという組織の勝利ではなかった

米国内では、メレル社による大規模な臨床試験が行われていた

メレル社は、実はケバドンの承認申請提出の1年半前から、米国内で臨床試験を行っていた。

「当時の連邦法では、臨床試験を行うのにFDAの承認やその他の手続きは何ら必要」なく、誰の監視も受けず臨床試験を行うことができたのである。(ステフェン2001,p.76)

ケバドンの臨床試験の規模は、FDAの最終的な集計(1962年8月23日付け)によれば、総計250万錠以上のケバドンが医師(1,267人)を通じて供給され、それを服用した患者数は約二万人とされている。(ミンツ,邦訳(下)1968,pp.316-317)

そして、臨床試験中に、レンツ警告(1961年11月)が出された。

FDAのラリック長官の下には、ボン(西ドイツ)の米大使館員から詳しい報告書が届けられた。しかし、長官は、それをケルシー博士に知らせることはなかった。メレル社に対して、緊急の回収措置を要請することもなかった。全て同社のなすがままに任せておいた。(ミンツ,邦訳(下)1968,pp.309-310)

メレル社が行ったのは、処方医に対して「ケバドンは、妊婦および更年期以前の妊娠しうる女性に投与なさらないようにねがいます」とする警告文書(1961年12月5日付け)を発送することのみだった。(同上p.310)

しかも、その対象となった処方医の割合は、全体の約一割に過ぎなかった。残り九割には何も知らされず、また、臨床試験そのものも中止されなかった。

「メレル社がサリドマイド製品を破棄または返還するようにとの手紙を研究者全員に出す」のは、1962年3月のことである(同上p.311)。つまり、メレル社が自社の「治験薬(製品ではない)」の回収を処方医に呼びかけるのは、レンツ警告の4か月以上後のことである。

なお、ケバドン発売の最終的な申請取り下げは、そのさらに5か月後の1962年8月3日であった(ステフェン2001,p.93)。ただし、いしずえ1984(年表p.118)では、「1961年11月29日 メレル社申請取下げ」となっている。

ケルシーは治験の内容をどこまで知っていたのか

ケルシー博士は、米国内で大量の治験薬がばらまかれ被害が拡大しつつあったことを、どこまで知っていたのだろうか。当時の治験制度の下では、ケルシーが、臨床試験の内容について全く何も知らされていなかったとしても不思議ではない。

ケルシーは、英国医師会雑誌(1960年12月31日号)を読んだ直後(1961年2月23日)、メレル社に対して、「神経病的な副作用が薬の使用にともなって認められるかどうかをたしかめるため、薬をわたされた研究者全員のリストを要求した」。しかしながら、この時のリスト提供は、全く不十分なものであった。(ミンツ,邦訳(下)1968,p.311)

さらに、ケルシーは、メレル社が治験薬の回収を決定した後(1962年4月11日)、「「薬を提供された医師全員を記載した最近の完全なリスト」を提出し、奇形発生の危険性を最初に知ったときに、同社がそれを彼らにどう伝えたかについて、報告するようにもとめた」。(同上p.311)

後のインタビューで、彼女は次のように答えている。「臨床試験にかかわった患者が少なくとも二万人いることがリチャードソン・メレルから知らされ(中略)これが何よりも大きな衝撃だった」。治験の概略を把握するにつれて、その規模があまりにも大きいことに愕然としたのであろう。(ステフェン2001,p.96)

米国内でもサリドマイド児が生まれた

メレル社の治験などによって、米国内でもサリドマイド児が生まれた。

上記FDAの最終集計によれば、米国内のサリドマイド服用で10人、外国からのサリドマイドでさらに7人、合わせて17人の奇形児が生まれた。そのほか9人の奇形児がいるが、サリドマイドの服用時期が不明、あるいは服用したのかしなかったのか証拠がはっきりしないとしている。(ミンツ,邦訳(下)1968,p.318)

そのほか、以下のような資料がある。「米国での被害は、臨床試験(治験)中に投与された母親から生まれた九人にとどまった」(朝日新聞記事1994年11月1日付け)。「米国内では11人の女性がサリドマイド児を出産している」(ステフェン2001,p.93)。

このように、各資料間で食い違いがみられる原因の一つとして、大多数の治験医が、「薬を渡した患者の記録を取っていなかった」ことがあるのかもしれない。(ステフェン2001,p.93)

キーフォーヴァー・ハリス医薬品改正法(1962年)

ケルシー博士の活躍により、米国内でのサリドマイド発売は阻止された。しかし、それは、FDAという組織の勝利というよりは、孤軍奮闘したケルシーの個人的資質によるところが大きかった。

ケルシー自身、「当時の治験制度のもとでは、こういった薬害はいつか必ず起きていた」として、制度上の欠陥があったことを認めている。(朝日新聞記事1994年11月1日付け)

サリドマイド事件当時、「連邦食品医薬品化粧品法(FDC、1938年可決)により、製薬会社は承認申請時に製品の安全性を実証しなければならない」ことになっていた。つまり、「FDAは安全でないことが判明した薬を市場から撤退させる権限を与えられ」ていた。(ステフェン2001,pp.72-73)

とはいうものの、「当時の法律では、申請書が提出されると、FDAはその薬が申請書に記載された用途において安全かどうかを60日以内に審査し、FDAから返答がなければその薬は自動的に承認されることになっていた。そして、薬の有効性を実証するための必要事項は何もなかった」。(同上p.72)

よほどの疑義がない限り、積極的に追加データなどを求めるケースはほとんどなかったのであろう。

また、「当時、FDAと製薬会社との間にはかなり親密な関係ができ上がっていた。火曜日になるとジョージタウンのレストラン「リーヴゴーシュ」には製薬会社の人間がいてFDA職員の勘定を引き受けようと待ち構えていた」という。(同上p.72)

「癒着と腐敗にまみれていたFDA」(同上p.71)を改革するため、サリドマイド事件をきっかけに、キーフォーヴァー・ハリス医薬品改正法(1962年)が成立した。

同法によって、「新薬の有効性と安全性の検証プロセス」が標準化され、「FDAの監督権限」が強化された。山口祐司は、このことが米国の現在における「製薬産業の競争力の根拠となっている」としている。(山口2013,p.111)

<<前のページ・・・次のページ>>

日本のサリドマイド事件の特長(回避できたはずの症例、生まれたはずの症例)

紙の書籍『サリドマイド事件(第三版)』(アマゾン・ペーパーバック版:POD版)を出版しました(2023年2月20日刊)。内容はKindle版(第七版)と同じです。現在の正式版は、アマゾンPOD版(紙の書籍)としています。(最新:2023/02/25刷)

POD版、Kindle版共に、Web版よりもきちんとまとまっています。(図版も入っています)

Web版の方が分量の多い箇所も、一部あります。ただし、Web版は全て〈参考資料〉の位置付けです。このWebをご覧いただく際には、〈未完成原稿〉であることをご了解くださいますようお願いいたします。

回避できたはずの症例

レンツ警告(1961年11月)を受けて、西ドイツをはじめ欧州各国は速やかに対応した。西欧先進国では、遅くとも同年12月末までには製品の回収を終了したものと思われる。

それに対して日本では、レンツ警告が出されてから販売中止(回収)決定(1962年9月)まで、およそ10か月もかかってしまった。そしてその回収作業自体が徹底したものではなかった。

レンツ警告後の患者数は、日本が世界で一番多い。

遅かった回収決定、進まぬ回収作業

日本におけるサリドマイド回収の決定(1962年9月)は、レンツ警告(1961年11月)の約10か月後のことであり、欧州各国に比べて大幅な遅れをとってしまった。

その上、サリドマイド製剤の回収措置は十分ではなく、薬局の店頭でその後も自由に入手できた。そこで、例えば北海道庁からは、同年末(1962年12月20日)になって回収をうながす通達が改めて出されたほどであった。(藤木&木田,梶井証言p.131)

そうした状況の中で、全てのサリドマイド製剤の回収作業が完全に終わったのは、1963年半ばから末ごろとする報告もある。(栢森1997,p.9)

さらに、『サリドマイド』1971の編者である増山元三郎(東京理科大学教授)は、同書の中で次のように述べている。

「すべての患者の手から回収した様子はないし、私の調べた三つの病院に1971年現在もサリドマイドは残っていた」。(増山編1971,増山p.46)

レンツ警告後の患者数は、日本が世界で一番多い

胎児(胎芽)がサリドマイドの影響を受けてから生まれるまで、最大で約8か月である。

そこでもし仮に、サリドマイドの全面回収が、レンツ警告(1961年11月)が出された年の間に完了したとするならば、1962年に入ってから妊婦がサリドマイドを服用する機会は無かったことになる。

その結果として、1962年9月以降サリドマイド胎芽症が発症することはなかったと考えられる。

ところが、梶井データ(日本人データ)では、1962年9月以降の発症数(死産を含む)の割合は全体の約43.9%にもなっている。

また、栢森によれば、日本では「1962年9月以降に生まれたサリドマイド児が100名ほど」いるという。認定患者309名に対して約1/3に当たる人数である。(栢森1997,p.42)

梶井データによれば、その中でも特に、1962年9~12月(4か月ごと集計)生まれの被害児が最も多くなっている。つまり、1962年1~4月(あるいは5月の出荷中止)にかけて、最も多くのサリドマイドが服用されたことを示している。⇒(4.3 日本におけるサリドマイド被害児数)

回収決定の遅れは致命的であった。そして、実際の回収作業が遅れたことも被害をさらに継続させた。

レンツ警告後の患者数は、日本が一番多い。回避できたはずの症例がそれだけ多かったということになる。

生まれたはずの症例

日本では生存率が低い

サリドマイド胎芽症の生存率は、レンツ文献(栢森1997,p.41)では約60%としている。それに対して、日本先天異常学会のデータ(森山報告)では、各年ごとの生存率は20%前後となっている。

さらに、日本におけるサリドマイド胎芽症の発症数(死亡例を含む)は、「各国のサリドマイド被害発生状況」(高野1981,p.125)によれば、約1,200名である。それに対して、日本の認定患者数(生存者)は309名である。

したがって、日本における生存率は309/約1200=約25%ということになる。日本先天異常学会のデータ(生存率20%前後)同様、日本での生存率は諸外国と比べて異常に低いと言えるだろう。

佐藤嗣道(自身もサリドマイド被害者)は、生まれたはずの患者が「死産扱いとして処置」されたケースがあることを指摘している。痛ましいことである。(ビジランス1999,佐藤p.39)

日本では軽症例が多い(下肢低形成者が少ない)

日本では下肢に関する症例が極めて少ない、逆に言うと、比較的軽症例が多いとされている。

『サリドマイド胎芽病診療 Q&A』(2014年)では、上肢低形成型のうち下肢低形成合併例が3名あり、「うち1名が重度低形成で移動には車椅子が必要」としている。つまり、下肢に障害があるのは309例中3例のみと読み取れる。

ただし、諸外国(ドイツ、英国)でも下肢よりも上肢が優位に侵される傾向にあるのは事実である(上肢優位性がある)。

『診療ガイド2017』では、日本の下肢低形成者数を3名(2014年のQ&A)から2名に修正している。その上で、特に日本で下肢低形成者が少ないのはなぜなのか、その原因を探っている。(以下全て引用、適宜改行有り)

日本における下肢低形成者はわずか2/309例(1%以下)である。ドイツの胎芽症者2,397人のうち下肢低形成者は約150人(6%)である。英国では胎芽症467人のうち65人(14%)くらいである。

なぜ日本で下肢低形成者が少ないかが不詳である。「抗つわり」薬あるいは睡眠薬に対する、文化として服薬習慣が影響している可能性がある。

日本では睡眠薬としてせいぜい1錠(25mg)を短期間服用したかもしれない。このような服薬習慣、つまり欧州と比べてサリドマイド服薬量が少なかったことが、上肢低形成に限局し、下肢にまで低形成が及ばなかった可能性も考えられる。

上記理由は、極めて曖昧である。

日本と比べて下肢低形成者の多い諸外国において、下肢低形成者ではサリドマイドの服用期間が長い、あるいは服用量が多いといった確かなデータはあるのだろうか。

それにつけても、森山報告(日本先天異常学会のアンケート調査(936例))に引き続いて、個別の患者ごとの詳しい調査が行われなかったことが惜しまれる。

あるいは、梶井データの中に何か手掛かりは残されていないのだろうか。とは言うものの、梶井データ(原本)がどのような形で残されているのか、私はその全容については何も知らない。

参考

  • 主に手に障害がある人246人、主に聴覚に障害がある人82人、重複している人19人。(いしずえ公式Web)
    (ただし次のような計算になる:上肢246-19=227、聴器82-19=63、混合19、全体246+82-19=309)
  • 上肢低形成群233名、聴器低形成型56名、混合型20名。(診療Q&A、栢森2013:原図表記のママ)
  • 上肢低形成群230人、聴器低形成群59人、混合群20人。(診療ガイド2017,p.13、同2020,p.24)
  • 上肢低形成群227人、聴器低形成群63人、混合群19人。(栢森2021,p.207)

<<前のページ・・・次のページ>>

レンツ警告3/3(素早い回収がメカニズムの解明よりも優先する)

紙の書籍『サリドマイド事件(第三版)』(アマゾン・ペーパーバック版:POD版)を出版しました(2023年2月20日刊)。内容はKindle版(第七版)と同じです。現在の正式版は、アマゾンPOD版(紙の書籍)としています。(最新:2023/02/25刷)

POD版、Kindle版共に、Web版よりもきちんとまとまっています。(図版も入っています)

Web版の方が分量の多い箇所も、一部あります。ただし、Web版は全て〈参考資料〉の位置付けです。このWebをご覧いただく際には、〈未完成原稿〉であることをご了解くださいますようお願いいたします。

疑わしきは直ちに回収すべきである

グリュネンタール社(コンテルガン製造販売会社)は、2012年8月31日(平成24)、事件発生から50年を経て初めて謝罪の意を表明した。つまり、同社自身はそれまで責任を認めてはいなかったのである。

とはいえ同社は、レンツ警告(1961年11月)を受けて「何はともあれ対応」を開始した。そして、全製品の回収を決定すると即座にそれを実行した。そしてその結果、その後の被害児発生を防ぐことができた。

これに対して我が国では、レンツ警告を無視して販売中止(回収)を先延ばしにした。当然ながらその後も被害は拡大した。

素早い回収こそ最善の策である

グリュネンタール社(コンテルガン製造販売元)は、2012年8月31日(平成24)、初の謝罪声明を出した。事件発生から50年間、実は一度も謝罪したことがなかったのだそうである。

つまり、グリュネンタール社は、その当時から自身の責任を認めていたわけではない。それにもかかわらず、マスコミにリークされた結果とはいえ、「何はともあれ直ちに回収」を行った。そしてその結果、その後の被害発生を抑えることができた。

これに対して我が国では、有用な医薬品を回収すれば社会不安を起こす。今、動物実験を依頼しておりその結果を待っている。などとして、販売中止(回収)を先延ばしにしたため被害が拡大した。

津田敏秀(岡山大学教授)は、サリドマイド事件に関して「疑わしきは直ちに回収」すべきであったとしている。

「「(誤って)回収する」場合の被害は主に経済的コストだけで済むが、「(誤って)回収しない」場合には経済的コストどころか人的被害が重くのしかかる」からである。(津田2003,p.86)

レンツの四分表(2×2表)を行政判断に生かすために

サリドマイドと奇形との間に、因果関係が有るのか無いのかをはっきりさせるためには、調査結果を四分表(2×2表)にまとめて統計学的な分析をすることになる(症例対照研究)。

そしてその上で、必要に応じた素早い対応を取ることが求められる。

津田は、レンツ警告(四分表、2×2表)を用いて、「「科学的根拠に基づいた行政判断」について、学生に質問を投げかけることにしている」という。(津田2003,pp.83-87)

あなたはこの表を見て、サリドマイドの回収命令を出しますか、それとも出しませんか。
注)この表:レンツの四分表(2×2表)のこと

津田によれば、結果はいつもほぼ決まっている。すなわち「回収命令を出す」という方に手を挙げる学生が半数を超えることはほとんどなく、かといって、「回収命令を出さない」という方に手を挙げる学生もほとんどいない。残りの多くの学生は、判断しかねて手を挙げそびれる。

レンツの四分表(2×2表)は、「疫学調査とその統計学的な処理及び具体的な対策」について学ぶ絶好の材料となっている。

疑わしき薬剤を回収することは、メカニズムの解明よりも優先する

津田は、レンツの四分表(2×2表)を示しつつ、「これがレンツ警告というものである」(津田2003,p.87)としている。ただし厳密には、そこで示された四分表はレンツ警告(1961年11月15日)当時のものではない。

レンツが初めてグリュネンタール社へ電話をした時、レンツの手元には、自ら調査した21例中14症例しか確実な症例は集まっていなかった(既述)。もちろん、サリドマイド胎芽病そのものについては、まだ良く分かっていなかった。

つまり、レンツ警告では「コンテルガンが奇形の原因である」と断定しているわけではない。

これに対して、Wikipedia「サリドマイド」の「薬害サリドマイド禍」の項では、次のように述べている。(2018/06/17閲覧)

疫学調査(レンツ警告・1961年11月。ただしこの報告は疫学的因果関係のみでメカニズムは未解明)から先天異常「サリドマイド胎芽症」や胎児死亡といった催奇性と因果関係があるとされ、日本では1962年9月に販売停止と回収が行われた。

この段階で、「メカニズムは未解明」であることには何の問題も無い。

なぜならば、疫学とは、メカニズムの解明よりも何よりも先に、「目の前にある問題を解決するために、今すぐやるべきことは何か」を解明する学問だからである。

レンツの偉大さは、極めて短時間のうちに少数例ながらも確実な症例を自ら集め、コンテルガンが一番疑わしいという結論に達したこと、そして、そのコンテルガンの回収を促す行動を起こしたことにある。

そうしたレンツ警告の意義を理解しなかった日本では、サリドマイド製剤の販売中止及び回収決定が、西欧諸国に比べて大幅に遅れてしまった。

病因物質の判明は、対策を取る際の必要条件ではない

水俣病の場合を振り返る

津田は、日本の四大公害病の一つである水俣病について詳しく研究している。

津田によれば、水俣病も食品衛生法で言うところの食中毒の一種である。その上で、食品衛生法による「病因物質(原因物質とは言わない)」、「原因食品」そして「原因施設」をはっきりと区別して考えることが大切としている。(津田2004,pp.45-72)

津田は、「病因物質の判明は対策を取る際の必要条件ではない」と繰り返し述べている。大切なのは、「原因食品」に対して素早い対策を取ることである。

水俣病の場合、初期対応として最も大切なことは、「原因食品」である「水俣湾産の魚介類」の摂食を直ちにやめることであった。

ところが、原因物質の究明と称して「病因物質」である有機水銀の解明に時間をかけている間に、魚介類の摂食をやめるという簡便かつ確実な対策を取ることができず、被害を拡大させてしまったのである。

サリドマイド事件の場合はどうか

サリドマイド事件の場合について、私なりに考えると次のようになるであろうか。

サリドマイド事件の場合、奇形の原因として「サリドマイド製剤を服用すること」が強く疑われた。したがって、何よりもまず先に、「原因食品」としてのサリドマイド製剤を直ちに全面回収すべきであった。

そしてその後で、この場合に「病因物質」と言ってよいのかどうか私にはよく分からないが、主成分のサリドマイドの薬理作用を改めて調べ直したり、場合によっては不純物が原因となったのかもしれないなどの検討をすべきであった。

いずれにせよ、回収の判断をするためと称して、動物実験の結果を待っている時間的余裕はなかった。

<<前のページ・・・次のページ>>

参考URL

サリドマイドによる被害調査(厚生省、森山豊東大教授に依頼)

紙の書籍『サリドマイド事件(第三版)』(アマゾン・ペーパーバック版:POD版)を出版しました(2023年2月20日刊)。内容はKindle版(第七版)と同じです。現在の正式版は、アマゾンPOD版(紙の書籍)としています。(最新:2023/02/25刷)

POD版、Kindle版共に、Web版よりもきちんとまとまっています。(図版も入っています)

Web版の方が分量の多い箇所も、一部あります。ただし、Web版は全て〈参考資料〉の位置付けです。このWebをご覧いただく際には、〈未完成原稿〉であることをご了解くださいますようお願いいたします。

936症例の内訳については、Amazon版(電子書籍、紙の書籍)にきちんとまとめています。
(このページは、あくまでも下書きです)

はじめに

厚生省が、初めてサリドマイドによる被害調査を開始したのは、イソミン/プロバンMの販売中止(および回収)が決定した翌日(1962年9月14日)である。それから2年後の1964年7月、森山豊東大教授による「日本先天異常学会のアンケート調査(936症例)」が同学会において発表され、新聞紙上でも大きく取り上げられた。

なお、森山調査にはもう一つ、厚生科学研究班による共同調査(75症例)がある。この調査は、1962年11月30日に始まったが、同年度末(1963年3月31日)には一応の報告書をまとめている。
注)アンケート調査936症例が発表されたのは、1964年7月(上述)である。

日本先天異常学会のアンケート調査(936症例)

大日本製薬(株)は、1962年9月13日(昭和37)、イソミン/プロバンMの販売中止(そして回収)を決定した。厚生省は、その翌日、サリドマイド被害調査を開始した。

森山豊(東大分院産婦人科教授)による「日本先天異常学会のアンケート調査(936症例)」のことである。なお、この時点まで、国・製薬メーカー共に全く何の被害調査も行なっていなかった。

ところで、このアンケート調査では、耳や指の奇形は調査対象外であった。そして、梶井データ(小児科)は含まれていない。

また、郵送方式によるアンケート調査(全国の産婦人科医と開業助産婦が対象)の精度について、懸念の声が挙がったものの、個別の患者ごとの詳しい聞き取り調査は結局行われなかった。

調査結果は、以下で確認できる。
ただし、正式な報告書名などは不明である。

1)六年間に九百余人、あざらし状児の出生、日本先天異常学会で発表(朝日新聞記事1964/07/10付け夕刊)
2)「海豹肢症に関する全国調査報告(第1報)」森山豊(1964年)、日本先天異常学会会報,4(2),88-89.
3)森山豊「第5章 サリドマイド奇形」pp.63-76.
(『先天異常 ― その成因と対策』西村秀雄・ 村上氏廣・森山豊編(1966年)、金芳堂)

疑問点)調査結果は、報告書「フォコメリーの発生要因及びその治療に関する研究について」(1964年3月)にまとめられた???(報告書名、日付は不明)

平沢正夫:アンケート調査の意義

平沢正夫(フリージャーナリスト)は、アンケート調査(936症例)について次のようにまとめている。

「(厚生省は)回収決定(1962年9月13日)の翌日、サリドマイドと奇型発生の関係を統計的に正確につかむことをきめ、東大の森山教授に調査を依頼した。森山教授ら六氏は、日本先天異常学会で研究班をつくり、約五万通の調査票を全国の産婦人科医と助産婦一人ずつにもれなく配布した。回答は29,312通、回収率は58.1%であった。調査の結果は、1964年7月、日本先天異常学会において発表された」。(平沢1965,pp.139-140)

このアンケート調査(936症例)は、新聞でも大きく取り上げられた(例えば、朝日新聞記事1964年7月10日付け東京版夕刊、聞蔵Ⅱビジュアルより)。

見出しには「六年間に九百余人、あざらし状児の出生、日本先天異常学会で発表」とあり、「あざらし状奇形児がいったいわが国でどれくらい生まれたのか、その実数を初めて明らかにしたものとして注目された」。(同上記事)

注)日本のサリドマイド製剤が販売されたのは、1958年1月(新発売)から1962年9月(販売中止)までの4年8か月間である。したがって、1963年5月ごろ以降に生まれたサリドマイド児は、販売中止後も売られ続けた製品かまたは家庭内で手持ちしていた残薬によるものである。

梶井正:アンケート調査はどこまで信頼できるか

梶井正(当時、ジュネーブ大学助教授)は、サリドマイド裁判における証言(1971年10月、東京地裁)の中で、このアンケート調査(936症例)に言及している。

梶井は、「いわゆるサリドマイド児でない、それに似ているけれども違う奇形を相当含んでいるのではなかろうかという推定が成り立ちます」とした上で、医師はもちろんのこと、特に助産婦の回答の質に懸念を示している。(藤木&木田1974,梶井証言p.148)

サリドマイド胎芽病による奇形の種類(形)は多様である。サリドマイドによる奇形とそうでない類似の奇形とを鑑別診断したり、内臓の障害まで見逃さないためには、臨床経験を積んだ医師による総合的な判断を必要とする。(同pp.157-160)

もっとも、医師であろうと助産婦であろうと、一片の調査表のみでは、どのような症例がサリドマイド児であるかを鑑別診断することは難しかったのではなかろうか。ちなみに、この調査依頼状の末尾には、「注」として次のように書かれていた。

「アザラシ症(フォコメリー)とは、上肢または下肢の長骨が短く、形が不完全か、または欠損しているもので、左右同じような状態になっていることが多い。なお四肢のほか内臓その他の奇形が併合していることもある」。(サリドマイド裁判1976,第3編,p.643)

日本先天異常学会では、個々の症例ごとに詳細調査を実施することが検討されたものの、結局はその後の追加調査は何一つ行われなかった。

高野哲夫:アンケート調査の年ごと出生数

高野哲夫(立命館大学)が作成したグラフ「サリドマイド児出生数」は、日本先天異常学会のアンケート調査(936症例)を採用している。そこでは、年ごとの出生数(及びそのうちの生存数)を棒グラフで表している。(高野哲夫1981,p.124)

注)アマゾンKindle版には図表が入っています。

1958年(出生数76、そのうち生存数17)、1959年(61,14)、1960年(97,22)、1961年(153,39)、1962年(337,61)、1963年(212,31)、総合計(出生数936、うち生存数184)

全体的に、生存率は20%程度であり非常に低いように思える。サリドマイド児の生存率は、文献によってばらつきが見られるものの、レンツ文献(栢森1997,p.41)では生存率約60%としている。

さて、日本先天異常学会のデータを改めて確認すると、イソミンが発売された1958年は「出生数76(そのうち生存数17)」となっている。翌年1959年は「出生数61(うち生存数14)」であり、前年を下回っている。

イソミンの発売日は1月20日である。したがって、イソミンを服用した母親からサリドマイド児が生まれるのは、少なくとも8か月後の1958年9月以降と考えられる。

それにもかかわらず、初年度(1958年)の出生数・生存数は、共に翌年(1959年)を上回っている。この点だけをみても、データに何かしら齟齬のあることが伺える。

なお、高野哲夫「新聞広告量とサリドマイド児発生数」にも、「日本先天異常学会によるアンケート調査(936症例)」が使用されている。(高野1981,p.127)

耳や指の奇形は調査対象外だった

アンケート調査(936症例)では、「耳や指の奇形」については最初から調査項目に含まれていなかった。(サリドマイド裁判1976,第3編,pp.659-660)

ちなみに、「耳の障害」はサリドマイド胎芽病の約1/4を占めており、手足の障害と重複する例は少ない。「指の障害」は頻度不明である。⇒(日本におけるサリドマイド被害者の障害の種類と内訳)

以上から、このアンケート調査(936症例)では、全体の半数近くのデータが抜け落ちている可能性も否定できない。

森山教授は、因果関係をはっきりとは認めなかった

森山教授らによるアンケート調査(936症例)の結果(学会発表)は、上記のように新聞紙上でも紹介された。

平沢は、森山教授の言葉(朝日新聞記事1964年7月11日付け)を次のように伝えている。

「森山教授は「サリドマイドが大きな原因だったことはほぼ確実といえる。しかし、他の要因も考えられるので、今後はこの調査票をもとに、個別的にサリドマイド服用との関係を明らかにしていきたい」(同上記事)として、この時は、因果関係をはっきりとは認めなかった」。(平沢1965,p.140)

森山豊教授(東大分院産婦人科学教室)は、日本産婦人科学会の重鎮であった。だからこそ、厚生省は“サリドマイドと奇形発生の関係を統計学的に正確につかむため全国規模の調査”を依頼したはずである。

アンケート調査結果を示した文献(第一報)の末尾を改めて確認すると、「私らは今後この報告分936名について妊娠中の経過その他の詳細な調査を行なう予定である」と結んでいる。当初は第二報を出す予定だったのであろう。

ところが、集めたアンケート調査原本はその後所在不明となり、個別の患者ごとの詳しい調査は結局行われなかった。

森山は、その理由の一つとして「研究費が出なくなったこと」を上げている。要するに、厚生省及び学会とも詳細調査をする必要性を認めなかった、つまり、事の重大さをきちんと認識していなかったとしか考えられない。(サリドマイド裁判1976,第3編,p.660)

レンツ警告の意義(疫学調査とその統計学的な処理及び具体的な対策)については、その当時、森山を含む多くの「日本人研究者」が否定的な見解を示している。(川俣2010,pp.47-53)

なお森山は、後のサリドマイド裁判において、被告側の証人として出廷した。

厚生科学研究班の共同調査(75症例)

森山豊(東大分院産婦人科教授)が行ったサリドマイドによる被害調査にはもう一つある。

厚生科学研究班(森山豊・東大分院産婦人科教授)として行った共同調査報告書(75症例)である。⇒「海豹状奇形(Phocomelia)の発生要因に関する研究 ― 特にサリドマイド製剤との関係」昭和37年度厚生科学研究報告書(1963年3月31日)

この共同調査報告書は、厚生省からの正式依頼(1962年11月30日)を受けて、森山が主任研究者として同年度中に取り急ぎまとめたものである。東京都立築地産院のデータ(3例)をはじめ、共同研究者が知っている症例のみ75例を集めている。

その中に、梶井データ(小児科)は含まれていない。なお、この75例の調査原本はその後行方不明となっている。(サリドマイド裁判1976,第3編,p.659)。

ところで、川俣修壽(サリドマイド事件支援者)は、「1963年3月31日、森山豊東大医学部教授等「海豹状奇形(Phocomelia)の発生要因に関する研究」で国内の被害総数は936人と発表」としている。(川俣2010,年表p.533)

ただしこれは、1963年3月にまとめられた「共同調査結果(75症例)」のことを、「アンケート調査結果(936症例)」(報告年度は1964年)と取り違えているものと思われる。

<<前のページ・・・次のページ>>

参考URL

日本先天異常学会のアンケート調査(936症例)を引用したデータ

日本におけるサリドマイド児出生数(梶井正による集計データ)

そのほか

日本にもサリドマイド児・梶井正博士(読売新聞スクープ)

紙の書籍『サリドマイド事件(第三版)』(アマゾン・ペーパーバック版:POD版)を出版しました(2023年2月20日刊)。内容はKindle版(第七版)と同じです。現在の正式版は、アマゾンPOD版(紙の書籍)としています。(最新:2023/02/25刷)

POD版、Kindle版共に、Web版よりもきちんとまとまっています。(図版も入っています)

Web版の方が分量の多い箇所も、一部あります。ただし、Web版は全て〈参考資料〉の位置付けです。このWebをご覧いただく際には、〈未完成原稿〉であることをご了解くださいますようお願いいたします。

はじめに

日本国内で、サリドマイド児の存在を初めて明らかにしたのは、梶井正博士(北海道大学医学部)である。

梶井データを伝える読売新聞スクープ「日本にも睡眠薬の脅威」(1962年8月28日付け)によって、日本国内のサリドマイド問題は一気にクローズアップされることになった。

そしてその2週間後(9月13日)、大日本製薬(株)はイソミンとプロバンMの販売中止(及び回収)に踏み切った。レンツ警告(1961年11月)から遅れること約10か月後のことであった。

梶井正講師、ランセット投稿論文脱稿(1962年6月末)

日本国内で、サリドマイド児の存在を初めて明らかにしたのは、梶井正博士(北海道大学医学部小児科講師)である。

梶井は、日本のサリドマイド児に関する論文を、いきなり英国の医学雑誌「The Lancet(ランセット)」(1962年7月21日発行)に投稿した。

同論文の趣旨は、「札幌市で特異な奇形を伴う自験例を7例持っている。そのうち5例は母親がサリドマイドを服用しており、同薬との因果関係が疑われる」というものであった。

論文投稿後、梶井はその事実を説明するため、北海道庁衛生部(係長応対)と大日本製薬株式会社(札幌支店長応対)を訪問している。しかし、両者とも全く何の措置を取ることもなかった。(藤木&木田1974,梶井証言pp.126-128)

なぜいきなり英国の医学雑誌「ランセット」に投稿したのか

ところで、当時の日本では、ランセットはイギリスから通常船便で1~2か月かけて届く時代だった。そこでなぜいきなりランセットだったのだろうか。その理由と結果について、梶井は次のように語っている。(同上,梶井証言pp.129-131)

「この雑誌が一番早くこういう報告が載るから、世界的に信用があるからと思って書いた」。梶井の狙いどおり、レンツをはじめとするサリドマイドに関心を持つ国外の学者たちから一斉に問合せの手紙がきた。

しかし、「日本の国内ではほとんど反響がなかった」。そうした中で、後のサリドマイド裁判で重要な役割を果たすことになる松永英(国立遺伝学研究所人類遺伝部長)が、この論文で初めて梶井について知ることとなる。(増山編1971,松永pp.122-124)

松永は、この当時既にレンツの論文を読んでいたが、日本国内でもサリドマイド製剤が発売されていることを全く知らなかった。したがってその時には、日本国内のサリドマイド製剤の販売中止(及び回収決定)に何ら影響を及ぼすことはできなかった。

ところで、梶井論文に対する反応が最も早かったのは大日本製薬(株)である。最新号発売から1週間以内には、梶井のところに長距離電話をかけてきた。ただしその内容は、事の真偽をただ単に確認するためのものだった。

梶井はその後海外に転じ、スイス・ジュネーブ大学助教授やニューヨーク州立大学小児科准教授などを経て、山口大学医学部小児科教授となる。日本のサリドマイド裁判では、ジュネーブから一時帰国して出廷している。(1993年退官・名誉教授、2016年2月死去・享年85歳)

日本にも睡眠薬の脅威、読売新聞スクープ(1962/08/28)

梶井は、ランセット投稿後の8月26日、北海道の小児科学会地方会において発表を行った。

内容は、ランセット掲載論文と同じく7症例についてのものであった。これに対して、翌日、読売新聞記者の訪問を受ける。これが、さらにその次の日の読売新聞スクープとなった。

「奇形児7例のうち5人の母親が服用:札幌市内7か所の病院で最近10か月間に生まれた奇形児7例のうち5例まで母親がサリドマイドを飲んでいた」。(読売新聞記事1962年8月28日付け)

注)地方会発表(8月26日)、読売新聞スクープ(8月28日)の日付を正確に伝えている資料は極めて少ない。

さて、こうして日本にもサリドマイド児が存在することが初めて新聞で取り上げられた。朝日新聞スクープ「自主的に出荷中止/イソミンとプロバンM」(1962年5月17日付け夕刊)から、さらに3か月後のことである。

なお、先の朝日新聞スクープでは、日本国内でのサリドマイド児の存在は否定されていたのである。

梶井データが読売新聞にスクープされたのをきっかけとして、日本国内のサリドマイド問題は一気にクローズアップされることになった。そして、この時になって初めて、厚生省や北海道庁薬務部から梶井に対して資料を要求してきた。(同上,梶井証言p.130)

読売新聞スクープの2週間後(9月13日)、大日本製薬(株)はイソミンとプロバンMの販売中止(及び回収)に踏み切った。レンツ警告(1961年11月)から遅れること約10か月後のことであった。注)9月18日と誤記している資料多数有り。

ところで、読売新聞スクープでは、「母親たちは妊娠初期の苦痛からのがれるためほとんどが町の薬局で買い求めていた」としている。

少なくとも日本では、サリドマイド製剤は“つわり”にもよく効く、として日常的に服用されていたものと思われる。サリドマイド裁判の証言(元大日本製薬企画室長)でも、「つわりも適応症だとパンフレットに書いていた」という。(川俣2010,p.178)

サリドマイドはヒトの感受性が極めて高い

読売新聞記事には、厚生省製薬課の技官の話として、次のようなコメントも載っている。

「(前略)サリドマイド系の取り扱いについては東京女子医大と京都大学に動物実験を依頼しているので、これらの結論をまって慎重にきめる」。小山良修教授(東京女子医大、薬理学)と西村秀雄教授(京都大学医学部、解剖学)の二人のことであり、レンツ警告後に委託したものである。

その結果は、小山データ(1962年8月ごろ)、西村データ(同年9月)共に「奇形はない」というものであった。(藤木&木田1974,平瀬証言p.254)

現在では、サリドマイドに対する感受性は種差が非常に大きく、特にヒトの感受性は極めて高いということが分かっている。⇒(催奇形に必要なサリドマイドの最低量(mg/kg))

<<前のページ・・・次のページ>>

参考URL

自主的に出荷中止/イソミンとプロバンM(朝日新聞スクープ)

紙の書籍『サリドマイド事件(第三版)』(アマゾン・ペーパーバック版:POD版)を出版しました(2023年2月20日刊)。内容はKindle版(第七版)と同じです。現在の正式版は、アマゾンPOD版(紙の書籍)としています。(最新:2023/02/25刷)

POD版、Kindle版共に、Web版よりもきちんとまとまっています。(図版も入っています)

Web版の方が分量の多い箇所も、一部あります。ただし、Web版は全て〈参考資料〉の位置付けです。このWebをご覧いただく際には、〈未完成原稿〉であることをご了解くださいますようお願いいたします。

はじめに

日本国内で、大日本製薬(株)がサリドマイド製剤の出荷中止(1962年5月)を決めた時、既にレンツ警告(1961年11月)から約半年が経過していた。

この出荷中止決定を伝えたのが、朝日新聞夕刊スクープである。

ところが、この時の続報記事(翌日朝刊)では、「日本にはサリドマイド児は存在しない」ことにされてしまった。こうして、出荷停止の措置は取られたものの、既に出荷された商品は回収されることなく、そのまま薬局で売られ続けた。当然被害は拡大し続けた。

イソミン出荷中止、朝日新聞夕刊スクープ(1962/05/17)

日本国内で、大日本製薬(株)がサリドマイド製剤の出荷中止(1962年5月)を決めた時、既にレンツ警告(1961年11月)から約半年が経過していた。

この出荷中止決定を伝えたのが、朝日新聞夕刊スクープである。

ところが、この時の続報記事(翌日の朝日新聞朝刊)では、「日本にはサリドマイド児は存在しない」ことにされてしまった。こうして、出荷停止の措置は取られたものの、既に出荷された商品は回収されることなく、そのまま薬局で売られ続けた。当然被害は拡大し続けた。

レンツ警告後、日本国内でサリドマイド製剤に関する報道は一切なかった

西ドイツのサリドマイド製剤(コンテルガン)の製造販売元はグリュネンタール社である。同社が、コンテルガンの販売中止を決定したというニュースは、1961年11月25日(昭和36)、UPI通信を通じて全世界に流された。

なお、この報道はその後すぐに誤報として取り消されたものの、翌日には、西ドイツの新聞に特ダネ「薬剤による奇形:世界的に流通している薬に疑惑あり」が掲載された。これらを受けて、グリュネンタール社は直ちにコンテルガンの販売中止(及び回収)を決定した。

ところが、そうした情報に反応した日本国内の報道機関は一社もなかった。朝日新聞社では、西ドイツのボン特派員が「レンツ警告に関する第一報を日本に送った」という。しかし、記事にはならなかった。

朝日新聞社では、翌年1962年2月末になって、サリドマイドに関する特別体制を組んで厚生省や学者に対する取材を開始した。

当時の厚生省製薬課長の証言(サリドマイド裁判)によれば、この朝日の動きが「出荷中止」を決定する遠因(圧力)になったことは間違いない。(藤木&木田1974,平瀬証言pp.250-253)

「Time誌」アジア版(1962年2月23日号)睡眠薬の悪夢

朝日がサリドマイドに関する特別取材体制を組むきっかけとなったのは、「Time誌」アジア版(1962年2月23日号)「Sleeping Pill Nightmare(睡眠薬の悪夢)」を見た読者からの投書だとされている。

インターネットで「Time誌」のバックナンバーを検索(2015/01/15閲覧)すると、「HEALTH MEDICINE」欄のMedicineの項に”Sleeping Pill Nightmare(睡眠薬の悪夢)”という記事が載っている。

なお、この号の表紙を飾ったのは、松下幸之助(松下電器産業(株)会長)だった。

注)いしずえ1984(年表p.118)には、「1962年2月22日 タイム紙、サリドマイド禍の記事を掲載」(原文のママ)とある。
注)戦後のタイム誌に掲載(表紙)された日本人は数少ない。最近では、麻原彰晃(1995年4月3日号、地下鉄サリン事件など)や錦織圭(January 19, 2015 Vol.185, No.1、男子プロテニス選手)がいる。

日本医師会雑誌「海外短信」でコンテルガンについて伝える

そうした中で、日本語で書かれた最も早いサリドマイド製剤の副作用情報は、『日本医師会雑誌』1962年3月15日号の「海外短信」と思われる。そこでは、西ドイツにおける多発神経炎や催奇形性といった副作用について紹介している。

しかし、それはあくまでも「(西ドイツの)睡眠剤コンテルガン(N-フタリル-グルタミン酸イミド)の副作用」としてである。つまり、海外トピックスとして扱われているに過ぎず、サリドマイドという言葉もここでは使われていない。(同雑誌,p.662)

したがって、同雑誌の読者である医師でさえ、日本国内のサリドマイド製剤(イソミン、プロバンMなど)とそれらの副作用を結び付けて考えることはほとんどなかったと思われる。

レンツ警告から半年後、日本国内のサリドマイド製剤出荷中止となる

日本では、レンツ警告から約半年が経過して、やっとサリドマイド製剤が出荷停止となった。大日本製薬(株)から厚生省に対して、1962年5月、イソミンとプロバンMの自主的な出荷中止を申し入れたのである。

それをスクープしたのが、朝日新聞夕刊記事(1962年5月17日付け)である。

朝日新聞記事によれば、「(大日本製薬では)昨年暮、西独の新聞で問題になってからすぐ会社としても検討をはじめたが、ともかく影響が非常に大きいので異例の出荷中止措置にふみ切った」という。

そして、「これが、わが国でのサリドマイド事件の第一報」となった(柴田1994,p.10)。さらには、後に東京地方裁判所に対して「とりあえず時効中断手続きをとる」ための基準(3年)とされた。

そうした重要事項であるにもかかわらず、木田盈四郎(帝京大学医学部教授)は、「5月12日、大日本製薬は、西ドイツなどのすべての資料を検討して、独自に、サリドマイド剤のイソミンとプロバンMを一時的に出荷停止にしている。この時も日本の新聞は記事にしなかった」と書いている。(木田1982,p.142)

つまり、朝日新聞スクープ自体を無かったことにしている。その上、日付まで間違えている。

木田は、1971年4月27日(昭和46)、日本のサリドマイド裁判で原告側の証言として出廷している。それがなぜこのような文章になっているのか、不可解である。

スクープ記事では「出荷中止」ではなく「販売中止」とはっきり書かれていた!?

朝日新聞夕刊スクープ(自主的に出荷中止)について、柴田鉄治(朝日新聞社)は後に振り返って次のように述べている。(柴田1994,p.10)

「1962年(昭和37)5月17日の朝日新聞夕刊最終版に、社会面四段抜きのこんな特ダネ記事が載った。
「自主的に販売中止/イソミンとプロバンM」
これが、わが国でのサリドマイド事件の第一報だった」

さらに続けて柴田は、「夕刊の第一報について、「販売中止」は、じつは「出荷一時中止」であり」としている。つまり、夕刊スクープの「販売中止」は誤報であり、正しくは「出荷中止」であったことを認めている。(柴田1994,p.11)

誤報の事実を確認するため、私が朝日新聞の縮刷版(広島県立図書館蔵)を調べたところ、5月17日付け夕刊第7面(第3版)に、「自主的に出荷中止、イソミンとプロバンM」の記事(5段抜き)を見つけた(2013年1月閲覧)。

あくまでも「出荷中止」である。「販売中止」の第一報(誤報)は、朝日新聞社の公式資料としては残されていないのだろうか。私にはよくは分からない。なお、川俣修壽は、「販売中止」と「出荷中止」の違いについて、「宮武の抗議もあって訂正した」としている。川俣(2010,pp.56-57)

宮武徳次郎(大日本製薬株式会社・社長)

宮武徳次郎社長は、サリドマイド事件の当事者である大日本製薬(株)の最高責任者であった。つまり、被害者及びその家族とは相争う立場にあった。

しかしながら、裁判和解後、サリドマイド被害者のための福祉センター「いしずえ」設立と同時に、彼は同センター理事に就任した。そして、いしずえ10周年記念誌「いしずえ10年のあゆみ」(1984年)発刊に寄せて、理事の一人として「お祝いのことば」を述べている(当時、同社取締役会長)。(いしずえ1984,p.11)

宮武は、昭和52年(1977年)春の叙勲で藍綬褒章を受章した。長年医薬品業界の発展に尽くした、というのが受章理由である。ただし、被害者及び家族にしてみれば、複雑な気持ちであっただろう。(川俣2010,pp.441-442)

『塩野孝太郎 ― 人と思想』塩野義製薬株式会社(1990年刊)の巻頭写真集の中に、「道修町首脳のご夫妻と」(昭和40年)という写真がある。

そこには、大阪の道修町御三家(武田、塩野義、田辺)をはじめとするご夫妻が一緒に写っている。前列に和服のご婦人方(6名)が横一列に正座して並び、その後ろに男性陣(6名)が並んで立っている。そうした中で、宮武一人がご婦人方の真ん中に陣取って座り、存在感を示している。(道修町御三家:どしょうまち・ごさんけ)

イソミン問題の背景(朝日新聞の続報記事)

西独で奇形児が急増、同系薬の副作用説出る(西ドイツからの報告)

朝日新聞夕刊スクープ「自主的に出荷中止」の翌日、朝日新聞朝刊に「イソミン問題の背景」と題する記事が掲載された。本文を書いたのは、朝日新聞のボン(西ドイツ)支局長である。

見出しには、「西独で奇形児が急増、同系薬の副作用説出る」とあり、コンテルガン錠をめぐるグリュネンタール社やレンツ博士などの動きについて詳しく解説している。

既に述べたように、西ドイツからの第一報(レンツ警告及び販売中止)は記事にならなかった。

このスクープ掲載記事は、第一報後の経緯を踏まえて改めて書かれた記事を、「自主的に出荷中止」のスクープにぶつけて掲載したものである。上記特別取材チームの依頼によって事前に用意されていたのであろう。

悪影響の実例、日本ではない(宮木高明・千葉大学薬学部教授)

同記事には、「悪影響の実例、日本ではない」とする宮木高明(千葉大学薬学部教授)の長いコメントが付いている。その一部を抜き出してみよう。(以下、「」内引用)

  • 「三カ月ほど以前にこちらでも情報を得ていた」
  • 「あまりにも意外な作用であるし、何か統計的な推定のようで、一がいに受け入れにくかった」
  • 「実験証明をにぎらないかぎり即断はゆるされない」
  • 「今日までわが国ではまったくそのような悪影響を見ていない」
  • 「妊娠中の婦人で睡眠薬を使用された方はけっして心配することはないと思う」

朝日新聞記事は、日本国内のサリドマイド児の存在を否定した

宮木は、統計学(疫学)に何の理解を示すこと無く、一方的に「心配することはない」と断言した。つまり、この続報記事「イソミン問題の背景」では、日本にはサリドマイド児は存在しないことにされたのである。

朝日新聞社は、このスクープ(出荷中止)までの3か月ほどの取材活動で、日本国内におけるサリドマイド児発生の現状について、何らかの情報をつかんでいたはずである。

しかし、記事にはしなかった。そしてその間にも、多くの人々がサリドマイド製剤を服用し、多くのサリドマイド児が生まれた。

出荷停止はするが、販売は続けるように(大日本製薬(株)社長指示)

続報記事「イソミン問題の背景」には、宮武徳次郎社長(大日本製薬(株))の話として、「イソミンが今後も薬局で売られることは差支えないし、動物実験の結果が良ければ、再び売出す考えだ」とするコメントも載っている。

実際に同社長は、販売店宛ての手紙で「出荷停止はするが、販売は続けるように」と書いている。(栢森1997,p.43)

こうして、出荷停止の措置は取られたものの、既に出荷された商品は回収されることなく、その後も薬局で売られ続けた。

国内ではまだ患者についての報告が一件もない(厚生省通達)

日本にはサリドマイド児は存在しない

厚生省(当時)は、西ドイツ(当時)におけるサリドマイド被害について、大日本製薬(株)から資料を入手していた。しかしながら、それらの資料を公にすることはなかった。

厚生省は、国内でサリドマイド製剤の自主的出荷中止が決定した1週間後(1962年5月25日)、各都道府県薬務課宛に「サリドマイド製剤について」という通達を出した。(藤木&木田1974,平瀬証言,p.265-266、木田1982,p.142)

通達の内容は、「薬局では妊婦には売らないように」というものであった。しかしながら、基本的には、「国内ではまだ患者についての報告が一件もない」とされていたのである。

レンツ警告から約半年もの間、厚生省と大日本製薬(株)は、日本国内でのサリドマイド被害について全く何の手掛かりも得ていなかったのであろうか。あるいは、レンツ警告以前のことである「東京都立築地産院におけるサリドマイド児3例」(後述)の情報はどこに行ってしまったのだろうか。

厚生省通達(薬局では妊婦には売らないように)

従って現在では妊娠初期の婦人がサリドマイド製剤を服用すれば奇形児を出産するという結論を下すには根拠薄弱であって、目下西独及び日本において研究が行われている状況である。よって前記のサリドマイド製剤製造業者の自主的措置は本問題について何らかの結論が得られるまでの間の慎重を期するためにとられたものであるから了知されたい。
(通達末尾の文章)

通達の意義について、それを出した厚生省の課長は、サリドマイド裁判で次のように証言している。

日本のサリドマイド裁判

最近、西ドイツとか外国の方で、サリドマイドを飲むと、奇形児が出るんじゃないかという話があるけれども、例えばサリドマイドを飲んだ人から全部奇形児が出ておるわけでもないし、サリドマイドを飲まなくても奇形児が出る場合もあるし、学問的な根拠はないけれども、一応現段階では妊婦は服用を避ける方が望ましいということにしたい。出荷停止は念のためにやるんだという通達であった。
(元厚生省課長の証言)

厚生省では、レンツ警告の意義、すなわち「疫学調査とその統計学的な処理及び具体的な対策」について、結局何の理解も示すことはなかった。

疑わしきは直ちに回収すべきであった

サリドマイドの影響が出るのは妊娠初期である。つまり、妊娠したかどうかはっきりしない時期である。したがって、通達だけで効果が上がるかどうかは疑問が残る。

妊婦対策として最も簡単で確実な方法は、サリドマイド製剤をすみやかに回収することにつきる。そうすれば、妊婦が服用することは絶対に無くなる。なお、ここで回収の対象とすべきは、市場の製品はもちろんのこと、家庭内の薬箱に眠っている薬剤も同様であることは言うまでもない。

西ドイツでは、販売中止(回収決定)直後に、内務省がラジオなどを通じて、コンテルガンを服用しないように、家庭内のコンテルガンを全て一箱残らず破棄するように、国民に呼び掛けたという。残薬の処理を徹底したわけである。

こうした西ドイツ当局の動きについて、当時の製薬課長(厚生省)は、「聞いておりません」と証言している。(藤木&木田1974,平瀬証言p.260)

<<前のページ・・・次のページ>>

参考URL

レンツ警告後、日本での回収決定は大幅に遅れた

紙の書籍『サリドマイド事件(第三版)』(アマゾン・ペーパーバック版:POD版)を出版しました(2023年2月20日刊)。内容はKindle版(第七版)と同じです。現在の正式版は、アマゾンPOD版(紙の書籍)としています。(最新:2023/02/25刷)

POD版、Kindle版共に、Web版よりもきちんとまとまっています。(図版も入っています)

Web版の方が分量の多い箇所も、一部あります。ただし、Web版は全て〈参考資料〉の位置付けです。このWebをご覧いただく際には、〈未完成原稿〉であることをご了解くださいますようお願いいたします。

はじめに

レンツ警告(1961年11月)後、欧州各国では直ちにサリドマイドの回収が行われた。1961年末までには回収作業は終了したものと思われる。これに対して、日本国内の動きは非常に緩慢かつ信じられないものであった。

製薬メーカー、厚生省、あるいはマスコミなどの反応は鈍かった

レンツ警告の内容はグリュネンタール社から大日本製薬(株)に届けられ、厚生省にも報告された。しかしながら、大日本製薬(株)や厚生省はそれらの情報を何一つ公にしなかった。

大日本製薬(株)が、自社のサリドマイド製剤を出荷中止(1962年5月)するのは、レンツ警告の約半年後のことであり、製品の全面回収を決定(1962年9月)するまでには、それからさらに4か月を要した。

その間、厚生省から製品の回収命令が出されることはなかった。それどころか、厚生省はレンツ警告後に新たなサリドマイド製剤(ゾロ品)を2剤認可している。

マスコミの対応も遅れた。レンツ警告後の約半年間、わが国ではサリドマイド事件は全く報道されなかった。朝日新聞スクープ「自主的に出荷中止/イソミンとプロバンM」(1962年5月17日付け)が、わが国でのサリドマイド事件の第一報とされている。

しかし、この時の朝日新聞の報道では、日本国内にはサリドマイド児は存在しないことにされてしまった。

日本のサリドマイド児の存在を初めて明らかにしたのは、梶井正講師(北海道大学医学部)のデータを紹介した読売新聞スクープ「日本にも睡眠薬の脅威」(1962年8月28日付け)である。

そしてその記事がきっかけとなり、大日本製薬(株)は、翌月(9月13日)になってやっと製品の全面回収を決定した。この時既にレンツ警告から約10か月が経過していた。

その間米国では、ケルシー博士がケネディ大統領から大統領勲章を受章(1962年8月4日)した。米国でのサリドマイド発売を未然に防いだ功績に対するものである。

大日本製薬(株)、イソミン販売中止せず

レンツ警告(1961年11月)は、12月4日、グリュネンタール社の日本代理店(日瑞貿易)を通じて大日本製薬(株)に届けられた。

大日本製薬(株)は、翌日グリュネンタール社に国際電話で問合せをした。その答えは、「発表は科学的には信じられないが、全国の新聞にニュースが流れてしまった。もはや検討のひまはない。とりあえず、薬をひきあげた」というものであった。(平沢1965,p.150)

大日本製薬(株)は、それらを受けて厚生省と協議(12月6日)した。ところが、「有用な薬品を回収すれば社会不安を起こす」として販売を続行することになった。

そして年明け早々(1962年1月)、大日本製薬(株)から西ドイツに学術課長が派遣された。

ところが同課長は、現地にてグリュネンタール社の関係者に面会したのみであった。サリドマイドと奇形発生との関係について、レンツ博士やそのほかの学者の意見を聞くことはなかった。西ドイツの州政府を訪問することもなかった。

それにもかかわらず、帰国してから「レンツ博士の発表には科学的根拠が無い」と報告した。

グリュネンタール社からは矢継ぎ早に警告が発せられた

レンツ警告の前後、グリュネンタール社からは大日本製薬(株)に対して順次情報がもたらされた。

その内容は、「西ドイツのアーヘン州検事局の押収したグリュネンタール社側の資料」で以下のとおり確認することができる。(シェストレーム1973,増山:序に代えてp.7)

  • 1961年10月11日、副作用のあること
  • 11月28日、出荷停止のこと
  • 12月8日、回収のこと
  • 1962年3月29日、“今後販売しないように”、“販売を続けるとしても、妊婦がサリドマイドを服用する危険は除かなければならない”と警告
  • 4月25日、“販売を継続しても責任は負わない”

なお、上記10月11日の「副作用」については、レンツ警告(11月15日)よりも前の日付となっている。恐らく、同じサリドマイドによる副作用である「多発神経炎」に関することと思われる。

しかしながら、大日本製薬(株)が、日本国内の多発神経炎について自らどこまで調査したかは全く不明である。その当時のことを記した諸資料の中で、日本の多発神経炎に関する記述は全然見当たらない。

厚生省、新たなサリドマイド製剤(ゾロ品)認可

厚生省は、レンツ警告(1961年11月)が日本に届けられた後に、新たなサリドマイド剤(ゾロ品)2剤、すなわち「パングル」(亜細亜製薬:1962年2月)と「ネルトン」(柏製薬:同年5月)の発売を許可した。その後、両剤が実際に販売されたかどうかは不明であるとはいうものの、信じられない行為である。

最後の「ネルトン」が認可(5月1日)された頃には、大日本製薬(株)と厚生省の間で、サリドマイド製剤の出荷中止(5月17日)が検討され始めていたはずである。どうしてそのような時期にゾロ品を新たに認可したのであろうか。

ネルトンの販売許可について、川俣修壽(サリドマイド事件支援者)は、「(国は)この情報はこれまで故意に国民に伏せてきた」としている。私には、どのように情報を隠していたのか、その内容はよく分からない。(川俣2010,p.43)

それはともかくとして、いしずえ1984(年表pp.117-122)にも、「ネルトン」の記述はない。

そして、日本のサリドマイド裁判でも、レンツ警告後に認可されたサリドマイド製剤としては、「パングル」のみが取り上げられたようである。当時の製薬課長は、パングルを認可した理由を問われて、「(責任者として自ら決裁したことを)覚えておりません」と証言している。(藤木&木田1974,平瀬証言p.267)

厚生省は、国内のサリドマイド出荷中止の1週間後、各都道府県薬務課宛に厚生省通達「サリドマイド製剤について」(1962年5月25日付け)を出している。そこには「国内ではまだ患者についての報告が一件もない」と記載してあった。

その翌年、1963年5月(昭和38)になってから、厚生省の製薬課長が西ドイツを訪問した。そして、そこでレンツ博士に面会した。しかし、面会時間は通訳を交えてわずか30分程度のものであった。しかもその翌日、休日で子どもを連れたレンツ博士と市内の動物園ですれ違ったという。

この一件以外、厚生省及び日本の製薬会社からレンツ博士を訪問したケースはなく、手紙やそのほかの手段での問合せも一切なかった。(藤木&木田1974,レンツ証言pp.112-114)

松永英(国立遺伝学研究所人類遺伝部長)の場合

レンツ警告は、その意義を理解できる日本人学者の目に触れることはなかったのであろうか。日本国内では欧州各国と異なり、「何はともあれ直ちに回収」という措置が取られる気配は全くなかった。

松永英(国立遺伝学研究所人類遺伝部長)は、後のサリドマイド訴訟で原告側証人として出廷(1971年2月、4月の2回)した。

そして「サリドマイドの事件を私が初めて知りましたのは、翌年の三月ごろだったと思うんですが、ランセットで、初めて見たんです」と証言している。恐らくレンツ博士の論文のことであろう。(増山編1971,松永pp.122-124)

その当時、英国の医学雑誌「The Lancet(ランセット)」がロンドンから日本に届くまで1~2か月(船便)かかっていた。そうしたランセットなどの国際的な医学雑誌によって、レンツ博士や梶井博士はお互いの論文を読んでいたのである。

松永部長が梶井博士を知ったのも、ランセット(1962年7月21日号)に載った梶井論文を読んでからだという。

松永部長の専門は遺伝疫学である。レンツ論文を読んで、サリドマイド禍について知っていた。しかしその当時、サリドマイド製剤が日本で販売されていることは全く知らなかった。松永部長に対して厚生省や大日本製薬(株)から、レンツ警告に関する問合せは何もなかった。

松永部長は、証言の中で、電話一本かけて聞いてもらえれば、レンツ警告「サリドマイドには催奇形性がある」について的確なアドバイスができたと、日本での回収が大幅に遅れたことを悔やんでいる。

参考)日本薬剤師会の場合はどうか

日本薬剤師会雑誌の2013年8月号付録(同年6月11日発行)に、『日本薬剤師会年表』がある。公益社団法人日本薬剤師会の創立120周年記念事業の一環として作成されたものである。

サリドマイド関連の項目は、下記3件のみである。なお、それらの記述が極めて不正確であり、参照するには注意が必要であろう。

  • 1961年(昭和36)11月、日本でもサリドマイド奇形児問題化
  • 1962年(昭和37)5月、厚生省、サリドマイド製剤の製造販売中止を勧告
  • 1974年(昭和49)10月、サリドマイド訴訟和解成立

1961年11月の記事は、明らかにレンツ警告(1961年11月)と取り違えている。日本国内でサリドマイド児問題が顕著となるのは、読売新聞スクープ(1962年8月)以降のことである。

1962年5月の記事は、正しくは「自主的に販売中止/イソミンとプロバンM」(朝日新聞スクープ)であり、実際に大日本製薬(株)が「製造販売の中止」を決定したのは、それから4か月後の同年9月になってからのことである。

1974年の記事も不正確である。確かに同年10月13日、原告・被告双方の間で和解確認書に調印して、東京地裁で和解が成立(10月26日)している。ただし、東京も含めて全国8地裁の全てで和解が成立し終わるのは、翌月の11月20日のことである。

つまり、ここは正しくは「サリドマイド訴訟、東京地裁で和解成立」、あるいは、それに付け加えて「その後、東京以外の7地裁でも同年11月中までに順次和解成立」とすべきであろう。

<<前のページ・・・次のページ>>

東京都立築地産院におけるサリドマイド児3例

紙の書籍『サリドマイド事件(第三版)』(アマゾン・ペーパーバック版:POD版)を出版しました(2023年2月20日刊)。内容はKindle版(第七版)と同じです。現在の正式版は、アマゾンPOD版(紙の書籍)としています。(最新:2023/02/25刷)

POD版、Kindle版共に、Web版よりもきちんとまとまっています。(図版も入っています)

Web版の方が分量の多い箇所も、一部あります。ただし、Web版は全て〈参考資料〉の位置付けです。このWebをご覧いただく際には、〈未完成原稿〉であることをご了解くださいますようお願いいたします。

はじめに

レンツ警告(1961年11月)に先立つこと数か月前までに、日本国内では、東京都立築地産院においてサリドマイドの催奇形性を疑う症例が2年間で3例発生していた。

そして、その事実はメーカーにも報告されたという。しかし、国・製薬企業は何の措置も取ることはなかった。わが国は、サリドマイドの催奇形性に関して、世界に先駆けて警鐘を鳴らす絶好の機会を逃してしまったのである。

レンツ警告以前にサリドマイドの催奇形性を疑う症例有り

東京都立築地産院では、イソミンを妊娠初期の母親が服用することによって、サリドマイド児を生ずる危険性があることに、レンツ警告(1961年11月)の数か月前までには気付いていた。

そして、その事実はメーカーにも報告された。しかし、国・製薬企業は何の措置も取ることはなかった。つまり、そうした事実のあることが外部に向けて発信されることはなかった。(増山編1971,高橋p.224)

築地産院のイソミン投与例(1959年8月~1961年9月の二年間)については、厚生科学研究班(森山豊・東大分院産婦人科教授)が行った共同調査報告書(75症例)の中で記載されている。(報告書は1963年3月31日に厚生省提出)

ただしそこに、築地産院という具体的な名前は記載されておらず、「わが国のある産院において妊婦111例にサリドマイドが投与され、妊娠5~8週(二ヵ月目)に投与された12例のなかの3例(25%)において奇形の発生を見ている・・・」というようにぼかした書き方になっている。(増山編1971,高橋pp.209-210で引用)

これが築地産院のデータであることは、次の論文で初めて明らかにされた。

すなわち、竹内繁喜,名取光博,柳田昌彦,服部智,内海捨三郎(1963年)「当産院に於ける最近6年間の先天異常の統計的観察と其の原因検討について」,日本産科婦人科学会雑誌,15(9),878-879.である。

同論文が発表された頃には、既に日本国内でのサリドマイド製剤の回収はほぼ終了していた。したがって、同病院のデータが、サリドマイド製剤の販売中止・回収の引き金になることはなかった。つまり、その後のサリドマイド児発症を未然に防ぐ役割を果たすことはなかった。

高橋晄正(東大医学部講師)による処方分析

高橋晄正(東京大学医学部講師)は、築地産院のイソミン連続投与(約2年間)から約10年経過した1970年前後に、改めて被投与患者の病歴調査を行った。

もちろん、築地産院長の許可を得た上で、自らカルテを引っ張り出してデータをまとめ直してみたのである。(増山編1971,高橋pp.209-232、初出:『日本医事新報』第2400号,1970年4月25日)

高橋によれば、築地産院における妊娠中のイソミン投与114例(1959年8月~1961年9月の二年間)は、「各妊娠月に10例ほどずつほぼ均等に分布しているということができよう」(同p.215)という。そして、それらをまとめた森山報告についても、「一ヵ月平均11例で、各妊娠月にほぼ均等に割つけられた計画実験ということも、疑えば疑えるような症例構成であった」(同p.210)としている。

イソミンの発売は、1958年1月(昭和33)である。そして、築地産院におけるイソミンの処方は、翌年1959年の8月から始まっている。

対象は外来及び入院の妊産婦である。妊娠四か月以前の処方理由は、嘔気、嘔吐などの悪阻症状(つわり)に対するものが大部分を占めている。ところが、五か月以後は、感冒などによる咳、高血圧が主となっており、処方された理由が私には分からない。(同p.215)

奇形3例、いずれも死亡

奇形の発生は3例で、いずれも死亡している。(同p.210,215-216)

  1. 帝王切開・生後3日目に死亡(妊娠十か月目、1960年8月)
  2. 自然流産(妊娠五か月目、同年8月)
  3. 人工流産(妊娠七か月目、1961年5月)である

これらの症例でイソミンが投与された期間は、最終月経の第1日目から数えて、1)43~46日、2)44~55日、そして、3)36~42日である(同pp.215-216)。また第4例として、44日目からサリドマイドを服用した可能性のある母親がいるが、正常児を生んでいる。(同p.220)

また、高橋は、1961年5月(第3例の人工流産後)になると、「妊娠第四ヵ月以前の処方はばったりと杜絶え」(同p.214)ているという事実に気付いた。

高橋は、「この資料から危険期を求めるなら最終月経の第1日から数えて36~44日ということになる」(同pp.219-220)として、危険期を狭い範囲に絞り込んでいる。その間の奇形発生率は、確実に薬を服薬したかどうか分からない例(1例)を除いた場合には、3/3=100%となる。

森山報告では、同じ3例について次のようにまとめている。「妊娠第5~8週(二ヵ月目)に投与された12例のなかの3例(25%)において奇形の発生を見ている」(既述)。

この点について高橋は、「漠然と「第二ヵ月」という慣例的な妊娠月によって整理することによって、いかにもサリドマイドを服用してもアザラシ肢症の発生頻度はそれほど高いものではないような印象を与えるままに放置すべきではなかったであろう」と述べている。(同p.223)

高橋晄正の疑問は解消されたか

高橋晄正の築地産院における処方分析のきっかけは、次のとおりであった。(以下引用、同pp.209-210)

  • なぜそのような観察の結果がただちに世界に向けて報告され、警告されなかったのか。
  • 意図的な臨床試験としておこなわれたものであったのか、そうでないのか。
  • どうしてレンツ報告の三ヵ月も前(実は六ヵ月も前であることがあとで明らかとなる)に中止されたのか。
  • 観察がおこなわれた「二年間」という期間には、どのような意味が秘められていたのだろうか。(引用ここまで)

しかし、高橋の処方分析は、実際の処方から約10年後に行われたものである。全ての疑問を解消するには、あまりにも時間がたち過ぎていた。

サリドマイド訴訟をめぐる森山豊教授と築地産院の医師

東京都立築地産院は、東大分院産婦人科学教室(森山豊教授)の関連病院の一つであった。そうした関係からか、築地産院のサリドマイド奇形3例のうち2例は、東大分院の病理で解剖された。ところが、解剖された患者の病歴のみが、後に紛失していることが分かった。不可解である。

森山教授は同教室の主任教授として、3症例について内容を詳しく知ることのできる立場にあった。また森山は、厚生省の依頼を受けて、サリドマイドによる全国規模の被害調査を実施したことがある(後述)。

そうした彼は、後のサリドマイド裁判において、被告側の証人として出廷した。

なお、築地産院の医師は、証言そのものを拒否した。高野哲夫によれば、その理由は次のとおりである。

「学会での発表はあくまでも仮説である。それをいちいち裁判でとり上げられると、研究発表に臆病になってなにもいえなくなるし、新薬の使用もできない。そうなれば医学も発展しない。国民の健康を守る医学、医療の発展のため証言は拒否する」。(高野1981,p.130)

<<前のページ・・・次のページ>>

日本のサリドマイド製剤(イソミンとプロバンM、そしてゾロ品)

紙の書籍『サリドマイド事件(第三版)』(アマゾン・ペーパーバック版:POD版)を出版しました(2023年2月20日刊)。内容はKindle版(第七版)と同じです。現在の正式版は、アマゾンPOD版(紙の書籍)としています。(最新:2023/02/25刷)

POD版、Kindle版共に、Web版よりもきちんとまとまっています。(図版も入っています)

Web版の方が分量の多い箇所も、一部あります。ただし、Web版は全て〈参考資料〉の位置付けです。このWebをご覧いただく際には、〈未完成原稿〉であることをご了解くださいますようお願いいたします。

イソミンとプロバンM(さらにプロバンMB)

大日本製薬(株)は、1958年1月20日(昭和33)、鎮静・催眠剤「イソミン」(単剤)を発売した。

同社は、1960年8月22日(昭和35)、少量のサリドマイドを含む胃腸薬「プロバンM」(合剤)を追加発売した。つまり、その後は、睡眠薬「イソミン」と胃腸薬「プロバンM」を並行して販売した。

注)「類似薬選定のための薬剤分類」(中医協)によれば、分類名は、”催眠鎮静剤”である。ちなみに、大日本製薬(株)は、一貫して「鎮静・催眠剤「イソミン」」と表記していた。

さらに、同社は、1962年7月7日(昭和37)、「プロバンM」のサリドマイドをブロバリン(ブロモバレリル尿素)と入れ替えた新胃腸薬「プロバンMB」を発売した。
すでにイソミン/プロバンMは、自主的に出荷中止(5月17日)になっており、完全な販売中止(9月13日)も目前にせまっていた時期のことである。

  • イソミン・・・・・サリドマイド25mg錠、100mg/1.0g散剤(10倍散)
  • プロバンM・・・・臭化プロパンテリン7.5mg+サリドマイド6mg(錠剤)
  • プロバンMB ・・臭化プロパンテリン+ブロバリン(錠剤)

プロバンM(胃腸薬)は、臭化プロパンテリン(抗コリン性鎮痙薬)に、佐薬(主薬の副作用軽減のため補助的に用いる薬剤)としてサリドマイドを配合した合剤であった。

大日本製薬(株)は、レンツ警告について厚生省と協議をしたその当日(1961年12月6日)、プロバンMの佐薬(補助薬)を、サリドマイドからブロバリン(ブロモバレリル尿素)に切り替える検討を始めた。(川俣2010,pp.34-35)

プロバンMからプロバンMBの変更については、プロバンMの提携先であるGDサール社から、レンツ警告(サリドマイド禍)のことでクレームが来ることを予想して、事前にサリドマイドを外す措置を取ったものと思われる。

大日本製薬(株)は、1961年12月11日(昭和36)、厚生省に対してプロバンMの製造販売許可事項の変更申請を提出、翌年7月7日からプロバンMBの販売を開始した。
もちろん、その直前の5月には、プロバンM(及びイソミン)は出荷中止になっていた。

なお、この間の事情については、細かい日時について諸資料で異同がある。
ただし、いしずえ1984(年表p.117)の「1960年12月28日 プロバンM製造許可事項変更申請」は年度の間違いであろう。

注)大日本製薬(株)以外の製剤は、25mg錠又は一部50mg錠と10%散である。
注)アマゾンKindle版には図表が入っています。

薬効及び販売価格(イソミンとプロバンM)

効能・効果及び用法・用量(イソミンとプロバンM)

イソミンの効能・効果及び用法・用量(略記)は、以下のとおりである。

  • 効能・効果:不眠症、手術前の鎮静、不安・緊張状態の鎮静
  • 用法・用量:鎮静作用を目的とする場合、通常1回12.5mg~25mgを1日3回服用。催眠の目的には、 就寝前に50mg~100mgを頓用する。小児には、適宜減量して用いる。(川俣2010,p.449)

平沢は、イソミン(サリドマイド)の睡眠薬としての特徴について次のように書いている。

「毒性はたしかに低かった。(中略)サリドマイドでは、自殺が不可能といわれているぐらいだ。イソミンをのんだ場合、さめ心地も格別だった。ほかの睡眠薬のように、頭痛や吐き気を感じない。それに、泥のように眠りほうけることもない。自然の睡眠状態同様、声をかけるか、軽くゆさぶるかすれば、目をさます。その点でも理想的であった」。(平沢1965,p.45)

木田盈四郎(帝京大学医学部)は、イソミンとプロバンMについて次のようにまとめている。

「イソミンは、不眠症、手術前および緊張不安状態の鎮静に効果があり、妊婦、小児にも安全無害であると、テレビ、新聞などを通じても広く宣伝された。プロバンMは、胃酸過多、胃炎、消化性潰瘍治療剤として市販された」。(木田1982,p.138)

販売価格(イソミンとプロバンM)

川俣修壽(サリドマイド事件支援者)によれば、イソミン・プロバンMの販売価格は次のようになっている。(川俣2010,p.453)

  • イソミン25mg錠 (12錠150円、30錠300円)
  • イソミン10%散 (25mg700円、100mg2,500円)
  • プロバンM (30錠550円、100錠1,430円)
    参考:はがき料金5円 (昭和26年11月1日~41年6月30日)

イソミン散剤は10倍散である

栢森良二(帝京大学医学部)の書籍の中に、イソミンの製品説明書や広告などのコピー写真が載っている。
その写真の中に「イソミン散は1g中、本化合物0.1gを含有する10倍散である」と書かれた文字が読み取れる。(栢森1997,pp.10-11)

ところが、同書本文p.9では、「(イソミンには)10mg/1.0g散剤があった」としている。
これでは100倍散になってしまう。
ここで改めて、イソミンの用法・用量を確認すると、「催眠の目的には、就寝前に50mg~100mgを頓用する」となっている。

例えば、イソミン1回量50mg(成分量)とすると、10倍散であれば、50mg×10=0.5g(製剤量)となる。

これが100倍散であれば、1回量50mg(成分量)に対して、50mg×100=5.0g(製剤量)になる。
1回量100mg(成分量)ならば、100mg×100=10.0g(製剤量)となる。

散剤を毎回5~10gずつ服用するというのは、量的にはやはり不自然である。
ここは10倍散で間違いない。

それはともかく、改めて上記価格表を確認すると、錠剤では1錠(25mg力価)10円程度である。
それが、散剤(10倍散)では25mg700円となっている。
これでは錠剤の価格とかけ離れているように思われるが、どのような計算になるのか私にはよく分からない。

注)「サリドマイド胎芽症 診療ガイド2017」p.9も「イソミンは25mg錠剤、10mg/1.0g散」としている。

ゾロ品の発売(大日本製薬を含めて15社(16品目)で販売が許可された)

当時の日本国内では、新薬が発売されるとそれに連れてゾロ品(後発の真似薬)が次々と発売されるのが常であった。

この時も同様で、販売許可されたサリドマイド製剤は、イソミン・プロバンMも含めて全部で16品目(15社)に上った(川俣2010,pp.452-454)。
ただし、これらの品目全てが、実際に発売されたわけではなく、全容ははっきりつかめていない。

そうした中で、下記5社(合わせて6品目有り)が、サリドマイド裁判和解後に損害賠償金を支払った。(川俣2010,p.426)

大日本製薬(イソミン・プロバンM)、富山化学工業(グルタノン)、エスエス製薬(新ニプロール)、小野薬品工業(ボンブレン)、ゼリア化工(サノドルミン)、

つまり、少なくとも上記5社(6品目)は、実際に製品を販売していたことになる。
いずれも、21世紀まで存続している製薬会社ばかりである。

注)このほか、セイセー薬品工業(新ナイトS)が、日本のサリドマイド裁判(東京地裁)の被告になったものの、同社は裁判和解時にはすでに倒産していた。(つまり、同社でも実際に発売していたことになる)

なお、サリドマイド製剤の売上は、大日本製薬(株)のイソミンとプロバンMで全体の90~95%を占めていたとされる。

各製薬会社(あるいは製品)ごとの被害者数

サリドマイド訴訟では、大日本製薬(株)は、東京をはじめとする全国の8地裁全てで被告となった。
同社以外で被告になったのは、国を除けばセイセー薬品工業(東京地裁)が一社あるのみである。

実は、サリドマイド製剤の製品ごとの被害者数はよく分かっていない。
イソミン・プロバンMのそれぞれの被害者数も公表されていない。

「製薬会社ごとの被害者数は、投薬証明が不明なケースもあり正確には分からなかったが、新ナイトS(セイセー薬品工業)が一人、ボンブレン(小野薬品工業)とサノドルミン(ゼリア化工)の両方を飲んだ被害者が一人確認できるので、309人中少なくとも二人は大日本製薬以外の製品による被害者だ」。(川俣2010,p.491)

注)309人(日本のサリドマイド認定患者数、つまり生存者数)

ゾロ品からジェネリック医薬品へ

現在では、医療用医薬品は、新薬(先発医薬品)とジェネリック医薬品(後発医薬品)に分けて考えられている。

ジェネリック医薬品は、特許期間が過ぎた新薬と同じ有効成分を使い、国の厳しい基準に基づいて製造・販売されている。
開発費があまりかからないので価格は割安となり、国の医療費抑制の柱として厚生労働省でも後発品の使用を推奨している。

私は保険薬局の薬剤師として日々患者さんに接している。
その中で、特に鎮痛剤(内服薬や貼り薬)について、先発の方が良いという患者さんの声を聞くことがある。

後発品の生物学的同等性は保証されているはずである。
それでもなお、製剤的な完成度において、後発品が先発品に及ばない面があるのだろうか。
そのほか、ジェネリック医薬品には、多品目を取り扱うことによる欠品のリスク回避などの措置も求められている。

そうした中で、2020年12月(令和2)から翌年にかけて、ジェネリック医薬品の安全性や安定供給に関して、重大な不祥事が相次いで起こった。

抗真菌薬・イトラコナゾールに、睡眠薬を混入させてしまったり、製造販売承認書と異なる製造方法で、医薬品を製造したケースなどである。

その都度、行政処分が行われてきた。しかしながら、医療現場に与えた影響はあまりにも大きく、2022年(令和4)を迎えて、先発メーカーも含めた医療用医薬品の流通が、ますます混乱してきている。

厚生労働省は何をしているのか。同省が掲げる「後発品80%目標」の実効性が厳しく問われている。
注)2023年度末までに後発医薬品の数量シェアを全ての都道府県で80%以上とする(2021/04/27付け)。

<<前のページ・・・次のページ>>

参考URL

レンツ警告1/3(サリドマイドが奇形の原因である可能性が極めて高いと警告/1961/11/15)

紙の書籍『サリドマイド事件(第三版)』(アマゾン・ペーパーバック版:POD版)を出版しました(2023年2月20日刊)。内容はKindle版(第七版)と同じです。現在の正式版は、アマゾンPOD版(紙の書籍)としています。(最新:2023/02/25刷)

POD版、Kindle版共に、Web版よりもきちんとまとまっています。(図版も入っています)

Web版の方が分量の多い箇所も、一部あります。ただし、Web版は全て〈参考資料〉の位置付けです。このWebをご覧いただく際には、〈未完成原稿〉であることをご了解くださいますようお願いいたします。

はじめに

レンツ警告とは、「サリドマイド(商品名:コンテルガン)が、1960年代初頭に西ドイツ(当時)で多発していた新たな奇形の原因である可能性が極めて高く、したがって、直ちに全製品を回収すべきである」としたレンツ博士(西ドイツ)による警告である。

レンツ博士は、1961年11月15日(昭和36)、グリュネンタール社(コンテルガンの製造販売元)に電話でその旨を伝えた。グリュネンタール社はそれに応じ、州政府を交えた話し合いが始まった。

サリドマイド児の父・レンツ博士

西ドイツの小児科医・レンツ博士

レンツ博士(Widukind Lenz)は、1919年に旧東ドイツで生まれ、1995年に死去(享年76歳)した。

レンツの最大の業績は、サリドマイドに関するものである。1961年11月には、「レンツ警告」すなわち、「サリドマイドに催奇形性の疑い有り、直ちに全製品を回収すべき」との警告を発した。

レンツはその当時、西ドイツのハンブルク大学小児科講師(42歳)であった。そしてその翌年、ハンブルク大学人類遺伝学教授に就任した。

レンツの詳細な調査に基づくサリドマイド仮説の立証、及び各国のサリドマイド裁判で果たした役割は極めて大きく、“サリドマイド児の父”と慕われている。

レンツは大変な知日家で、1965年(昭和40)の初来日以来10回前後日本を訪れている。そして、日本のサリドマイド裁判においては、原告側証人として証言(出廷回数11回)をしている。(その時は、1971年10月21日来日~11月27日帰国)

以下のレンツ証人の発言については、主として「藤木&木田1974,レンツ証言pp.81-124」を参考にした。レンツの出廷回数11回(1971年11月2日~24日)のうち11月2日分と4日分がそれに当たる。

本格的な調査を開始するまで

レンツ博士、初めてフォコメリア患者を診察する

1957年10月1日、西ドイツのサリドマイド製剤(商品名:コンテルガン)が、グリュネンタール社(西独)から発売された。そしてその翌年には、レンツ自身初めてのフォコメリア患者を診察している。1958年8月14日生まれの新生児であった。

1960年になると、西ドイツのミュンスター大学小児科やキール大学小児科から、フォコメリアを特徴とする症例の報告が行われるようになってきた。いずれの症例も、経験豊かな専門家でさえも今まで見たことがないというものであった。

1961年6月5日、レンツの下に奇形の一症例がもたらされた。レンツはそれに対して、「この症例は過去の記載の中に正確に一致するものがないので、突然変異によるものと思うと述べている」。(増山編1971,増山pp.20-21)

レンツ博士、青年弁護士から相談を受ける

1961年6月22日、息子、姪がともにフォコメリアという青年弁護士から相談を受ける。

遺伝だろうか、それとも何か共通の環境による外因性のものだろうか。レンツは、この例も含めて、それまで彼が見聞きした同様の奇形の原因については、当時次のように考えていたと証言している。

「私はそのほかに全く健康でありますこのような家族に奇形が発生しました理由としては、遺伝子の突然変異でこれが優性的に伝わったのであろうと考えていました」。(藤木&木田1974,レンツ証言p.83)

レンツ博士、フォコメリアに興味を示す

件の弁護士(ハンブルクで開業)から、彼の住んでいるメンデンには同じような奇形児が多数いることを知らされた。メンデンは、レンツの父親の出身地でもある。レンツはメンデンに行く予定を立てた。しかし、当地での調査は、既にミュンスター大学小児科によって開始されているという。

そこでレンツは、自分の住んでいるハンブルクで調査をすることにした。ハンブルクにも同様の症例があることが明らかになったからである。しかしながら、当時のレンツは『人類遺伝学』の原稿締切りなど様々な仕事を抱えており多忙を極めていた。

そうした中で、小児科医そのほかの医師や学者などと奇形の原因について討論を重ねた。

そして、その原因は遺伝によるものではなく、「飲食物の汚染といったような、口から摂取するものに違いないと確信するに至っている」。ただし、「奇形児の母親の妊娠期に服用した共通の薬剤を見出せなかったことから、その原因物質は薬剤ではない」との見方をしていた。(栢森1997,p.22)

その間の事情については、レンツ証言(pp.86-87)に詳しい。

本格的な聞き取り調査を開始する

レンツ博士、所属する医局の全ての義務から解放される

1961年11月9日、『人類遺伝学』を書き上げたレンツ博士は、所属する医局の全ての義務から解放してもらう。そして、助手のナップ(Knapp)博士と共に、奇形児の両親に対する本格的な聞き取り調査を開始した。

調査を始めてすぐに、母親がコンテルガンを服用したことがはっきりしている症例が出てきた。11月11~12日には、母親がコンテルガンを服用したことが確実な症例が複数例集まった。

それらを受けて、11月13日には、早くも“サリドマイドと奇形との間に因果関係がある”とする仮説を立てた。そして、そのことを証明するために各方面との協力関係を積極的に築いていった。

  1. 同様の奇形について症例を集めて発表をしていたミュンスター大学やキール大学の小児科教授に自分の仮説を話す。(栢森1997,p.24)
  2. 所属小児科クリニックのスタッフ・ミーティングにおいて、「同じ時期に健康な子供を生んだ方々の医薬品の摂取に関しての情報を集めてほしい」と依頼する。(レンツ証言p.96)
  3. 他科との連絡会において、「もし奇形の例があるならば、私にそれを伝えることによってこの研究を援助してほしい」と依頼する。(レンツ証言p.96)

参考)『人類遺伝学』は後に版を重ね、英語、スペイン語、日本語そしてロシア語に翻訳されている。日本語訳は、木田盈四郎監訳(1981年)『医学からみた遺伝学』講談社サイエンティフィック刊、原著第4版の翻訳である。

レンツ博士、緻密な調査で成果を上げる

11月13~15日、聞き取り調査のための質問用紙に具体的な医薬品名を書き込んだ。質問用紙には、コンテルガンに加えてアスピリン・フェナセチン・ルミナールの名前を併記した。つまり、コンテルガンに疑いを持っていることが分からないように配慮した。(レンツ証言pp.96-98)。

レンツ博士は、ただ単に両親からの簡単な聞き取り調査だけで満足はしなかった。担当医師からカルテの提出を求めたり、あるいは保険会社に処方箋の提出を依頼したりした。さらには、各家庭内での医薬品保管状況を、実際に目で確かめる作業を行った。(レンツ証言pp.96-97)

レンツの精力的な調査の結果、サリドマイドを服用したことが確実な症例は、21例中14症例集まった。なお、服用が不確実な症例は、服用無しとして処理をした。

レンツ警告から販売中止(回収)決定まで

レンツ警告(1961/11/15)

レンツ警告とは、「サリドマイド(商品名:コンテルガン)が、1960年代初頭に西ドイツ(当時)で多発していた新たな奇形の原因である可能性が極めて高く、したがって、直ちに全製品を回収すべきである」としたレンツ博士(西ドイツ)による警告である。

レンツ博士は、1961年11月15日(昭和36)、グリュネンタール社(コンテルガンの製造販売元)に電話でその旨を伝えた。グリュネンタール社はそれに応じ、州政府を交えた話し合いが始まった。

種々のやり取りの後、コンテルガンは当月中(1961年11月中)には全て回収されたものと思われる。この時、州政府は残薬処理を徹底するように一般家庭に向けてラジオなどで呼び掛けを行っている。

レンツ博士、グリュネンタール社へ電話をする

11月15日(1961年)、レンツ警告当日である。レンツはサリドマイド(コンテルガン)製造販売元のグリュネンタール社へ電話をした。応対したのは、コンテルガンの製造開発責任者であるミュクター博士だった。

レンツは電話で、当時西ドイツで多発していた奇形とサリドマイドとの関係について、次のような自分の考えを伝えた。

「(前略)西ドイツにおきまして奇形が増大している(中略)サリドマイドと奇形とを結びつけて今考えている(中略)明確な科学的な証明があるまで回収を待つべきではなく、その時点で薬は回収されるべきである(後略)」。(レンツ証言p.99)

会社側の回答は、今までそのようなことは聞いたことがない、数日中に社の代表をそちらに送る、というものであった。レンツは翌日、電話の内容をまとめた手紙をグリュネンタール社宛てに送付した。

本格的な調査を開始してからわずか1週間後のことであった。

レンツは、「(その当時)いかなる機会を使ってもこの問題に対して関与し、また情報を得ている仲間の者たちと話し合う機会を持ちました」と証言している。しかしながら、サリドマイド原因説にほとんどの者が傾いていたものの、それでもなお、それを事実として認定するまでには至っていない。(レンツ証言p.100)

レンツ博士、小児科学会地方会で短い論評を発表する

11月18日、レンツは、小児科学会地方会のディスカッションにおいて、ある“特別な薬”が奇形の原因となっているのではないかという短い論評を発表した。(レンツ証言pp.100-101)

レンツは、この学会場ではコンテルガンの名前は出していない。その理由について、彼は次のように証言している。

「以前に会社に対して警告をいたしましたので、彼らが市場からその薬品を回収できる時間を与えるべきではないかといった気持でこのことを公開しなかったのだと思います」。(レンツ証言p.101)

上記証言の中の「以前に会社に対して警告をいたしました」とは、1961年11月15日、レンツがグリュネンタール社に電話したことを指すものと思われる。

ところが、「通常、公にしたという意味では、これをもって「レンツ警告」としている」資料も多い。つまり、「レンツ警告」=1961年11月18日という解釈である。(栢森1997,pp.24-25)

それに対して、私はあくまでも「レンツ警告」=1961年11月15日(電話)という認識を持っている。上記著者の栢森良二も、自身では11月15日の電話を「レンツ警告」としている。

グリュネンタール社は、レンツからの電話(11月15日)を受けて「何はともあれ」対応を開始した。レンツが小児科学会地方会で発言(11月18日)した時には、既に事態は動き始めていたのである。

付け加えるならば、レンツは、その学会で四つの大学病院(ケルン、デュッセルドルフ、ミュンスター、そしてボン大学)の小児科医と昼食を共にした。そして、コンテルガンに関する奇形について、自分と同じように研究を進めてもらえるよう依頼をした。

それぞれの研究成果は、後日開かれた専門家委員会(11月30日)で発表された。

レンツ博士、グリュネンタール社の代表の訪問を受ける

11月20日、レンツとグリュネンタール社との話し合い始まる。さらに、午後からはハンブルク州政府の保健省の代表を交えて会談を行う。(レンツ証言pp.101-105)

注)レンツ博士の所属はハンブルク大学(医学部)であり、ハンブルク大学はハンブルク州(特別州)にある。

レンツは、自分が集めた資料を見せて説明をした。会社側は、科学的な証拠となるものは何もないと反論して、その場で何らかの結論を出すことはしなかった。会社側はさらに、レンツの持っている全ての情報を手渡すように要求してきた。レンツは、調査で使った質問用紙のコピーを作成して、翌日会社側に手渡した。

11月24日、ノルトライン=ヴェストファーレン州内務省(デュッセルドルフ)において、内務省とグリュネンタール社の各代表者数名及びレンツの三者会談が行われた。(レンツ証言pp.105-108)

注)グリュネンタール社(本社:アーヘン)は、ノルトライン=ヴェストファーレン州(州都:デュッセルドルフ)にある。

さて午前中は、20日と同様にレンツが自ら集めた資料の説明をする。午後は法的な処理をめぐる会議となり、レンツは席を外された。

午後の会議では、次の二つの措置案が出され、そのいずれを選択するかがグリュネンタール社に委ねられた。

  1. コンテルガンの使用を内務省が禁止する
  2. 妊娠中は摂取しないことというレッテルを薬に貼り付ける

グリュネンタール社は、レッテルを貼ることに同意した。しかし、この処置だけでは明らかに不十分である。

例えば、既に家庭内にあるコンテルガンの全てにレッテルを貼ることは不可能である。また、妊娠初期の段階では、誰にも妊娠したことが分からないので、レッテルを貼るだけでは警告の効果は不十分と考えられる。

西ドイツでは、販売中止(回収決定)直後に、「内務省が国民に対してサリドマイドを服用しないように、それからうちの中にあるコンテルガンをすべて一箱残らず破棄するようにということをラジオ等を通じて警告したという」。残薬処理の徹底である。

コンテルガンの販売中止(回収)決定

副作用報告が既に集まり始めていた

11月25日、州政府がコンテルガンの使用を禁止したとの誤報が流れる(UPI通信)。
11月25日、グリュネンタール社、同日中にコンテルガンの販売中止(回収)を決定した可能性有り。

ノルトライン=ヴェストファーレン州内務省の内務大臣が、同州においてコンテルガンの使用を禁止した(理由は先天奇形の疑惑)、とUPI通信が伝える。その1~2時間後に誤報として取り消されたが、既に全世界にそのニュースは広がってしまっていた。(栢森1997,p.27、レンツ証言p.108)

こうした状況の中で、グリュネンタール社はコンテルガンの販売中止(回収)を決定した。その正確な日付はよく分かっていないが、11月25日~27日と思われる。回収決定の理由は以下のとおりである。(栢森1997,p.28、レンツ証言pp.108-109)

  1. 副作用報告が相次いだため
    (英国の発売元のディスティラーズ社から、11月25日、オーストラリアの支店を通じてウィリアム・マクブライドによる催奇形性に関する情報がもたらされた)
  2. サリドマイドについての新聞報道を抑えることができないと判断したため
    (翌日11月26日発行の地元紙に載った記事のことである)

11月26日、西ドイツの新聞(ヴェルト・アム・ゾンターク)に特ダネが掲載される。「薬剤による奇形:世界的に流通している薬に疑惑あり」。このニュースは、欧州のほかの新聞にも配信された。(栢森1997,p.27)

西ドイツをはじめ欧州各国で素早い回収作業が行われた

西ドイツでの販売中止(回収)決定に続いて、北欧諸国(スウェーデンを除く)11月30日、英国12月2日、スウェーデン12月18日にそれぞれ回収を決定した。そして、同年末までには回収作業を終了したものと思われる。

そうした中で、西ドイツ(グリュネンタール社)における回収作業は、遅くとも11月中には終了したようである。

いしずえ1984(年表p.118)では、「11月26日:グ社、コンテルガンの回収を決定。11月27日・28日:コンテルガン回収」としている。レンツは、「その週のうちに回収されました」と証言している。(レンツ証言,p.109)

ところで、レンツはこれら一連のメディア公開騒動には一切関わっていない。つまり、彼以外の情報提供者が別にいたようである。(栢森1997,pp.28-29)

専門家委員会が開かれる

11月30日、専門家委員会が開かれる(デュッセルドルフ)。この委員会は、ノルトライン=ヴェストファーレン州政府が招集したものであり、その目的は、元々はコンテルガン回収の是非について検討するためのものであった。州政府としては、グリュネンタール社がこんなに早く回収措置を取るとは考えていなかったのであろう。

それはともかく、この委員会では、まずレンツが最新のデータ(コンテルガンが疑われる症例81例)について発表をした。次に、11月18日にレンツから依頼を受けた四大学の医師数名が、それぞれの集積データについて解析結果を発表した。いずれも、コンテルガンが強く疑われる結果となっていた。

<<前のページ・・・次のページ>>

参考URL

サリドマイドの誕生(西ドイツ&日本)

紙の書籍『サリドマイド事件(第三版)』(アマゾン・ペーパーバック版:POD版)を出版しました(2023年2月20日刊)。内容はKindle版(第七版)と同じです。現在の正式版は、アマゾンPOD版(紙の書籍)としています。(最新:2023/02/25刷)

POD版、Kindle版共に、Web版よりもきちんとまとまっています。(図版も入っています)

Web版の方が分量の多い箇所も、一部あります。ただし、Web版は全て〈参考資料〉の位置付けです。このWebをご覧いただく際には、〈未完成原稿〉であることをご了解くださいますようお願いいたします。

睡眠・鎮静剤「コンテルガン」(西ドイツ)

コンテルガンの製造販売元グリュネンタール社

サリドマイドは、最初、チバ製薬(スイス)でグルタミン酸誘導体として製造(1953年)された。しかし、薬理作用がないということで開発は中止されていた。(以下主として、栢森1997,pp.6-12参照)

サリドマイドを改めて合成したのが、グリュネンタール社(西ドイツ、当時)である。同社は、1954年5月に特許を出願し、臨床試験を経て、1957年10月1日(昭和32)、睡眠薬・精神安定剤として「コンテルガン(Contergan)」の名前で販売を開始した。

サリドマイドは、従来から使用されていたバルビツール酸系睡眠薬とは系統の異なる薬剤である。

その特徴は、即効性があり、朝の持ち越し効果が少ないというものであった。また、呼吸抑制作用が弱く、大量に服用しても致死的でないので、自殺目的には使用できないと考えられた。

そこで、同薬の副作用として多発神経炎が問題となるまでは、西ドイツでも大衆薬(医師の処方箋を必要としない)として取り扱われ、最も人気の高い睡眠薬となった。

サリドマイドは、提携会社を通じて世界中(46か国)で販売された。その内訳は、欧州11、アフリカ7、アジア17、さらに西半球11か国に及び、各国でそれぞれ異なった商品名で販売された。また、そのほかの薬との複合剤としても幅広く使用された。

そのため、サリドマイドの催奇性が全世界のマスコミで取り上げられるようになってからも、自分の処方している薬にサリドマイドが含まれていることを知らない医師がいた。まして、一般市民では気付きようもなかった。

なお、フランス、米国及び東欧諸国(東ドイツ、旧ソ連など)では発売されなかった。

注)アマゾンKindle版には図表が入っています。

アマゾンKindle版『サリドマイド事件(第7版)』(最新:2023/02/25刷)

イソミン、製法特許を主張(日本)

大日本製薬(株)、グリュネンタール社とは異なる製法を採用する

日本のサリドマイドは、大日本製薬(株)が、薬学雑誌に掲載されたグリュネンタール社の文献にヒントを得て、独自の製法を用いて合成を行い特許を出願した。

物質特許ではなく製法特許を主張したのである。そして、1958年1月20日(昭和33)、「イソミン」の名前で販売を開始した。

注)製法特許主義とは、同じ化学物質であっても、製法さえ異なれば(別の化合物として)特許権を主張できるとする考え方。

なお、日本が欧米並みの物質特許主義に移行するのは、1976年1月1日(昭和51)のことである。そこで当然ながら、当時既に物質特許主義をとっていた西ドイツのグリュネンタール社との間で法的な争いが起こった。

大日本製薬(株)は、イソミン販売開始後にグリュネンタール社との間で技術援助契約を結んだ。さらに、その2年後には技術提携を行い特許問題を解決した。つまり「「日本及び隣接地域」での販売権と技術情報の提供の見返りにロイヤリティーを支払う」ことになった。(川俣2010,p.22)

イソミンは台湾へも輸出され被害を生じた。

薬事審議会と事務局限りの包括建議について

1950年代後半、薬事及び毒物劇物の取扱いに関する重要事項を調査審議するため、厚生大臣の諮問機関として薬事審議会(薬審)が設置されていた。(2001年以降、薬事・食品衛生審議会)

その中で、医薬品の製造許可に関連する組織としては、常任部会、そのほか新医薬品特別部会、更にその下部組織として新医薬品調査会が設けられていた。ただし、生物学的製剤については、生物学的製剤特別部会で処理をしていた。

なお、多数の案件を円滑に処理するため、一定の基準を満たすものは、事務局限り(厚生省薬務局製薬課)で処理を行っており、これを包括建議といった。

ここで一定の基準「以外」とは、「作用がはげしかったり、効能の範囲が社会的問題に大きく関係するような場合」を指すものと理解される。(平沢1965,pp.120-121)

イソミンは、包括建議第八項で処理された

厚生省は、イソミンの新薬申請を包括建議の対象とした。つまり、「(イソミンは)さほど重要な薬とみなされていなかったということになる」。(平沢1965,p.121)

ただし、先進国では既に発売されているものの、日本国内では初めての新薬として、包括建議第八項に該当する医薬品として受理した。

ところがその時、コンテルガン(西ドイツ)はまだ発売準備中だった。当然ながら世界各国のどこでも発売はしていなかった。それにもかかわらず、イソミンの製造販売許可申請書には、コンテルガンが既に西ドイツで販売されているかのような資料が添付されていたのである。

いずれにせよ、イソミンは包括建議第八項に該当する医薬品として、専門家(新医薬品調査会)の審議を必要とした。ただしそれは、あくまでも包括建議の対象としてであり、薬事審議会にかけられることはなかった。

当日の新医薬品調査会では、イソミンと他社品1剤の合計2剤が審議の対象となった。調査資料は1週間前に各委員宛に発送されていた。とはいうものの、審議は2剤合わせてわずか1時間30分程度で終了した。

イソミンの安全性・有効性について

イソミンの特許出願から製造販売許可申請まで、わずか1年足らずしかない。当然のことながら、きちんとした動物実験や臨床試験をやる余裕はなかったものと思われる。

また、大日本製薬(株)とグリュネンタール社との関係は、特許問題を抱えていたこともあって当初から良くなかった。大日本製薬(株)は、グリュネンタール社が持っていたサリドマイドに関する情報を、どの程度入手できていたのであろうか。

グリュネンタール社による発売前の臨床試験では、めまい、耳鳴り、便秘などの副作用報告があった。同社内でも、コンテルガン発売に反対する人たちがいた。そしてその懸念は、発売後に多発神経炎として証明されることになる。

グリュネンタール社では、ヒトにおける薬物動態(吸収、分布、代謝及び排泄)試験は実施していない。動物実験では、急性・亜急性毒性試験は不十分ながら行われたものの、慢性毒性試験のデータはない。催奇形性試験はもちろん行っていない。

いずれにせよ、大日本製薬(株)では、イソミンの有効性・安全性を評価するために必要十分なデータを集めきれてはいなかったと考えられる。それでも、イソミンは製造販売を許可された。

製薬課長(厚生省)の天下りをめぐって

イソミン発売当時の製薬課長(厚生省(当時))は、後に山之内製薬(株)に入社して開発部長になった。それに続いた二人の製薬課長は、退任後、それぞれ中外製薬(株)と藤沢薬品工業(株)に入社した。そして、同じく開発関連の部署についた。なお、それ以前の製薬課長(複数)も、ほぼ同規模の製薬企業に再就職していた。

いわゆる天下りである。

つまり、薬に関する許認可を与える側から、それを求める側に立場を変えたことになる。近い将来天下るかもしれない企業に対して、薬をめぐる審査を公正に行うことが果たしてできるであろうか。

平沢正夫(フリージャーナリスト)は、これを「副意識の中の贈収賄関係」と称している。(平沢1965,pp.181-185)

ところで、サリドマイド訴訟における和解確認書の覚書の署名者の中に、厚生省薬務局長の名前がある。署名にあたって彼は、二度と薬害は起こしませんと誓ったはずであった。しかし、(株)ミドリ十字に天下り、後に社長となった彼は、薬害エイズ事件の当事者として被告席に座ることになった。

<<前のページ・・・次のページ>>

イソミンとプロバンMの新聞広告(縮刷版20万ページの分析から)

紙の書籍『サリドマイド事件(第三版)』(アマゾン・ペーパーバック版:POD版)を出版しました(2023年2月20日刊)。内容はKindle版(第七版)と同じです。現在の正式版は、アマゾンPOD版(紙の書籍)としています。(最新:2023/02/25刷)

POD版、Kindle版共に、Web版よりもきちんとまとまっています。(図版も入っています)

Web版の方が分量の多い箇所も、一部あります。ただし、Web版は全て〈参考資料〉の位置付けです。このWebをご覧いただく際には、〈未完成原稿〉であることをご了解くださいますようお願いいたします。

はじめに

イソミンの新聞広告は、レンツ警告(1961年11月)の月でピタリと止まっていた。
そしてそれ以降、プロバンMが広告量を急激に伸ばし、朝日新聞スクープ(自主的に出荷中止)の直前まで広告を出し続けていた。

「イソミンではまずいとおもい、のこったサリドマイドをプロバンMにぶちこんで、ジャンジャン宣伝して、売りまくったのではなかろうか・・・・・。中森さんの疑いは消えなかった」。

イソミンの新聞広告はレンツ警告の月でピタリと止まっていた

イソミンの新聞広告は、レンツ警告(1961年11月)の月でピタリと止まっていた。

そしてそれ以降、プロバンMが広告量を急激に伸ばし、朝日新聞スクープ「自主的に出荷中止/イソミンとプロバンM」(1962年5月17日付け夕刊)の直前まで広告を出し続けていた。

中森黎悟さん(サリドマイド児の父親)は、縮刷版20万ページにも及ぶ新聞広告を調査した結果、上記のような傾向があることに気が付いた。

「イソミンではまずいとおもい、のこったサリドマイドをプロバンMにぶちこんで、ジャンジャン宣伝して、売りまくったのではなかろうか・・・・・。中森さんの疑いは消えなかった」。

しかし、そのことを裏付ける事実は見当たらない。私なりに検討した結果は以下のとおりである。⇒(レンツ警告以降もイソミンの販売量が減少することはなかった

(平沢1965,pp.202-205、この項の「」内は特に断りの無い限り左記資料からの引用、なお和暦を西暦に直した(算用数字に変更)箇所有り)

中森黎悟による新聞広告量の調査

中森はある時偶然に、サリドマイド販売量を新聞広告のスペース量で推測することを思い付いた。

それから約一か月間、彼は京都府立図書館にこもって、「大判の分厚い縮刷版のページをめくりつづけた」。
そして、『朝日』、『毎日』、『読売』三紙について、1957年10月(昭和32)から1962年末(昭和37)までの医薬品広告を調べ尽くした。

なお中森は、次のようなことから新聞広告量の調査を思い立ったという。

「医薬品は、外国では75%、日本では100%までが、広告の力で売れている」という趣旨の文章をたまたま目にした。大手製薬企業の社長が書いたものであった。

イソミンとプロバンMの新聞広告(掲載期間)

睡眠薬イソミン(サリドマイド製剤)の発売は、1958年1月20日(昭和33)である。

「イソミンの広告は、発売直前の1958年1月15日にはじめて出た」。
そして、「イソミン広告の最後は、(1961年)11月30日」であった。
その間、イソミンの広告は断続的に、1958年7~9月、1959年3~8月、1960年2~3月と続き、「1960年5月からはずっとつづけて、1961年11月にいたっている」。

胃腸薬プロバンM(サリドマイド含有製剤)の発売は、1960年8月22日(昭和35)である。

「プロバンMの広告の初出は、1961年5月21日」であった。
「プロバンの広告は、イソミンの広告が出なくなったあともつづき、1962年の5月まで出されていた」。
最後は5月13日で、「4日後の17日、大日本は、製造と出荷の中止を発表した」。

大日本製薬(株)によれば、「プロバンMは、はじめ医家むけとして、売りだした。
発売後1年近くなってから、医家向けの実績のうえにたって、一般大衆むけに売ろうとして、宣伝を開始した。
それが1961年の秋から1962年の冬にかけて、ピークに達した」という。

イソミンとプロバンMの新聞広告量(レンツ警告前後の変化)

中森は、広告量を「1段の半分のスペースを1とした指数」で表わしている。

1)レンツ警告の前月(1961年10月)

イソミンとプロバンMの広告量(指数)は、ほぼ同数(15.5、16.7)である。
つまり、プロバンMの広告量は、初出(1961年5月)から数か月たった頃、イソミンの広告量とほぼ同じであった。

2)レンツ警告の当月(1961年11月)

イソミンの広告量(20.0)は前月から約3割増しなのに対して、プロバンM(53.0)は3倍以上も増加している。

ただし、この月はまだレンツ警告の影響は何も出ていない。
レンツ警告が大日本製薬(株)にもたらされたのは、翌月(12月)に入ってからである。

つまり、レンツ警告の当月にプロバンMの広告量が急増し始めたのは、それ以前からの販促活動に弾みがついた結果と考えられる。

3)レンツ警告の翌月以降(1961年12月以降)

イソミンの広告が姿を消した。
それと入れ替わるようにして、プロバンMの広告量は、86.8(1961年12月)、113.5(1962年1月)と急増している。

睡眠薬の規制強化(厚生省)

レンツ警告(11月15日)とちょうど時を同じくして、厚生省は睡眠薬の規制強化に乗り出した。
その内容は、平沢によれば以下のとおりである。

「11月22日(1961年)、厚生省は、薬務局長名の告示396号を出して、睡眠薬にはすべて、習慣性ある旨を効能書に明記することをきめ、未成年者には売らないこととし、広告を出すことも当分の間禁止した」。

「はびこる睡眠薬への対策の一環として、とられた措置であった」。

大日本製薬(株)は、イソミン広告の中止に関して、上記厚生省の通達に従ったまでであるとしている。
つまり、イソミン広告の中止は、「西ドイツのサリドマイド禍のニュースとは、なんの関係もない」との見解を示している。

平沢は、上記種々の資料(「」内引用文など)を提供した上で、最後に「中森さんの疑問が的を射たものどうか。大日本の説明が事実ありのままであるかどうかは、決めようがない」と結論付けている。

参考)睡眠薬の規制強化(梶井証言)

梶井正博士は、日本のサリドマイド裁判において、睡眠薬の規制強化に関して次のように証言している。

1962年の1月1日から薬局で買う場合には買う人が住所氏名を記載して買うということになりました。しかしこれはサリドマイドの問題が起きたからではなくて、その当時青少年の睡眠薬遊びが流行していたのでそれを防止するための措置であったと解釈しています」。(藤木&木田1974,梶井証言pp.131-132)

プロバンM(あるいはプロバンMB)の広告はいつまで出されたのか

大日本製薬(株)は、1962年7月7日(昭和37)、プロバンMに替えてプロバンMBを発売している。
配合剤の成分の一つを、サリドマイドからブロモバレリル尿素に切り替えた「新処方」の製品である。

実は大日本製薬(株)は、1962年5月の出荷中止や同年9月の回収決定後もプロバンMの新聞広告を出し続けていた。
しかしそれは、いつの時点からか、サリドマイドを含まないプロバンMBをプロバンMとして宣伝広告したものだったようである。

プロバンMの広告は回収決定の直前まで出されていた

中森データでは、プロバンMの広告は、朝日新聞スクープ「自主的に出荷中止/イソミンとプロバンM」(1962年5月17日付け夕刊)の直前まで出されていたとしている(既述)。

川俣修壽(サリドマイド事件支援者)は、影山文献1972を引用する形で、「(プロバンMの広告は)イソミンの出荷停止後も依然としてつづけられ、回収開始の22日前まで出されていた」としている。
(影山1972,p.326-327、川俣2010,p.35)⇒後日影山文献のコピーを入手して確認。

つまり、読売新聞スクープ「日本にも睡眠薬の脅威」(1962年8月28日付け)の直前まで、プロバンMの広告が出されていたことになる。
ただし、このプロバンMの広告は、プロバンMB(同年7月発売)の可能性がある(下記)。

なお、影山文献1972におけるイソミン広告月のデータ(中森データの引用)は、平沢1965(上記)のそれとは異なっている。
つまり、広告有りの月と広告無しの月が、平沢と影山ではあべこべになっている箇所がある。
そして川俣は、影山データをそっくりそのまま引用している。

ちなみに、川俣は、プロバンMの出荷中止は除外されており、注文があれば卸から小売り店への出荷を続けていたとも書いている。(川俣2010,pp.44-45,533)

プロバンMBの広告は「プロバンM」としてそのまま続けられた

松下一成(市民の医療ネットワーク)は、その著書で「プロバンMの新聞広告」のコピー画像を掲載している。
朝日新聞夕刊(1962年12月19日付け)に載ったものである。(松下1996,p.25)

栢森良二(帝京大学医学部)の著書にも、イソミン錠やプロバンM錠の新聞広告のコピー写真が載っている。
その中で、プロバンM錠のものは、上記松下のものとほとんど同じデザインである。
しかも、松下資料よりも後の1962年12月27日付けとなっている。(栢森1997,pp.10-11)

1962年12月といえば、プロバンMは既に販売中止(同年9月)となっている。
それに対して、上記の松下や栢森の新聞広告画像を確認すると、小さな文字で「新処方」と書かれていることが分かる。
つまり、プロバンMB(同年7月発売)をプロバンMとして宣伝広告を続けたものと考えられる。

<<前のページ・・・次のページ>>

参考URL

サリドマイド使用量の推移とサリドマイド胎芽病の増減には相関関係がある

紙の書籍『サリドマイド事件(第三版)』(アマゾン・ペーパーバック版:POD版)を出版しました(2023年2月20日刊)。内容はKindle版(第七版)と同じです。現在の正式版は、アマゾンPOD版(紙の書籍)としています。(最新:2023/02/25刷)

POD版、Kindle版共に、Web版よりもきちんとまとまっています。(図版も入っています)

Web版の方が分量の多い箇所も、一部あります。ただし、Web版は全て〈参考資料〉の位置付けです。このWebをご覧いただく際には、〈未完成原稿〉であることをご了解くださいますようお願いいたします。

サリドマイド販売量と奇形発生との関係をみたデータ(西ドイツの場合)

疫学研究によれば、サリドマイド胎芽病は、サリドマイドが販売された場所(国)と時間(期間)でのみ発生している。サリドマイド使用量の推移とサリドマイド胎芽病の増減には、少なくとも相関関係があることは間違いない。

それに加えて、四分表(2✕2表)や各種動物実験そしてヒトにおける奇形発生のルールを詳細に検討することによって、サリドマイド仮説「サリドマイド胎芽病の原因はサリドマイドに有る」(因果関係)は証明されたといえる。

書籍「裁かれる医薬産業」収載のグラフ

世界で初めてサリドマイドを開発販売したのは、西ドイツ(当時)のグリュネンタール社である。その西ドイツにおける奇形発生とサリドマイド売上高との関係をみたグラフとして、次の資料がよく使われている。

「サリドマイド型奇形の発生とサリドマイドの売上高との関係を示すグラフ(ハンブルクを除く西ドイツ全国の数値)」である(シェストレーム1973,p.168 ⇒転載、栢森1997,p.41など)。下図は、高野哲夫(1981,p.127)のものから引用した。

注)アマゾンKindle版には図表が入っています。

資料をみると、2本の折れ線グラフが示されている。

西ドイツにおけるサリドマイドの売上高(1961年1月=100)とサリドマイド型奇形845件(1961年10月=100)の推移をみたものである。それぞれのピーク時の値を100%とした指数で表わされている。

ここで、サリドマイドの売上高の波形(1961年1月がピーク)を9か月後ろにずらしてみると、サリドマイド児の発生件数の波形(1961年10月がピーク)とぴったり重なることが分かる。

つまり、サリドマイドの売上高(総使用量)とサリドマイド児の発生件数は、約9か月のずれを持って、ほぼ同じ比率で増加・減少していることを示している。

したがって、このグラフからサリドマイド服用とサリドマイド児出生との間に相関関係があることは明らかである。

なお、ここでは以下のことを前提としている。

まず、妊娠初期の母親がサリドマイドを服用してから、サリドマイド児が出生するまでは約8か月である。さらに、サリドマイド製剤を購入してから服用するまでの期間を1か月と仮定すると、サリドマイド購入から約9か月後にサリドマイド児が生まれることになる。

売上高と奇形児出生数の推移グラフについて詳しくみてみよう

1)「西ドイツにおけるサリドマイドの売上高」は1960年になって急激に増加している。

サリドマイドの売上高は、翌年の1961年1月、ピークに達したもののその後は急速に減少している。その原因は、副作用報告(多発神経炎)の増加にある。(増山編1971,増山pp.15-16)

実はレンツ警告(同年11月)が出た頃には、売上げは既に相当落ち込んでいたことが分かる。

2)「サリドマイド児の発生件数」を見ると、コンテルガン発売(1957年10月)の1年以内に最初の症例が発生している。

発生件数は、1961年10月をピークとして急速に上昇・下降して、最後はゼロとなっている。

梶井データ(日本の場合)

書籍「あざらしっ子」収載のグラフ

梶井正(当時、ジュネーブ大学助教授)は、サリドマイド裁判に出廷して証言をしている。そのときに証拠として提出された資料の一つが、自身で作成したデータ「甲一二九号証の一」、つまり「サリドマイド胎芽症の出生頻度を示すヒストグラム(180例)」である。(1971年10月、東京地裁)

梶井は、この一つ前の段階(160例を集積した時点)で、英語の論文を一つ書いている(Kajii,1965,Ann Paediatr)。そして平沢正夫(フリージャーナリスト)は、この英語論文を紹介している。(平沢1965,p.192)。

注)アマゾンKindle版には図表が入っています。

図をみると、ヒストグラム(全国のサリドマイド児の出生数を示す棒グラフ)と、折れ線グラフ(北海道におけるサリドマイドの店頭販売量)が、それぞれのピーク時の値を100%として示されている。(注:データは、4か月ごとに区切って集計されている)

なおこの図では、店頭販売量(折れ線グラフ)を8か月後ろにずらして、出生数(棒グラフ)と重ねて表示している。妊娠初期の母親がサリドマイドを服用してから、サリドマイド児が生まれるまで約8か月と仮定しているのである。

改めてグラフをみると、日本におけるサリドマイド児の出生ピークは、「1962年9~12月(昭和37)」にある。

そして、そこで店頭販売量のピークと重なっている。つまり、その8か月前「1962年1~4月(昭和37)」に店頭販売量がピークになったことを示している。

そしてその後、両者はほとんど重なり合いながら、ほぼ同じ比率で減少している。

つまり、サリドマイド製剤の出荷中止(1962年5月)とそれに続く販売中止・回収決定(1962年9月)によって、サリドマイドの店頭販売量(総服用量)が減少するとともに、サリドマイド児の発生数が減少していったことを示している。

最後は当然、両者ともゼロになっている。

これによって、サリドマイド服用とサリドマイド児出生との間に、少なくとも相関関係があることは否定できない。

梶井は北海道の店頭販売データを使用している

この資料で梶井は、北海道における店頭販売量を、全国のサリドマイド販売量に置き換えて検討している。これに対して大日本製薬(株)は、「方法上の誤りがあるから無意味な分析だ」と批判していた。

しかし、吉村功(名古屋大学助教授)の分析によって、両者の間にはきれいな比例関係のあることが証明されている。(増山編1971,吉村p.256)

なお、この北海道の店頭販売データは、北海道衛生部薬務課の管轄下にある各保健所(50か所)が、薬局を直接訪問して販売ノートを調べて、その結果をまとめたものである。(藤木&木田1974,梶井証言p.146,150)

この調査では、プロバンMを除く各社のサリドマイド製剤の〈錠数〉を集計している。ほとんどの製品は1錠25mgであり、一部1錠50mgの製品があるもののその数量は無視できるほど小さい。

ところで、この調査のきっかけとなったのは、1962年1月1日(昭和37)から睡眠薬を販売する際には住所氏名の記載が必須となるなど、睡眠薬規制の強化が行われたことによるものと思われる。

実際のところ、この調査では、サリドマイド製剤に限らずブロバリンなども含む睡眠薬全般が対象となった。

いずれにしても、調査の信ぴょう性は高い。全国でも行われるべき調査であった。

<<前のページ・・・次のページ>>

参考URL

サリドマイド胎芽病と催奇形性

サリドマイド胎芽病とは、サリドマイドを妊娠初期の母親が服用することによって、胎児(正確には胎芽)に生じる障害(奇形)のことをいう。つまり、サリドマイドには催奇形性がある。

サリドマイドによる障害(奇形)は、四肢(特に上肢)、顔面(特に耳)そのほか全身に及ぶ。

なお、「サリドマイド胎芽症 診療ガイド2017」において、「サリドマイド胎芽病」は「サリドマイド胎芽症」と改称されている。

サリドマイドには催奇形性がある

サリドマイドは胎芽期に作用して奇形を生じる

サリドマイド胎芽病とは、サリドマイドを妊娠初期の母親が服用することによって、胎児(正確には胎芽)に生じる障害(奇形)のことをいう。つまり、サリドマイドには催奇形性がある。

妊娠中の母親が、胎芽期(胎児になる前の段階:週齢で3~7週)にサリドマイドを服用すると、種々の奇形を生じる可能性が極めて高い。つまり、サリドマイドによる奇形は妊娠初期(胎芽期)に限られる。

ここで週齢とは、最終月経開始日からの週数をいう。生理中は第ゼロ週となる。排卵日は、最終月経開始日から14日前後(一般的な月経周期28日前後)であり、第2週の初めとなる。その後、もし受精すれば、すぐに第3週である。

さて、サリドマイドによる障害(奇形)は、四肢(特に上肢)、顔面(特に耳)そのほか全身に及ぶ。

サリドマイド胎芽病の特徴としては、一般的には、四肢、特に上肢の低形成であるフォコメリアphocomelia(海豹肢症―あざらし肢症)がよく知られている。その一方で、難聴や外耳奇形を含む聴覚器に強い障害が出る場合がある。さらに、あまり知られていないが、障害は内臓まで及ぶことも見逃せない。

なお、「サリドマイド胎芽症 診療ガイド2017」において、「サリドマイド胎芽病」は「サリドマイド胎芽症」と改称されている。

胎芽の成長段階に応じて、薬に敏感な器官は異なっている

サリドマイドを妊婦が服用することによって生じる障害(奇形)は、いずれも妊娠初期(胎芽期)に限られている。

さらに細かくみると、胎芽の発達段階に応じてサリドマイドに敏感な器官は異なっている。つまり、サリドマイドを服用する時期の違いによって、奇形の種類(形)は異なってくる。

サリドマイド胎芽病による奇形には、一定の連続性(順序)がある。例えば、上肢・下肢では、形成不全(低形成)から部分欠損さらに完全欠損(無形成)へと変化していく。(栢森1997,p.147)

最終月経開始日から数えて、34~50日の間が危ない

ノバックとレンツは、最終月経開始日からの日数を基にして、サリドマイド胎芽病の所見ごとに、それらが発生しやすい時期(過敏期)について詳細な研究を行った。

その結果、妊婦のサリドマイド服用による障害は、最終月経初日から数えて34~50日の間に生じることが分かった。(増山編1971,木田p.138)

受精卵から着床まで:週齢で1~2週、胎芽期:週齢で3~7週、胎児期:それ以降8~38週。(最終月経開始日から14日後排卵、受精と仮定)

レンツの調査研究の成果は、木田監訳1981,p.281「サリドマイド服用の時期と奇形の種類の関係」にも記載されている。ここで、サリドマイド服用の時期とは、月経後の日数(最終月経第1日目から数えた日数)のことである。

月経後の日数と奇形(以下、木田監訳1981,p.281から引用)

  • 35日・・・・・無耳症、顔面神経麻痺、眼筋麻痺
  • 37日・・・・・異常のない橈骨と母指の欠損
  • 38~40日・・・上肢の欠損またはほぼ完全な欠損
  • 41~43日・・・鎖肛、腎奇形、膣閉鎖
  • 43~45日・・・重症上肢奇形、心奇形、十二指腸閉鎖および狭窄
  • 44~47日・・・重症下肢奇形、心奇形
  • 47~48日・・・母指3指節、鎖肛

表の説明では、「日数は、個々の奇形症状に対する最も頻度の高い服用日をあげたものである。個々の症例は5日までの偏差があり、月経不順の場合にはこの偏差はさらに大きくなる」としている。注)橈骨(とうこつ)。

サリドマイドによる障害は、服用時期の早い順に、耳、腕そして脚の順番に生ずる

レンツによる「月経後の日数と奇形」の研究成果からも分かるように、「一般に耳の奇形は受胎してから早い時期に薬を投与されたときに起こり、腕の奇形は少し遅れて、脚の奇形はさらに遅い時期に起こることが知られている」。(増山編1971,木田p.137)

また、サリドマイドの影響は上下肢や耳だけではなく、そのほか眼科的な合併症や、口腔顔面領域における機能形態障害、あるいは、内臓(心臓奇形,無胆囊症,鎖肛など)まで及ぶ。重症度に応じて死亡率も高まるものと思われる。

いずれにせよ、これらの障害によってサリドマイド児のADL(日常生活機能)は制限され、また、社会的に不利な立場におかれやすくなる。障害者の「社会に参加する権利」を保証する「社会」の確立が望まれる。

全世界の発生数5,850名(死亡率40%)と推定される

サリドマイドの被害状況については、被害総数の中の生存者数及びその割合(生存率)、あるいは死産の数及びその割合(死亡率)の表記方法が資料によってまちまちとなっている。

また、それらの数値そのものが資料によって異なっている場合がある。したがって、取り扱いには注意が必要である。

栢森良二(帝京大学医学部)による発生数のまとめ

栢森良二は、サリドマイド児の発生数について、レンツ文献から紹介している。

それによると、西ドイツが最も多くて3,049症例、ついで日本309症例、英国201症例と続いており、私なりにそれらを合計すると4,165症例となる。(栢森1997,p.39)

そしてこの数値は、日本309症例とあることからも分かるように、生存被害児の数をまとめたもので間違いない。ただし、ここで取り上げているのは全部で19か国であり、全世界をカバーしたものではないと思われる。

栢森は、さらにサリドマイド胎芽病の死亡率について、レンツ文献から次のように引用している。「3,900症例が生存している。死亡率は40%程度と算出されることから、全世界の発生は5,850症例と考えられる」。(栢森1997,p.41)

そしてこの数値は、「サリドマイド胎芽病診療 Q&A」(2014,p.11)に記載された「全世界の発生は5,850名と推定」の数値と同じである。

注)4,165症例と3,900症例がどのような関係になるのか不明。

サリドマイドの障害は四肢の欠損と耳の障害に大別される

日本におけるサリドマイド被害者の障害の種類と内訳

日本の被害認定患者数(生存者数)は309人である。(サリドマイド福祉センター「いしずえ」所属)

「公益財団法人いしずえ」のホームページを確認(2014/05/17閲覧)すると、「サリドマイドと薬害」のページに、「日本におけるサリドマイド被害者の障害の種類と内訳」が示されている。

そこでは、「サリドマイド製剤による障害は主に四肢の欠損症と耳の障害です」とした上で、それぞれの障害の種類や障害の程度別の人数を一覧にしている。

私なりにそれをまとめると、主に手の障害246人(約3/4)、主に聴覚の障害82人(約1/4)、重複19人となっている。つまり重複例は少なく、手の障害と聴覚障害の二つのグループに大別されることが分かる。なお、総合計は、246+82-19=309(認定数309と一致)である。

注)いしずえ1984(p.58)の資料の一部を少し修正しているようである。

「サリドマイド胎芽病診療 Q&A」(2014,p.12)では、上肢低形成型233名、聴器低形成型56名、そして混合型20名としている。総合計は、233+56+20=309(認定数309と一致)である。

「診療Q&A」の数値の内訳は、いしずえホームページとは多少異なっている。2011年度以降、新たに実施した調査の結果、訂正(修正)したのであろう。なお同Q&Aによれば、2012年4月現在の生存者数は295名である。

また、「診療ガイド2017」では、以下のとおり、さらに多少数字が変更されている。

「サリドマイド胎芽症は身体的特徴によって2つのグループに分けられる。1つは上肢低形成群で 230/309(75%)人、聴器低形成群59/309(19%)人であり、2つのグループの混合群20/309(6%)になっている。つまり上肢低形成群が75%、聴器低形成群が25%ほどとみることができる」。(診療ガイド2017,p.13)

薬物などの催奇形性は世界的な常識であった

増山元三郎(東京理科大学教授)の見解

薬物などに催奇形性があることは、サリドマイド事件当時、既に世界的な常識であった。

例えば、増山元三郎は次のような事例を挙げている。(増山編1971,増山p.14)

(サリドマイド事件)当時既に堕胎剤に用いられるキニーネやアミノブテリン(ママ)の催奇形性が知られていたし、胎芽の発育期という点で、妊娠の初期の薬物投与が危険ということも、当時知られていたし、妊娠の初期に風疹にかかると、奇形児を生みやすいことも有名だった。
注)アミノプテリン(葉酸誘導体)

ところで、サリドマイド児が数多く生まれた背景として、例えば日本では、「イソミンは妊婦にも安全である」として宣伝されたことが挙げられる。ところが、イソミンの催奇形性試験は実施されてはいなかった。世界的に見ても、その当時、新薬の催奇形性試験が〈義務〉付けられていなかったことは確かである。

しかしながら、サリドマイドを妊婦にも安全だとして宣伝する(した)以上は、当時の世界的な学問水準に基いて、サリドマイド発売前の催奇形性試験は必須だったと言える。

なお、この事件を契機として、日本でも1965年5月(昭和40)、厚生省通達(薬製第125号通達)によって新薬に対する催奇形性試験の実施が義務付けられた。

臨床薬理学の世界的権威・ティエルシュ教授(ワシントン州立大学)の証言

日本のサリドマイド裁判では、海外から3人が証人(及び鑑定人)として出廷した。いずれも原告側であり、被告側の証人出廷は認められなかった。

原告側の3人とは、レンツ警告を発したレンツ博士(西ドイツ)、日本人のサリドマイド禍について最初に発表した梶井博士(出廷当時、ジュネーブ大学助教授)、そしてティエルシュ教授(米国)である。(藤木&木田1974,各人の証言,1971年と1973年)

ティエルシュ教授(ワシントン州立大学)は、臨床薬理学の世界的権威であった。教授は第二次大戦後、数多くの化学物質について、多様な実験動物及びヒトを対象とした研究で成果を上げていた。もちろん、催奇形性は主要な研究テーマの一つであった。数多くの化合物に催奇形性があることは、サリドマイド発売当時既に世界の常識であった。

妊婦には何も服薬させないのが当時からの常識だった

ティエルシュ教授は、裁判で次のように証言している。

「(サリドマイド発売までの時点において)産科、婦人科の教科書にも書いてあったことでありますが、妊娠期間中、特に最初の数ヵ月、三ヵ月ほどまでは、妊婦は何もとるべきでない、また、何もとることを勧告すべきでないというふうに言われておりました」。(ティエルシュ証言,p.195)

大日本製薬(株)は、「つわりも適応症だとパンフレットに書いていた」という(川俣2010,p.178)。もしそうであるならば、妊婦が服用しても催奇形性はないことを証明してから発売すべきであった。

ティエルシュ証言にあるように、当時既に、催奇形性のある化合物がいくつも知られていたからである。また、成人において安全とされた化合物が、全て胎児にも安全であるとは限らないからである。

化学構造式から催奇形性は予見できた

ティエルシュ教授は、裁判で次のようにも証言している。

サリドマイド奇形の話を初めて聞いた時、少しも驚かなかった。なぜならば、サリドマイドの化学構造式には「グルタミン酸とフタール酸塩を含んでいる」と教えられたからである。(ティエルシュ証言,p.190、「」内以外は要約)

ティエルシュ教授の研究対象の一つに、アミノプテリン(葉酸拮抗物質)がある。同薬剤の研究によって、ビタミンあるいは葉酸拮抗物質が、胎児に悪影響を及ぼす危険性があることが分かった。そして、アミノプテリンは、サリドマイドと同じくグルタミン酸誘導体である。

なお同教授は、グリュネンタール社の動物試験では安全性が完全に確立されていたとは言えないとしている。つまり、妊婦や胎児に対する影響が調査されていないことのほかに、慢性毒性試験が行われていないなど、いくつかの項目が抜け落ちていると指摘している。(ティエルシュ証言,pp.195-196)

<<前のページ・・・次のページ>>

参考URL

サリドマイドの血管新生抑制作用と不斉合成

紙の書籍『サリドマイド事件(第三版)』(アマゾン・ペーパーバック版:POD版)を出版しました(2023年2月20日刊)。内容はKindle版(第七版)と同じです。現在の正式版は、アマゾンPOD版(紙の書籍)としています。(最新:2023/02/25刷)

POD版、Kindle版共に、Web版よりもきちんとまとまっています。(図版も入っています)

Web版の方が分量の多い箇所も、一部あります。ただし、Web版は全て〈参考資料〉の位置付けです。このWebをご覧いただく際には、〈未完成原稿〉であることをご了解くださいますようお願いいたします。

はじめに

サリドマイドによる四肢短縮など(奇形)は、TNF-αの持つ血管新生作用が抑制されることによって生じる。

サリドマイドには「不斉」炭素が一つある。

睡眠・鎮静作用があるのは「右手型(R体)」、催奇性による四肢の矮小化などの作用があるのは「左手型(S体)」である。ただし、生体内では、R体のみを投与しても速やかにS体に変化するとされており、副作用対策は単純にはいかない。

サリドマイドはTNF-αの血管新生作用を抑制する

TNF-αには血管新生作用がある

サリドマイドの催奇形性に関して、サリドマイドによる血管新生抑制作用は有力な仮説の一つである。

サリドマイドは、血管新生作用を持つTNF-αの免疫系内での合成を選択的に抑制する。

つまり、サリドマイドによってTNF-αの合成が抑制されるということは、血管新生作用が抑制されることを意味する。その結果、例えば四肢に育つ組織に血管が作られず、手足の正常な形成が阻害されると考えられている。

腫瘍壊死因子:TNF(Tumor Necrosis Factor)は、腫瘍細胞を壊死させる作用のある物質として発見されたサイトカインである。その中の一つにTNF-αがある。

サイトカイン:細胞から分泌されるタンパク質で、標的細胞に対して情報伝達を行う。サイトカインは、インターフェロンやインターロイキンあるいは腫瘍壊死因子(TNF)などに分類される。

サリドマイドは免疫抑制剤の一種である

最近では、サリドマイドは免疫抑制剤として、ステロイドよりも優れているとするデータが数多く発表されるようになっている。

例えば、ヒト免疫不全ウイルス(HIV-1)の増殖そのものを抑制したり、自己免疫疾患(慢性関節リウマチ、動脈硬化症、乾癬症、SLEなど)に対して有効とされている。

逆に、サリドマイドによる血管新生抑制作用を治療に応用できる可能性がある。

例えば、新たな血管が異常に形成される病態である糖尿病性網膜症や老人性黄斑変性症では、むしろ血管新生を抑制することが治療につながるからである。

同様の理由で、各種がんに効果が期待できる。

例えば、1999年10月、米国国立がん研究所はサリドマイドによる結腸・直腸がん治療の臨床試験を開始すると発表した。2001年8月には、Mayo Clinicによって、サリドマイドが早期多発性骨髄腫(血液がんの一種)に有効であるとの報告がなされている。

このように、サリドマイドの薬剤としての可能性は非常に高い。今後ともさらにその適応は広がっていくものと考えられる。

サリドマイドは、グアニン(核酸塩基の一種)とよく似ている

以下では、主としてステフェン(邦訳2001,pp.259-279)を参考にしてまとめてみた。

サリドマイド分子の一部は、DNAを構成する核酸塩基の一種であるグアニン(G)と驚くほどよく似ている。そして、グアニン(G)と類似構造を有するサリドマイドは、DNAの二重鎖の中に滑り込む(インターカレートする)ことができる。DNA:デオキシリボ核酸―Deoxyribo Nucleic Acid(遺伝子の本体)

DNA塩基配列の中には、5′-GGCGGG-3’という特殊な配列(グアニンとシトシンによる配列でGCボックスと呼ばれる)をもつ個所がある。このGCボックスが、成長刺激の連鎖反応に関する一連のたんぱく質(複数)のそれぞれの遺伝子中に8箇所も発見されている。

DNAに入り込んだサリドマイドが、この“GCボックス”に何らかの影響を及ぼし、胚の一部での血管新生とそれに続く正常な発達を妨げるものと考えられる。

DNA(核酸の一種)の構成成分となる4つの塩基:

  • アデニン(A)—-プリン塩基
  • グアニン(G)—-プリン塩基
  • シトシン(C)—-ピリミジン塩基。グアニンと塩基対を形成(水素結合3つ)
  • チミン(T)——ピリミジン塩基。アデニンと塩基対を形成(水素結合2つ)

サリドマイドの標的タンパク質(セレブロン)が見つかった

サリドマイド禍の主要な原因標的タンパク質を同定

国立大学法人東京工業大学は、2010年3月8日(平成22)、「サリドマイド催奇性における主要な標的因子を発見」したことを公表した。その内容(冒頭一部のみ)は、次のとおりである。(同大学Webより、2014/10/19閲覧、「」内引用)

「国立大学法人東京工業大学(伊賀健一学長)の統合研究院・半田宏教授と伊藤拓水研究員らのグループは,東北大学加齢医学研究所・小椋利彦教授との共同研究で,1960年前後において引き起こしたサリドマイド禍の主要な原因標的タンパク質を同定した」。これによって、「催奇性を軽減させたより優れた新薬開発への道」が開かれたことになる。

注)標的タンパク質の名前:セレブロン(CRBN:cereblon)

サリドマイド誘導体による抗炎症作用のメカニズムを解明

大阪大学は、2016年9月8日(平成28)、レナリドミド(サリドマイド誘導体)による抗炎症作用のメカニズムを解明することに成功したと発表した。

同大学免疫学フロンティア研究センターの岸本忠三教授らの研究グループによる研究成果で、今後、炎症性自己免疫疾患(関節リウマチなど)にいかに応用していくかが注目される。

サリドマイドの催奇形性問題を分子レベルで解明

国立大学法人名古屋工業大学は、2018年2月20日(平成30)、「サリドマイドの催奇形性問題を分子レベルで解明-40年間の謎に終止符-」することに成功したと発表した。その内容(冒頭一部のみ)は、次のとおりである。(同大学Webより、2019/10/09確認、「」内引用)

「箱嶋敏雄教授ら(奈良先端科学技術大学院大学)、半田宏特任教授ら(東京医科大学)および柴田哲男教授ら(名古屋工業大学)の共同研究グループは、40年近くもの間詳細が不明であったサリドマイドの催奇形性(胎児に奇形が起こる危険性)にまつわる問題をついに分子レベルで解明することに成功しました。今後、催奇形性の無い安全なサリドマイド型治療薬の開発が期待されるほか、新規治療薬の開発に向けての大きな足掛かりになることが期待されます」。

サリドマイドが手足や耳に奇形を引き起こすメカニズムを解明

国立大学法人東京工業大学は、2019年10月8日(令和1)、「サリドマイドが手足や耳に奇形を引き起こすメカニズムを解明」したことを公表した。その内容(一部のみ)は、次のとおりである。(同大学Webより、2019/10/8閲覧、「」内引用)

「東京医科大学 ナノ粒子先端医学応用講座(現・ケミカルバイオロジー講座)の半田宏特任教授(東京工業大学 名誉教授)および伊藤拓水准教授、東京工業大学 生命理工学院の山口雄輝教授、イタリア ミラノ大学のルイーサ・ゲリーニ(Luisa Guerrini)博士らの国際共同研究グループは、サリドマイドの深刻な奇形がp63というタンパク質の分解によって引き起こされることを明らかにしました」。

  • 「セレブロンというタンパク質がサリドマイドの主要な細胞内標的因子である」。
  • 「サリドマイド系の化合物がセレブロンに結合するとセレブロンの基質特異性が変化」する。
  • すると、「通常は分解されないタンパク質が分解されるように」なる。
  • 「このように、薬剤依存的に分解されるタンパク質をセレブロンの「ネオ基質」」と呼ぶ。
  • この度、「サリドマイドの催奇形性に関わるネオ基質がp63というタンパク質である」ことを見出した。
  • 「p63タンパク質には大小の2つのタイプ」がある。
  • 「胎児の発生過程で小さい方が手足の形成に、大きい方が耳の形成に重要な役割」を果たしている。
  • 「サリドマイドがセレブロンに結合するとp63の大小両方の分解が誘導」される。
  • 「その結果、手足や耳の奇形が引き起こされる」。

「本研究によりp63の分解が副作用の原因であることが判明しました。p63の分解を誘導しないサリドマイド系化合物を探索することにより、安全性の高い新薬の開発が可能になると考えられます」。

セレブロンをめぐる一連のメカニズムと、サリドマイドの血管新生抑制作用との関わりについても研究が進むことが期待される。

サリドマイドには「不斉」炭素が一つある

サリドマイドの催奇形性は左手型(S体)にある

サリドマイドには「不斉」炭素が一つある。そして長年、睡眠・鎮静作用があるのは「右手型(R体)」、催奇性による四肢の矮小化などの作用があるのは「左手型(S体)」だとされてきた。

そのことが分子レベルで解明されたのは2018年(平成30)のことで、科学誌「Scientific Reports」のオンライン速報版(2018年1月22日)で公表された。

ただし、サリドマイドの催奇形性対策を考えるとき、ことはそう単純ではない。

  • 催奇形性が「左」「右」両者のうち一方のみにあるということは事件後に分かったことである。
  • たとえ、事件前にその事実をつかんでいたとしても、両者を完全に分離生産する技術は当時まだ確立されていなかった。
  • さらに、その後の研究によると、サリドマイドの場合、右手型も体内で少しづつ左手型に変化していく。つまり、ラセミ化していくという。

サリドマイドが市場に登場した段階で既に悲劇は始まっていた。医薬品を製造販売することの責任の厳しさを示す事件である。

ノーベル化学賞・野依良治教授(不斉合成)

2001年度ノーベル化学賞に、野依のより良治りょうじ(名古屋大学大学院教授)ら3名が選ばれた。

スエーデン王立科学アカデミーは2001年度のノーベル化学賞を “触媒による不斉合成(Catalytic asymmetric synthesis)” の業績に対して贈ることを決定した。その半分は “キラル触媒による不斉水素化反応の研究” に対するものであり、米国のウィリアム・ノールズ氏(William S.Knowles、米モンサント元研究員)と野依良治氏(名古屋大学大学院教授)に連名で、残り半分を “キラル触媒による不斉酸化反応の研究” に対し、米国のバリー・シャープレス氏(K.Barry Sharpless、米スクリプス研究所教授)に贈ることを決定した。

日本人のノーベル化学賞授賞は、前年の白川英樹・筑波大学名誉教授に引き続くもので、日本の化学の水準の高さを示す結果となった。なおこの時点において、日本人のノーベル賞授賞者は野依教授も含めて全部で10人である。そして翌年、田中耕一・島津製作所フェロー(受賞後昇進)が2002年度のノーベル化学賞を受賞した。3年連続で日本人がノーベル化学賞を受賞したことになる。

なお、野依良治教授は、2003年10月から独立行政法人理化学研究所(理研)の初代理事長となり、2015年3月末で辞任した。その理研から、STAP細胞に関する論文が発表されたのは、2014年1月のことであった。(科学誌『ネイチャー』2014年1月30日号掲載)

不斉合成とは何か

ニュートン22巻1号(2002年1月号)pp.26-33.
(ニュートン特別インタビュー)

  • ノーベル化学賞受賞 野依良治名古屋大学大学院教授に聞く
    化学物質の左右型のつくり分けに成功、合成化学に新たな道を切り開いた
  • 野依:ものの形には二つしかありません。一つは左右対称で右と左の区別がないもの。もう一つは左右の区別があるものです。たとえば、野球の世界でいうとボールは左右対称ですが、グローブには左右の区別があります。
  • Newton:右手型と左手型とでは、おたがいが鏡に映った像の関係にあるので、それらのことを「鏡像異性体」とよびますね。

有機化合物で基本となるのは炭素(C)である。その炭素には腕が4本あり、炭素同士あるいは他の原子(分子)と結びつく。そして、炭素同士が鎖状に連なってできた化合物においてそれぞれの炭素について見ると、炭素を中心に置いた正四面体(三角錐)構造をとる。

ここで、炭素に結合している4つの原子(分子)がすべて異なるとき、ちょうど人間の右手と左手のように、鏡に映すとぴったり重なる関係にある2つの物質(鏡像体、光学異性体)が存在することになる。このような炭素を不斉炭素という。そして、不斉炭素を含む分子を「不斉である」「キラルである」といい、左右型をつくり分けることを不斉合成という。

生体内(生化学反応)では不斉合成はごく当たり前に行われている。例えば、糖類はすべて右手型であり、アミノ酸はすべて左手型である。それぞれの反対型は生体内には全く存在しない。しかし、人工的な化学合成において、左右型の作り分けはそれほど簡単なことではなかった。

野依教授による不斉合成

野依教授は、世界で初めて「右手型」と「左手型」の人工的なつくり分けの可能性を示唆し、その後自らBINAP触媒というものを開発してそのことを実証した。

この技術を用いて、1983年に世界初の不斉合成による工業化が日本で実現した。対象となったのは“L-メントール”で、高砂香料工業(株)において、野依教授の研究グループや大阪大学などとの共同研究によって製造方法が確立された。

  • 左手型メントール:
    単一の香料としては世界的に最も需要の多い、薄荷やペパーミントの主成分でありスッキリとした清涼感がある。タバコ、のど飴、そして歯みがき粉などに幅広く利用されている。
  • 右手型メントール:
    ほこりっぽく、消毒薬臭い。
  • その他の実用化例:
    プロスタグランジン、βラクタム系抗生物質、キノロン系抗菌剤など多数。

参考:光学異性体の物理化学的な性質はほとんど同じだが、旋光性(直線偏光がその物質を通過するとき偏光面が回転する現象)が異なる。回転方向が右回りの場合を右旋性(dextrotatory)といい、d または + を付けて表し、左まわりの場合は左旋性(levorotatory)といって、l または – を付けて表す。さらに、結合する置換基の順位付けをして、その並び方の約束から定める区別もあり、RとS、あるいは旧来のDとLで分類する場合もある。(Web生活環境科学の部屋/本間善夫より)

<<前のページ・・・次のページ>>

レンツ警告2/3(疫学の考え方、四分表(2✕2表)を理解する)

紙の書籍『サリドマイド事件(第三版)』(アマゾン・ペーパーバック版:POD版)を出版しました(2023年2月20日刊)。内容はKindle版(第七版)と同じです。現在の正式版は、アマゾンPOD版(紙の書籍)としています。(最新:2023/02/25刷)

POD版、Kindle版共に、Web版よりもきちんとまとまっています。(図版も入っています)

Web版の方が分量の多い箇所も、一部あります。ただし、Web版は全て〈参考資料〉の位置付けです。このWebをご覧いただく際には、〈未完成原稿〉であることをご了解くださいますようお願いいたします。

レンツ警告(疫学の考え方と四分表(2×2表))

レンツ博士(西ドイツ、当時)は、奇形児の本格的な調査を開始してからわずか1週間で、サリドマイド製剤(コンテルガン)が疑わしいという結論に達した。

しかしながら、この時、母親がコンテルガンを服用したことが確実な症例は、21症例中14症例しか集まってはいなかった。もちろん、奇形(サリドマイド胎芽病)のメカニズムについては、まだ何も分かっていなかった。

それでも、レンツは、販売元のグリュネンタール社に対して、コンテルガンを早急に販売中止及び回収するよう求めた。

そこには疫学の考え方があった。

レンツ博士は疫学の基本に従って行動した

疫学とは何か

レンツ博士は、助手のナップ博士と共に、自ら奇形児の両親に対する聞き取り調査をして回った。そして、小数例ながらも確実な症例が集まってくるようになると、直ちにコンテルガンを回収すべきとの結論に達した。

レンツのこのような一連の行動・考え方は、疫学の基本に従ったものである。

疫学とは、広辞苑2008(第六版)によれば次のように説明されている。

疾病・事故・健康状態について、地域・職域などの多数集団を対象とし、その原因や発生条件を統計的に明らかにする学問。

サリドマイド事件の場合には、症例対照研究(後向き研究)として行うことになる。つまり、「ある疾病にかかった群(症例群)とかかっていない群(対照群)を設定し、両群における過去の生活習慣の状況を比較する方法」である。

具体的には、調査結果を四分表(2×2表)にまとめて、統計学的な分析をする。そしてその上で、必要に応じた素早い対応を取ることが求められる。

「疑わしきは直ちに「回収」すること」こそ、被害の拡大を防ぐための第一歩である。サリドマイド事件の場合、奇形(サリドマイド胎芽病)のメカニズムを解明するのはその後のことになる。

母親がコンテルガン(サリドマイド製剤)を服用したかどうか

サリドマイド仮説、すなわち「サリドマイド胎芽病の原因はサリドマイドに有る」ことを証明する最も重要なポイントは以下のとおりである。

「奇形児と非奇形児の間で統計的にもっとも差のある因子は、妊娠初期におけるサリドマイドの服用である。すなわち、前者の母親には、妊娠初期にサリドマイドをのんだ確証のあるものが多いのに対して、後者の母親にはそれが少ない(レンツ博士)」。

つまり、サリドマイドの服用・非服用と奇形児発症の間には統計学的に有意差がある(有意である)。

レンツは、自ら集めた調査結果を四分表(2×2表)にまとめて、そのことを証明した。そして、警告を発した。レンツ警告の意義は、「疫学調査とその統計学的な処理及び具体的な対策」を示したことにある。

これが、レンツ警告の四分表(2×2表)である。増山編1971(高橋p.194)の表を、津田(2003,p.85)が改編したものを参考にした。

注)製品版(アマゾンKindle版/POD版)には図表が入っています。

この表から、コンテルガン服用とサリドマイド児発生との間に因果関係があるのは明らかである。なぜならば、オッズ比=380.45(95%信頼区間、83.28~2404.53)という非常に高い値を示しているからである。

ただし、厳密には、ここに示されている四分表は、レンツ警告(1961年11月15日)当時のものではない。

レンツが初めてグリュネンタール社へ電話をした時、レンツの手元には、自ら調査した21例中14症例しか確実な症例は集まっていなかった(既述)。レンツは、その後も調査を続けて、上記四分表を完成させたのである。

レンツ警告の四分表(2×2表)の内訳

吉村功(名古屋大学助教授)によれば、レンツ警告の四分表(2×2表)の内訳は、以下のとおりである。(増山編1971,吉村p.269)

「レンツは、ハンブルク大学病院小児科と、ハンブルク、ブラウンシュヴァイク、シュターデの各病院で見出された全奇形児129例」の母親の服用状況を調査した。

  • サリドマイド服用が確かなもの(90例)
  • 服用が確かとはいえないもの(22例)
  • 調査がそれまでに終わっていないもの(17例)

ここで奇形とは、当然サリドマイド胎芽病のことを指している。「もちろん死亡例も含めている」。そして、集計の対象になったのは、未調査例17例を除外した112例である。

「対照には同時期にハンブルクの病院で入院、出産した非奇形児から層別してランダムに188例」を選んだ。その母親の服用状況は、以下のとおりであった。

  • 妊娠初期にサリドマイドを服用しなかったもの(186例)
  • 妊娠初期に服用したが日付け不明のもの(2例)

症例対照研究(ケース・コントロール・スタディ)における四分表(2×2表)

1)四分表(2×2表)を用意する

症例対照研究(ケース・コントロール・スタディ)では、症例群(ケース)、つまり症状のあった群と、対照群(コントロール)、つまり症状のなかった群を比較検討する。

そのために、それぞれの群ごとの暴露割合、すなわち〈オッズ〉を計算し、それを基に両者の〈オッズ比〉を算出する。(2×2表)

  • 症例群(奇形+):
    服用(暴露+)90人(a人)、非服用(暴露-)22人(b人)、計112人
  • 対照群(奇形-):
    服用(暴露+)2人(c人)、非服用(暴露-)186人(d人)、計188人

2)各群ごとの〈オッズ〉を計算する

それぞれの群ごとの〈オッズ〉を、次のように、服用(暴露+)と非服用(暴露-)の比として求める。

  • 症例群の〈オッズ〉:症例群における服用割合(暴露割合)、a/b
  • 対照群の〈オッズ〉:対照群における服用割合(暴露割合)、c/d

3)〈オッズ〉比を計算する

その上で、オッズ〈比〉を、それぞれの群ごとのオッズの比として求める。実際の計算においては、2×2表の各数値をタスキ掛けに計算すればよいことになる。

オッズ〈比〉:

症例群のオッズ/対照群のオッズ
=(a/b)/(c/d) → ad/bc(実際の計算方法、タスキ掛け)

レンツ警告におけるオッズ比
=(90×186)/(22×2)
=380.45(95%信頼区間、83.28~2404.53)

なお、「四分表からカイ二乗の値を求め、この値が3.84以上であれば有意とするのが普通」とされている。(増山編1971,増山p.23)

四分表(2×2表)の縦と横を読み間違えてはいけない

杉山博(大阪大学工学部教授)、四分表(2×2表)の読み方を誤る

いしずえ1984(年表p.120)に、次の2項がある。

  • 1969年5月、阪大杉山教授、統計学の初歩的な誤りをおかし、レンツ学説を否定。
  • 同年7月19日、杉山教授、レンツ学説の否定を撤回。

杉山博(大阪大学工学部)は、「2×2表の縦と横」を単純に読み間違えて、サリドマイド原因説を否定した。(杉山1969)

この杉山論文に対しては多くの反論が出され、後に増山編1971にも多数まとめて収載されている。(増山pp.3-84,建田pp.179-191,高橋pp.193-207,吉村pp.233-306,そして大阪大学災害問題研究会pp.307-319)

杉山は、その後自説を撤回した。

津田敏秀(岡山大学)による四分表(2×2表)の正しい読み方

津田敏秀(岡山大学)は、四分表(2×2表)の見方の注意点として次のようにまとめている。

「症例対象研究の表では、症例の合計と対照の合計を取る意味はあるが、服用群と非服用群の合計は取るべきではない。症例の服用割合と対照の服用割合にそれぞれ意味があるのだから、それの合計をすると何の割合が反映されているのか分からなくなる。表の読み方を90度曲げてはならない」。(津田2003,p.85)

つまり、四分表(2×2表)の縦と横を間違えてはいけない。

四分表(2×2表)では、次の二群のオッズを比べることに意味がある。

  1. 症例(奇形+)群におけるサリドマイド服用割合
  2. 対照(奇形-)群におけるサリドマイド服用割合

これに対して、例えばサリドマイド〈非〉服用群における(奇形+)と(奇形-)の割合には何の意味もない。

サリドマイド〈非〉服用群とは「服用が確かとはいえないもの」であり、母親がサリドマイドを服用したかもしれない(疑わしい)患者も含まれている。そこで(奇形+)と(奇形-)の比を取ってみたところで何の割合が反映されているのか分からない。

津田は、レンツ警告(四分表、2×2表)を用いて、学生に質問を投げかけることにしている。つまり、この表を見て製品の回収をするかしないか、どちらを選択するかということである。⇒(次節参照)

柴田義貞(長崎大学)は、杉山文献を学生用の教材に使っている

柴田義貞(長崎大学)は、医学部4年生や大学院生を対象にした授業において、上記杉山論文を教材に使い続けている。杉山論文の全文コピー(6ページ分)を前提条件無しに手渡し、2週間後にレポートを提出させるのだという。

その結果は、杉山論文の問題点を的確に指摘するものはごく少数(10%台)にとどまり、8割近くは杉山論文の趣旨に全面的に賛同するという。

柴田は、このことを踏まえて、「杉山論文は医学部生に断面調査,コホート調査,症例対照調査に伴う2×2表を理解させるのに非常に有用であると考える」としている。(柴田2010,p.1)

<<前のページ・・・次のページ>>

参考URL

サリドマイド被害者のための福祉センター「いしずえ」

【重要】

サリドマイド事件の被害者の集まりである公益財団法人「いしずえ」の公式Webにおいて、いつかどこかで見かけたような、そして、Copy&Paste(コピペ)まで疑われるような曖昧な文章が並んでいるのをみると、どうしようもなく悲しくなります。(2022/06/01記)

私は、2020年春以来、同法人に対して、再三にわたって本文修正の提案をしております。しかしながら、2022年11月18日現在、公益財団法人「いしずえ」公式Webから一切の返信をいただいておりません。

この様子では、もう連絡が来ることはなさそうです。
とはいうものの、何と言っても、公益財団法人ですからね。
薬害防止のために、要の一つだと思って提案をしているつもりなのですが!
残念なことです。

「いしずえ」の公益財団法人としての役割は終わった

公益財団法人「いしずえ」(サリドマイド福祉センター)は、薬被連(全国薬害被害者団体連絡協議会)の主要な構成メンバーの一つです。

その公式Webの中に、「サリドマイド事件-事件の概要/被害の実態」のページがあります。
ishizue-twc.or.jp/thalidomide/damage-01/

私は、このページに幾つもの疑問点を見つけ、「いしずえ」の「お問合わせ」フォームで連絡をしたことがあります。
2020年春のことで、ちょうど安倍晋三元首相が、催奇形性のあるアビガン錠(抗インフルエンザウイルス剤)を、新型コロナウイルス感染症の治療薬として、無理やり承認させようと前のめり状態になっていた時期です。

さて、私の指摘の中で、一箇所だけは事務局の判断で直ちに手直しされました。
しかしその後は、「修正は必須、全面的な書き直しも検討(要約)」と、事務局から回答があったのみです。
2年目の昨年夏(2021年)、再度確認したところ、返信メールすらありませんでした。
3年目の今年春(2022年)、自著「サリドマイド事件」(紙の書籍)を一冊進呈しました。
事務局から、「理事長の佐藤が読まさせていただきます」とメールを頂きました。

しかしながら、それでも公式Webの修正は行われませんでした。

私は、薬害防止に向けて、被害者の方々の思いは重く受け止めるべきである、と考えています。
だからこそ、その公式Webに曖昧な文章を掲載することは、決して許されることではないとも考えています。

佐藤理事長は、自身もサリドマイド被害者です。
薬学部を卒業後、博士号を取得(医学博士)して、現在は大学で准教授(薬剤疫学)を務めています。
また、医薬品等行政評価・監視委員会委員(厚生労働省)でもあります。

このような立場の理事長が、自らが長を務める組織の公式Webすらきちんと整備できない、とはとても信じられません。
公益財団法人「いしずえ」が取り組むべき事業として、「薬害防止等に関する事業」という看板を外す時期に来ているのかもしれません。

参考)「いしずえはサリドマイド被害者の健康管理と福祉の増進、被害者の交流、薬害防止等に関する事業に取り組んでいます」。(いしずえ公式Webのトップページより引用)

なお、佐藤嗣道理事長からは、これまで2年あまりでただの一度も、直接の連絡は頂いておりません。

いしずえ公式Webに疑問有り

公益財団法人「いしずえ」(サリドマイド福祉センター)>> サリドマイドと薬害
ishizue-twc.or.jp/thalidomide/damage-01/

以下、主な疑問点(一部のみ)を挙げておきます。

【いしずえ公式Webより】
サリドマイド剤は、ヨーロッパ諸国では「contergan」として1957年10月1日に発売され、1961年11月27日に発売が停止されました。わが国では「イソミン」として1958年 1月から発売され、1962年9月18日に販売停止されました。 (木田盈四郎:先天異常の医学、中公新書、 1982)

1)引用文献として、「木田盈四郎:先天異常の医学、中公新書、1982」が挙げられています。

しかしながら、原本を確認すると、引用箇所に当たる文章が見当たりません。
それとも、これはいわゆる「要約」でしょうか。
それでは、著者に対して失礼です。
なぜならば、間違いだらけで、事実と異なる文章になっているからです。

2)そもそも、ただ単に事実関係を述べるために、なぜ、わざわざ「引用文献」を表記する必要があるのでしょうか。

3)1957年10月1日に発売され、1961年11月27日に発売が停止されたのは、西ドイツの「contergan」です。

ヨーロッパ諸国をはじめ世界各国では、それぞれ独自の商品名で販売されていました。また、発売時期および発売中止(そして回収決定)時期もそれぞれで異なっています。つまり、販売代理店別や国別に状況は異なっています。

日本での販売中止および回収決定は、大幅に遅れました。

4)わが国の「イソミン」が販売停止されたのは、9月13日です。ここの9月18日は間違いです。

【いしずえ公式Webより】
これは最初、睡眠薬として、のちにわが国では「プロバンMう神経性胃炎の薬として販売され、特に「妊婦にも安全」と宣伝したために妊娠時のつわりに使われ、胎児被害が増加しました。

5)この文章を素直に読むと、最初に発売された「イソミン」(1958120日発売)を「プロバンM」(1960822日発売)に切り替えたかのように錯覚してしまます。

実際には、「プロバンM」発売後、「イソミン」も一緒に販売され続けました。

6)「プロバンM」の効能・効果は、「神経性胃炎」なのでしょうか。

上記の文献(木田1982,p.138)では、「プロバンMは、胃酸過多、胃炎、消化性潰瘍治療剤として市販された」としています。
胃腸薬を、わざわざ「神経性胃炎」の薬だとする理由がよく分かりません。

7)前の文章の後に、「特に「妊婦にも安全」と宣伝したために妊娠時のつわりに使われ」う文章が続くので、「「妊婦にも安全」と宣伝した」対象は「プロバンM」である、とも読める文章構成になってます。

催眠鎮静剤「イソミン」単独販売時も、胃腸薬「プロバンM」販売後も、両剤は「つわり」に対して使われたはずです。
ただし、それぞれの薬剤が、「つわり」に対してどのように使われたのか、何の資料も残っていないようです。
例えば、「イソミン」で睡眠薬として使用された割合と、「つわり」に使われた割合はどのようになっているのでしょうか。
「いしずえ」の被害者分析から、もしも何らかの傾向が見られるのであれば、公開してほしいものです。

【いしずえ公式Webより】
西ドイツでは幼児の睡眠薬「シネマジュース」として販売されたために妊婦の服用が増え、被害の増加につながりました。

8)いしずえ回答:「幼児に飲ませたことと、妊婦の服用が増えたことは、直接結びつきません」。
(返信メール:2020年4月30日(木)14:40)

この文章だけは、直ちに下記のように修正されました。
つまり、この1回のやり取りのみで、それ以降、一切コミュニケーションが取れていません。

西ドイツではこの薬は両親が夜に映画を観に出かける前に幼児を寝かしつけるために飲ませる「シネマジュース」として用られるなど広く使用され、またつわり止めとしても使用された結果、多数の被害が発生しました。

重要)栢森良二さん『サリドマイド 復活した「悪魔の薬」』は、私の疑問に対して、編集者を通じて「コンテルガン液を過剰服用したのは妊婦」と回答しています。(2021年11月)

【いしずえ公式Webより】
日本の被害者は、1961年に国(厚生省)と製薬会社を相手として告訴、1974 年に和解し、その裁判記録が公刊されています。

9)1961年は明らかに間違です。レンツ警告が19611115日ですから、1961年中に日本の被害者が声を挙げることはあり得なかったと考えます。

10)「告訴」とう言葉が分かりません。刑事告訴のことでしょうか。私は、日本のサリドマイド裁判は民事訴訟だと理解しています。

【いしずえ公式Webより】
患者は、西ドイツ3049,日本309,英国201,カナダ115,スウェーデン107,ブラジル99,イタリア86、全世界で3900例と報告され、30%の死産があったので総数は5800と推定されています。 (LENZ,W.:TERATOLOGY.38:203,1988)

11)私なりに原文を確認した限りでは、栢森の引用(翻訳)「3,900症例が生存している。死亡率は40%程度と算出されることから、全世界の発生は5,850症例と考えられる」が正しいと判断します。(栢森1997,p.41、同2013,p.40、参考:同2021,p.148)

ただし、この文章の各数値間(レンツの原文献)で、整合性が取れていないのは確かです。
(生存数3,900/総数5,850⇒生存率66.7%(死亡率33.3%))

それはさておき、いしずえ公式Webも、同一文献から引用しているはずにもかかわらず、「全世界で3900例と報告され、30%の死産があったので総数は5800と推定」としています。しかしながら、これらの数値は、レンツの原文献には存在しません。

ところが、Wikipedia「サリドマイド」でも、「世界での被害者は約3,900人、30%が死産だとされているので、総数はおよそ5,800人とされている」となっています。お互いに、Copy&Paste(コピペ)したのでなければ幸いです。

【いしずえ公式Webより】
サリドマイド製剤の販売は日本では1962年に停止されましたが、回収が徹底してなかったため、その後も被害が生まれました。

12しずえの解釈では、「レンツ警告後の被害児は日本が世界で一番多」ことの原因は、「回収が徹底してなかったため」と捉えてるのでしょうか。

日本では、レンツ警告(19611115日)から出荷停止(1962年5月)まで約6か月かかり、その後、販売中止および回収決定(913日)まで、さらに約4か月もかかりました。つまり、レンツ警告の約10か月後、やっと販売を完全に中止して、回収作業を始めました。

私は、この回収決定の遅れそのものが、被害を拡大した原因であると考えます。

以上です。

はじめに

以下は、一番初期から掲載している文章です。

全国の中学校で、2012年4月から、医薬品の正しい使い方を教える「くすり教育」が完全義務化されています。

サリドマイド被害者のための福祉センター「公益財団法人いしずえ」では、薬害防止の観点から、厚生労働省のみならず文部科学省に対しても積極的に働き掛けています。

例えば、中学3年生を対象とした厚生労働省医薬食品局『薬害を学ぼう』(2013年)p.3には、サリドマイド被害者の一人である増山ゆかり(いしずえ常務理事・当時)さんが、サリドマイドについてコメントしています。

「いしずえ」所属の認定被害者数は309名である

日本のサリドマイド裁判(民事)の和解確認書の中で、損害賠償金は、一時金と年金、そして被害者の今後の活動資金の三つに分けて考えられた。

それを受けて、サリドマイド被害者のための福祉センターとして、財団法人「いしずえ」が設立された。

同法人の設立登記は1974年12月11日(昭和49)であり、同月22日に設立記念会を開いた。
また最近になって、2013年4月1日(平成25)、公益財団法人として認可されている。

裁判和解後の認定作業で、認定被害者数309名が確定した

サリドマイド裁判の原告は63家族であった。
そして、裁判和解後、訴訟を提起しなかった被害児に対する認定作業が順次行われた。

その結果、認定被害者数(厚生省)は、1981年5月(昭和56)、最終的に309名として確定し現在に至っている。

なお、和解確認書の覚書では、「確認書の当事者である全国サリドマイド訴訟統一原告団に属しないサリドマイド被害児についても、確認書に準じて適切な措置がとられるものであること」とされている。

また、「財団の事業はサリドマイドによる全被害児(原告でない被害児を含む。)を対象とする」となっている。

認定患者309人以外に被害児はいるのか

川俣修壽(サリドマイド事件支援者)は、「これがこの時点での生存被害者の全てではない」としている。(川俣2010,p.435)

その理由として、「諸般の事情で申請しなかった、申請制度を知らなかった、耳の障害と母指球筋低形成などの被害者は、サリドマイド被害者だと気づいていない家族がいる可能性がある(ママ)」ことを挙げている。

最近になって、ドイツをはじめ日本でも、「サリドマイドの再使用によって、あるいは50年前の認定に洩れていたなどの理由で、new claimersが出現してきている」。(診療ガイド2017,p.12)

注)New Claimersとは、新しくサリドマイド薬禍者としての認定を希望する人々のこと。

ただし、認定のためのハードルは高い。
例えば、60年前の母親のサリドマイド服用証明(カルテの存在や医師の証言)、あるいはサリドマイド胎芽症診断基準などである。

310人目の被害者の方からメールを頂く

安倍晋三内閣総理大臣は、2020年5月4日(令和2)、新型コロナウイルス感染症に関する緊急事態宣言を、当初予定の5月6日から5月末まで延長することを決定した。

それと同時に、新型コロナウイルス感染症への効果が期待されるアビガン錠(抗インフルエンザウイルス薬)について、5月中に効能効果の追加承認を行う考えも明らかにした。

アビガン錠には催奇形性があることが分かっている。
つまり、「動物実験において、本剤は初期胚の致死及び催奇形性が確認されている」。
(アビガン錠200mgインタビューフォーム、2019年4月改訂(第4版))

そうした状況の中で、サリドマイド被害者ご本人から「私もサリドマイド被害者の一人です」と題するメールを頂いた。
被害者の方からご連絡をいただくのは初めての経験である。

現在59歳の方で、既にお孫さんもいらっしゃるようである。
しかし、認定患者さんではない。

8歳の時に、障害者手帳(4級)は取得した。
しかしながら、サリドマイド訴訟に加わることも和解後の認定を受けることもしなかった。
そこには、「諸般の事情」で済ますことのできない深い事情があったのであろう。

それはともかくとして、310人目の認定被害者になれなかった方たちが存在するという事実は重い。
こうした方々の長年月の思いも込めて、「いしずえ」の活動が今後も発展して行くことを願ってやまない。

参考)厚生労働省は、5月7日(2020年)には、抗ウイルス薬「レムデシビル」(エボラ出血熱治療薬)を、国内初の新型コロナウイルス感染症の治療薬として特例承認した。レムデシビル(注射薬)の有効性および安全性につては、未だ十分解明されてるとは言

「いしずえ」の薬害防止活動(薬育)について

薬害防止活動に関して、全国の中学校では、2012年4月(平成24)から医薬品の正しい使い方を教える「くすり教育」が完全義務化されている。
つまり、薬育の充実である。

そうした中で、「いしずえ」の取り組みとして、「サリドマイド被害者の健康管理と福祉の増進、被害者の交流、薬害防止等に関する事業」が挙げられている。(いしずえ公式Web、2020年2月以前に確認)

さらに、薬害防止などに関する事業については、「サリドマイド復活問題、学校教育への協力、他団体との交流・連携」が挙げられている。(同上確認)

例えば、学校教育への協力ということについては、中学3年生を対象とした厚生労働省医薬食品局『薬害を学ぼう』(2013年)p.3で、サリドマイド被害者の一人である増山ゆかり(いしずえ常務理事・当時)は次のように書いている。

「二度と同じような被害者を出さないために、この薬の危険性をよく知って、慎重に使用してほしい」。つまり、サリドマイド剤の復活(サレドカプセルの効能・効果:再発又は難治性の多発性骨髄腫)を念頭に置いてのことである。

確かに、サリドマイド製剤を今必要としている人たちがいる。
しかしながら、サリドマイド被害者にとって、サリドマイドの復活を容認することは苦渋の決断であったと思われる。

「日本におけるサリドマイド被害者数」 ⇒ サリドマイド事件(回避できたはずの症例、生まれたはずの症例)Akimasa Net
「日本におけるサリドマイド被害者の障害の種類と内訳」 ⇒ サリドマイド胎芽病と催奇形性 Akimasa Net

<<前のページ・・・次のページ>>

サリドマイド事件のあらまし(概要)

【推薦】臨床研究に対する統計(医療統計)を学ぶには、株式会社データシードが運営する「いちばんやさしい医療統計」がおすすめです。

紙の書籍『サリドマイド事件(第三版)』(アマゾン・ペーパーバック版:POD版)を出版しました(2023年2月20日刊)。内容はKindle版(第七版)と同じです。現在の正式版は、アマゾンPOD版(紙の書籍)としています。(最新:2023/02/25刷)

POD版、Kindle版共に、Web版よりもきちんとまとまっています。(図版も入っています)

Web版の方が分量の多い箇所も、一部あります。ただし、Web版は全て〈参考資料〉の位置付けです。このWebをご覧いただく際には、〈未完成原稿〉であることをご了解くださいますようお願いいたします。

サリドマイド事件とは

2021年(令和3)は、レンツ警告(1961年11月)から60年の節目の年でした。

コロナ禍の下、科学的根拠(evidence)に基づくデータを収集して、正しい判断・行動をする能力がますます求められています。ご参考になれば幸いです。

注)図版・引用文献などは、『サリドマイド事件(第6版)』(アマゾンKindle版)に譲ります。
注)紙の書籍『サリドマイド事件』(アマゾン・ペーパーバック版)もあります。(Kindle第6版に合わせて、最新版を作成中です)

世界最大の薬害(1960年代初頭)

⇒ サリドマイドの誕生(西ドイツ&日本)

催眠・鎮静剤サリドマイドには催奇形性がある

サリドマイド事件とは、催眠・鎮静剤サリドマイド(化合物名:N-フタリル・グルタミン酸イミド)を妊娠初期の女性が服用することによって、胎児(正確には胎芽期)に四肢短縮などの障害(奇形)を生じた世界的な薬害事件(1950年代後半から1960年代初頭にかけて)のことを言います。

つまり、サリドマイドには催奇形性があります。

サリドマイド(thalidomide)を開発したのは、グリュネンタール社(西ドイツ、当時)です。サリドマイド製剤は、西ドイツで商品名「コンテルガン(Contergan)」として発売(1957年10月1日)以来、提携会社を通じて世界の少なくとも20か国ほどで販売されました。(フランス、米国及び東欧諸国(東ドイツ、旧ソ連など)では発売されなかった)

サリドマイドは、従来から使用されていたバルビツール酸系睡眠薬とは系統の異なる薬物でした。副作用が少なく安全性が高いということで、西ドイツでも大衆薬(医師の処方箋を必要としない)として取り扱われ、最も人気の高い睡眠薬となりました。

ただし、販売量の急増とともに副作用として多発神経炎があることがはっきりしてきたため、コンテルガンは処方箋薬に指定されました。

そうした状況の中で、販売開始から丸4年後(1961年11月15日)、サリドマイドの催奇性を疑うレンツ警告(西ドイツ)が出され、サリドマイド製剤は直ちに先進国の市場から姿を消しました。

コンテルガンの催奇形性試験は行われていなかった

コンテルガンの動物実験データについて、臨床薬理学の世界的権威・ティエルシュ教授(米国ワシントン州立大学)が、1973年10月17日(昭和48)、日本のサリドマイド裁判(東京地裁)で次のように証言しています。

「完全に安全性が確立されていたとは思えません。幾つかの抜けている点がありました」。さらに、胎児に対する安全性については、「調査すらされなかった」と断言しました。
(藤木&木田1974,ティエルシュ証言,pp.195-196)

なお、日本のサリドマイド裁判(東京地裁)で海外から出廷したのは、レンツ(西独)、梶井(当時、ジュネーブ大学助教授)そしてティエルシュ(米国)の3名でした。いずれも原告側証人であり、被告側証人(国外)は誰も認められませんでした。

サリドマイドの被害総数は7~8千症例(死産を含む)

生存被害者数は4,000名を上回る(死亡率約40%)

全世界におけるサリドマイド製剤による被害状況について、現在の私は以下のように推測しています。(2021/08/25現在)

  1. 全世界の生存被害者は、ごくおおまかには約4千人から5千人に達する可能性がある。
  2. 死亡率は、約40%(生存率60%)である。
  3. 被害者のほとんど全ては、20か国ほどで生じている。
    注)一般的には、サリドマイド製剤は世界の40か国以上で販売されたと言われている。

主として参考にしたのは、レンツ文献(Lenz1988)です。レンツ文献(Lenz1988)では、サリドマイド被害者の全世界における発生数に関して、レンツ自身の調査結果に加えて数多くの文献を網羅的に集めて検討しています。

レンツ文献(Lenz1988):栢森良二の解釈

栢森(かやもり)良二(りょうじ)(帝京大学医学部)は、このレンツ文献(Lenz1988)から次のように引用(翻訳)しています。(栢森1997,p.41、同2013,p.40、参考:同2021,p.148)

3,900症例が生存している。死亡率は40%程度と算出されることから、全世界の発生は5,850症例と考えられる。

しかしながら、この訳文では、「3,900症例」(生存数)/「5,850症例」(発生数)⇒「40%」(死亡率)の関係がすっきりしません。計算が合わないのです。なお、栢森著には「数値は原文のまま」という注釈が付いています。

現在の私は、レンツ文献(Lenz1988)の数値「生存数3,900/発生数5,850(死亡率40%)」のみにこだわることなく、被害の実態を把握するように努めています。

レンツ文献(Lenz1988):「いしずえ」公式Webほかの解釈

「いしずえ」公式Webでは、同じレンツ文献(Lenz1988)から、「被害者の数」について次のようにまとめています。(2019/10/16確認)
http://ishizue-twc.or.jp/thalidomide/damage-01/

全世界で3900例と報告され、30%の死産があったので総数は5800と推定されています(一部抜粋)。(「いしずえ」公式Web)

しかしながら、レンツ文献(Lenz1988)の中に、「30%の死産」や「総数は5800と推定」といった数値は見当たりません。さらに、「3,900症例」(生存数)、「死亡率」(30%)、及び「5,800症例」(発生数)のそれぞれの関係がはっきりしません。(これまた計算が合いません)

なお、いしずえ公式Webと同じフレーズ(数値)は、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』「サリドマイド」の項や、「多発性骨髄腫に対するサリドマイドの適正使用ガイドライン」(2004年12月10日付け)でも採用されています。

相互にコピペ(Copy&Paste)したのでなければ幸いです。

日本の認定被害者(生存者)は309名である

日本の認定被害者(生存者)は、上記レンツ文献(Lenz1988)にもあるように309名です。そして、そのうちの63家族が、日本のサリドマイド裁判(民事訴訟)に原告として加わっていました。(参照:ジュリスト1973,No.548,山田pp.335-339)

裁判和解後、訴訟に加わらなかった被害者に対する認定作業が、順次行われました。その結果、認定被害者数(生存者)は、1981年5月(昭和56)、最終的に309名として確定し現在に至っています。(参照:川俣2010,pp.433-435)

しかしながら、「諸般の事情で申請しなかった、申請制度を知らなかった、耳の障害と母指球筋低形成などの被害者は、サリドマイド被害者だと気づいていない家族がいる可能性がある」ことが指摘されています。(川俣2010,p.435)

つまり、認定被害者309名(厚生労働省)のほかに、「やむにやまれぬ諸般の事情」によって、手を挙げることができなかった(名乗り出なかった)方などがいらっしゃいます。実際に、私は2020年5月、そうしたお一人からメールを頂いた経験があります。

日本の被害者総数(死産を含む)は1,500名を超える

日本の厚生省によるサリドマイド被害調査は、サリドマイド製剤が販売中止(及び回収)になった後で行われました。唯一の全国規模アンケート調査となった森山報告936症例(日本先天異常学会)では、「生存数184/出生数936(死産を含む)」となっています。

つまり、このアンケート調査では、認定被害者(生存者)309名の約60%程度しかカバーできていないことが分かります。また、生存率は約20%程度であり、諸外国の生存率約60%(死亡率約40%)と比べて、異常に低い数値となっています。

この生存率約20%を基準とするならば、日本における被害総数(死産を含む)は、1,500名を超えるとみることができます。(認定被害者数309÷生存率20%→被害総数1,545)

注)佐藤嗣道(現・公益財団法人「いしずえ」)は、無事に生まれたサリドマイド被害者を「死産扱いとして処置」したケースのあることを示唆している。(参照:ビジランス1999,佐藤p.39)

日本のサリドマイド製剤(イソミンとプロバンM、そしてゾロ品)

⇒ サリドマイドの誕生(西ドイツ&日本)
日本のサリドマイド製剤(イソミンとプロバンM、そしてゾロ品)

イソミン、製法特許を主張(大日本製薬株式会社)

サリドマイド製剤は、日本国内でも販売されました。しかし、それは、西ドイツから導入されたものではありません。日本のサリドマイドは、大日本製薬(株)が、薬学雑誌に掲載されたグリュネンタール社(西ドイツ)の文献にヒントを得て、独自の製法を用いて合成を行い特許を出願しました。

物質特許ではなく製法特許を主張したのです。製法特許主義とは、同じ化学物質であっても、製法さえ異なれば〈別の化合物〉として特許権を主張できるとする考え方です。

大日本製薬(株)、グリュネンタール社とライセンス契約を結ぶ

ただし、その当時の国際基準は、すでに物質特許主義に移行していました。したがって、大日本製薬(株)としては、グリュネンタール社との間で、何らかのライセンス契約を結ぶ必要がありました。

しかしながら、大日本製薬(株)が、グリュネンタール社との間で特許に関するライセンス交渉を開始したのは、イソミン発売(1958年1月)後の同年5月になってからのことです。つまり、同社のイソミン発売は、見切り発車だったようです。

大日本製薬(株)は、その後、技術援助契約(1959年秋)を経て、技術提携(1960年5月)を結び特許問題を解決しました。つまり「「日本及び隣接地域」での販売権と技術情報の提供の見返りにロイヤリティーを支払う」ことになったのです。(川俣2010,p.22)

その結果、イソミンは台湾へも輸出され被害を生じました。

イソミンとプロバンM(プロバンMB)新発売

大日本製薬(株)は、1958年1月20日(昭和33)、鎮静・催眠剤「イソミン」(単剤)の販売を開始しました。

さらに、1960年8月22日(昭和35)、胃腸薬「プロバンM」(合剤)を〈追加〉発売しました。これは、抗コリン性鎮痙薬の臭化プロパンテリンに、佐薬(補助薬)として少量のサリドマイドを配合したものです。

同社は、レンツ警告(1961年11月)後の1962年7月7日(昭和37)、「プロバンM」のサリドマイドをブロバリン(ブロモバレリル尿素)と入れ替えた新胃腸薬「プロバンMB」を発売しました。

この新胃腸薬「プロバンMB」には、もちろんサリドマイドは入っていません。ただし、それをそのまま「プロバンM錠」として、旧名のまま販売を続けたようです。この〈プロバンM錠〉の新聞広告は、日本国内でサリドマイド製剤が販売中止(1962年9月)になった後も、少なくとも同年12月までは出されていました。

効能・効果及び用法・用量(イソミンとプロバンM)

イソミンの効能・効果及び用法・用量(略記)は、以下のとおりです。

  • 効能・効果:不眠症、手術前の鎮静、不安・緊張状態の鎮静
  • 用法・用量:鎮静作用を目的とする場合、通常1回5mg~25mgを1日3回服用。催眠の目的には、就寝前に50mg~100mgを頓用する。小児には、適宜減量して用いる。(川俣2010,p.449)

平沢正夫(フリージャーナリスト)は、イソミン(サリドマイド)の睡眠薬としての特徴について次のように書いています。

毒性はたしかに低かった。(中略)サリドマイドでは、自殺が不可能といわれているぐらいだ。イソミンをのんだ場合、さめ心地も格別だった。ほかの睡眠薬のように、頭痛や吐き気を感じない。それに、泥のように眠りほうけることもない。自然の睡眠状態同様、声をかけるか、軽くゆさぶるかすれば、目をさます。その点でも理想的であった。(平沢1965,p.45)

木田盈四郎(帝京大学医学部)は、イソミンとプロバンMについて次のようにまとめています。

イソミンは、不眠症、手術前および緊張不安状態の鎮静に効果があり、妊婦、小児にも安全無害であると、テレビ、新聞などを通じても広く宣伝された。プロバンMは、胃酸過多、胃炎、消化性潰瘍治療剤として市販された。(木田1982,p.138)

販売価格(イソミンとプロバンM)

川俣修壽(サリドマイド事件支援者)によれば、イソミン・プロバンMの販売価格は次のようになっています。はがき一枚5円の時代 (昭和26年11月1日~41年6月30日)の話です。(参考:川俣2010,p.453ほか)

  • イソミン25mg錠 (12錠150円、30錠300円)
  • イソミン10%散 (25mg700円、100mg2,500円)
  • プロバンM (10錠200円、30錠550円、100錠1,430円)
    (栢森1997,pp.10-11のコピー写真にもイソミン錠の価格表示有り)

ゾロ品の発売(大日本製薬を含めて15社(16品目)で販売が許可された)

当時の日本国内では、新薬が発売されると、それに連れてゾロ品(後発のまね薬)が次々と発売されるのが常でした。この時も同様で、販売許可されたサリドマイド製剤は、イソミン・プロバンMも含めて全部で16品目(15社)に上りました。

しかしながら、それらが全て実際に発売されたわけではなく、全容ははっきりとはつかめていません。(参照:川俣2010,pp.452-454)

そうした中で、日本のサリドマイド裁判において、国(厚生省)や大日本製薬(株)とともに被告になったのは、セイセー薬品工業(東京地裁のみ)だけです。

ただし、サリドマイド裁判和解時の損害賠償金は、下記5社(合わせて6品目有り)が分担して支払いました。(参照:川俣2010,p.429,453)

大日本製薬(イソミン・プロバンM)、富山化学工業(グルタノン)、エスエス製薬(新ニプロール)、小野薬品工業(ボンブレン)、ゼリア化工(サノドルミン)。

いずれも、21世紀まで存続している製薬会社ばかりです。

注)セイセー薬品工業(新ナイトS)は、裁判和解時には既に倒産していた。
注)セイセー薬品工業については、生盛薬品工業という表記も見られる。(増山編1971,増山p.59)
注)大日本製薬(イソミン・プロバンM)の占拠率は、90~95%以上だった。

ゾロ品からジェネリック医薬品へ

現在では、医療用医薬品は、新薬(先発医薬品)とジェネリック医薬品(後発医薬品)に分けて考えられています。

ジェネリック医薬品は、特許期間が過ぎた新薬と同じ有効成分を使い、国の厳しい基準に基づいて製造・販売されています。開発費があまりかからないので価格は割安となり、国の医療費抑制の柱として、厚生労働省でも後発品の使用を推奨しています。

しかしながら、今年(2021年)に入ってから、ジェネリック医薬品メーカーの中で、抗真菌薬・イトラコナゾールに睡眠薬を混入させてしまったり、「承認書に記載のない工程を実施していた」などの理由で大量の品目を自主回収したりするなど、重大な不祥事が相次いでいます。

そして、その影響を受けて、医療用医薬品の流通が先発メーカーも巻き込んで大きく混乱しています。

そうした中で、厚生労働省によって新たに掲げられた「後発品80%目標」(2023年度末までに後発医薬品の数量シェアを全ての都道府県で80%以上とする:2021/04/27付け)の質が厳しく問われています。

薬事審議会と事務局限りの包括建議、そして天下り

イソミンの有効性・安全性は評価されていなかった

イソミンの特許出願(1956年11月)から製造販売許可申請(1957年8月)まで、実はわずか1年足らずしかありません。当然のことながら、きちんとした動物実験や臨床試験をやる余裕はなかったものと思われます。

大日本製薬(株)では、イソミンの有効性・安全性を評価するために必要十分なデータを集め切れてはいなかったと考えられます。それでも、イソミンは製造販売を許可(1957年10月)され、翌年には販売を開始(1968年1月)しました。

その当時の薬事行政について、レギュラトリーサイエンス(2013,p.20)は、次のように評価しています。

つまり、「現在のように医薬品の有効性と安全性をデータに基づいて適切に評価する」というレベルにはなく、それが「当時の世界の趨勢」であった、としています。

この前後、薬事行政の根幹を成す薬事法(2014年11月より薬機法)は、旧薬事法(1948年7月公布)から改正薬事法(法律第145号、1960年8月公布)に変わっています。

つまり、旧薬事法=「不良医薬品の取締りに重点を置く」(戦後の混乱期)ことから、やっと、改正薬事法=「医薬品の製造・輸入販売行為を規制することに重点を置く」レベルになったところだったと言えます。

 薬事審議会に付随して包括建議という制度があった

1950年代後半、厚生大臣の諮問機関として薬事審議会(薬審)が設置されていました。そして、それに付随して、包括建議という制度が設けられていました。(参照:藤木&木田1974,水野証言pp.218-247)

包括建議とは、多数の案件を円滑に処理するためとして、薬事審議会(薬審)に諮ることなく、”事務局限り”(厚生省薬務局製薬課)で処理を行っていた制度のことです。対象となったのは、ゾロ品(後発のまね薬)などであり、包括建議・第1~7項に該当するとされた場合には、”事務局限り”の書類審査だけで承認を得ることができました。

これに対して、イソミンは、国内では初めての医薬品であり、ゾロ品(後発のまね薬)などではありませんでした。ところが、イソミンの製造販売許可申請書には、コンテルガンが、すでに西ドイツで販売されているかのような資料が添付されていたのです。(もちろんコンテルガンはまだ発売準備中でした)

それにもかかわらず、イソミンは、このようなあいまいな事前審査によって、〈日本国内では初めてだが先進国では既に発売されている医薬品〉として、包括建議(第八項)の対象とみなされました。

包括建議・第八項では専門家の審議を必要とした

イソミンは、こうして薬事審議会(薬審)の対象品目から外されました。ただし、完全に事務局限りで処理されたわけではありません。包括建議の第八項対象として、専門家の審議(新医薬品調査会)は必要とされました。

そして、当日の新医薬品調査会には、同委員4名(1名欠席)と、厚生省側からは製薬課長を除く数名が出席しました。その審議時間は、他剤(ほかに1品目有り)と併せて1時間30分程度で、何の問題も無く調査会は終了しました。(参照:増山編1971,増山p.33)

包括建議とゾロ品(後発のまね薬)

厚生省は、レンツ警告(1961年11月)の翌年になって、新たにサリドマイド製剤のゾロ品(後発のまね薬)を販売許可しています。

ところが、当時の製薬課長は、認可理由を問われて「(責任者として自ら決裁したことを)覚えておりません」と証言しています。包括建議の対象として、”事務局限り”(厚生省薬務局製薬課)で処理した多数の案件の中に入っていたのでしょう。(藤木&木田1974,平瀬証言p.267)

厚生省は、1962年5月、さらにもう一品目を販売許可しています。ところが、そのことは日本のサリドマイド裁判(東京地裁)でも言及されなかったようです。川俣は、「(国は)この情報はこれまで故意に国民に伏せてきた」と書いています。不可思議です。(参照:川俣2010,p.43)

製薬課長や薬務局長(厚生省)の天下り

厚生省薬務局製薬課において、薬に関する許認可を与える側とそれを求める側は、日常的に密接に結びついていました。そして、製薬業界への天下りが継続的に行われていました。(参照:平沢1965,pp.181-185)

イソミン発売当時の製薬課長(厚生省、当時)は、後に山之内製薬(株)に入社して開発部長になりました。その前後の製薬課長(複数)も、ほぼ同規模の製薬企業に再就職していました。

サリドマイド訴訟における和解確認書の覚書(1974年10月13日付け)には、厚生省薬務局長も署名をしています。署名にあたって彼は、二度と薬害は起こしませんと誓ったはずでした。しかし、(株)ミドリ十字に天下り、後に社長となった彼は、薬害エイズ事件の当事者として被告席に座ることになりました。

レンツ警告(サリドマイドの催奇形性と疫学調査の重要性)

レンツ博士:グリュネンタール社へ電話する

⇒ レンツ警告1/3(サリドマイドが奇形の原因である可能性が極めて高いと警告/1961年11月)

西ドイツの小児科医・レンツ博士

“サリドマイド児の父”と慕われたレンツ博士(Widukind Lenz)は、1919年にドイツ(後の旧東ドイツ地域)で生まれ、1995年に死去(享年76歳)しました。

レンツの最大の業績は、サリドマイドに関するものです。1961年11月(昭和36)には、「レンツ警告」、すなわち「サリドマイドに催奇形性の疑い有り、直ちに全製品を回収すべき」との警告を発しました。

レンツは、その当時、西ドイツのハンブルク大学小児科講師(42歳)でした。そして、その翌年、ハンブルク大学人類遺伝学教授に就任しました。レンツの詳細な調査に基づくサリドマイド仮説の立証、および各国のサリドマイド裁判で果たした役割は極めて大きいものがありました。

注)レンツ博士は、日本のサリドマイド裁判において原告側証人として出廷した。
(1971年11月2日~24日、東京地裁にて出廷回数11回)

レンツ警告(1961/11/15の電話)

レンツ博士は、1961年11月15日(昭和36)、グリュネンタール社(コンテルガンの製造販売元、西ドイツ)に電話をして警告を発しました。これが、いわゆる「レンツ警告」です。(参照:藤木&木田1974,レンツ証言pp.99-108)

レンツ警告(グリュネンタール社への電話):

サリドマイド(商品名:コンテルガン)が、1960年代初頭に西ドイツで多発していた新たな奇形の原因である可能性が極めて高く、したがって、直ちに全製品を回収すべきである。

全てはレンツ博士の電話(11月15日)から始まった

レンツ博士の電話(11月15日)に対応したのは、コンテルガンの製造開発責任者であるミュクター博士でした。

ミュクターは、レンツの警告内容に納得はしませんでした。しかしながら、グリュネンタール社から後日レンツを訪問することを約束しました。そして、その数日後(11月20日)、同社の社員がレンツのもとを訪れました。

このようにして、グリュネンタール社は、レンツ博士からの電話(11月15日)を受けて、サリドマイド製剤の催奇形性について対応を開始しました。レンツ警告とは、11月15日の電話を指すと考えるのが妥当です。

なお、レンツは、電話の翌日(11月16日)、その内容をまとめた手紙をグリュネンタール社宛てに送付していました。もちろんそれは、電話の内容を「確固としたものにするため」でした。

グリュネンタール社は、1961年11月中には全ての作業を完了した

「いしずえ」公式Webの年表「サリドマイド事件およびサリドマイド復活問題関係年表」には、11月15日付けで、レンツ博士がグリュネンタール社に連絡したことが記載されています。(2020/09/10再確認)

  • 「西独のレンツ博士、グリュネンタール社に「奇形の原因はコンテルガンと思われるので、販売停止をすべきだ」と伝える。会社側聞かず」(1961年11月15日付け)

上記「いしずえ」年表には、「会社側聞かず」の一文があります。確かに、グリュネンタール社は、レンツ博士に同意はしませんでした。しかしながら、結局のところ、”何はともあれ回収”に応じました。

すなわち、レンツ警告(11月15日)では、疑わしきは販売停止の上で”直ちに回収する”ことを提言しています。

それに対して、グリュネンタール社は、後日レンツを訪問することを約束して、それを実現(11月20日)しました。そして、その当日の午後からは、ハンブルク州政府の保健省の代表を交えて会談を行いました。

注)レンツ博士の所属するハンブルク大学(医学部)はハンブルク州(特別州)にある。

さらに、その後も、行政を交えた三者会談(11月24日)を重ねました。すなわち、ノルトライン=ヴェストファーレン州内務省(デュッセルドルフ)において、内務省とグリュネンタール社の各代表者数名およびレンツの三者会談が行われました。

注)グリュネンタール社(本社:アーヘン)は、ノルトライン=ヴェストファーレン州(州都:デュッセルドルフ)にある。

グリュネンタール社は、最終的には1961年11月26~27日のいずれか(25日の可能性も有り)で、コンテルガンの販売中止及び回収を決定しました。それは、催奇形性について全国紙(西ドイツ)で報道された結果とはいえ、レンツ警告からわずか10日余り後のことでした。

そして同社は、回収作業を直ちに実行しました。例えば、「いしずえ1984」(年表p.118)は、「27日・28日、コンテルガン回収」としています。西ドイツ国内の回収作業は、遅くとも同月(1961年11月)中には完了したものと思われます。

レンツ警告とは、小児科学会地方会での発言のことではない

小児科学会地方会(1961/11/18の発言)

レンツ博士は、グリュネンタール社へ電話をした3日後(11月18日)、小児科学会地方会のディスカッションにおいて、ある”特別な薬”が奇形の原因となっているのではないか、という短い論評を発表しました。

栢森1997は、「通常、公にしたという意味では、これをもって「レンツ警告」としている」と書いています。さらに栢森2021では、参考文献として「Lenz W:DMW 86:2552-2556,1961」が添えられています。(栢森1997,pp.24-25、同2013,p.22、同2021,p.38)

ところで、レンツは、この小児科学会地方会では、コンテルガンの名前を出してはいません。したがって、「レンツ博士、コンテルガンの催奇性について学会発表(11月18日)」などとする資料は、明らかに間違いです。

小児科学会での発言内容を確認する

レンツ博士の小児科学会地方会における論評(コメント)について、栢森1997は、その内容を次のように紹介しています。(一部抜粋)

大衆薬として使用されている薬剤が、この奇形の原因であると考えられるが、まだ十分に証明されていない/しかし、一市民として、自分の調査で明らかになった事実に対して沈黙を守るような態度をとることはできない/メーカーに私の観察結果を知らせ、またその無害性が確実に立証されるまでこの薬を直ちに回収すべきであるという私見を伝えました。(栢森1997,p.25、同2013,p.23)

これらの排除が一か月遅れるごとに、甚だしい奇形児は恐らく50ないし100名増えることになるでしょう。(栢森1997,p.122、同2013,p.119)

小児科学会でのレンツの思い

レンツは、同学会上では、具体的な商品名を出しませんでした。その理由について、レンツ自身は、その思いを次のように語っています。

以前に会社に対して警告をいたしましたので、彼らが市場からその薬品を回収できる時間を与えるべきではないかといった気持でこのことを公開しなかったのだと思います。(藤木&木田1974,レンツ証言p.101)

学会当日(11月18日)前後の状況を振り返ってみると、グリュネンタール社は、すでにレンツを訪問する約束をしていました(11月15日)。そして、実際に、その数日後(11月20日)、両者の会談が実現しています。

そうした流れの中で、レンツの気持ちとしては、グリュネンタール社が回収作業を直ちに実施することを期待して、静観していたかったのでしょう。つまり、レンツが小児科学会地方会で発言(11月18日)した時には、すでに事態は動き始めていました。

以上から、私は、〈レンツ警告とは11月15日の電話のことを指す〉と理解しています。何と言っても、11月15日の電話が、コンテルガン回収に向けて最初のきっかけとなったことは、間違いありません。

しかしながら、〈レンツ警告=1961年11月18日〉とする説は、栢森に限らず幾つもあります。

更田義彦(弁護士)の考え方

日本のサリドマイド裁判(東京地裁)で弁護団に加わった更田義彦(弁護士)は、次のように述べています。明らかに、レンツ警告=11月18日説です。

1961年11月、ドイツのW.レンツが、地方小児科学会で、最近の新生児に見られる四肢の欠陥について「ある特別の薬(サリドマイド)がこの原因になっているのではないか」と発言して、警告を発した。この警告は、海外では大きな反響を呼び起こし、速やかに販売の停止、回収等の措置が講じられた。

NPO法人 エイチ・エー・ビー研究機構
トップページ > HAB人試料委員会 > 創薬研究の基礎知識
サリドマイド事件の教訓 更田義彦(弁護士)
https://www.hab.or.jp/committee/pdf_hito03/5-2_fuketa.pdf
(2020/05/22閲覧)

佐藤嗣道(公益財団法人「いしずえ」)の考え方

佐藤嗣道(現・公益財団法人「いしずえ」)は、11月18日の論評(コメント)をレンツ警告として紹介しています。ただし、その文章(引用文)は、上記の栢森1997(p.25)とは微妙に異なっています。(参照:ビジランス1999,佐藤p.42)

なお、「いしずえ」公式Webの年表には、レンツ博士の電話(11月15日)について記載されていますが、小児科学会地方会での論評(11月18日)に関する記載は何もありません。

疫学の考え方と四分表(2×2表)を理解する

⇒ レンツ警告2/3(疫学の考え方、四分表(2✕2表)を理解する)

レンツ博士は疫学の基本に従って行動した

サリドマイドと奇形との間に、因果関係が有るのか無いのかをはっきりさせるためには、疫学の考え方が欠かせません。

疫学とは、広辞苑2008(第六版)によれば、次のように説明されています。

疾病・事故・健康状態について、地域・職域などの多数集団を対象とし、その原因や発生条件を統計的に明らかにする学問。

サリドマイド事件の場合には、症例対照研究(後向き研究:retrospective study)として行うことになります。
つまり、「ある疾病にかかった群(症例群)とかかっていない群(対照群)を設定し、両群における過去の生活習慣の状況を比較する方法」です。

具体的には、調査結果を四分表(2×2表)にまとめて統計学的な分析をします。なお、「四分表からカイ二乗の値を求め、この値が3.84以上であれば有意とするのが普通」とされています。(増山編1971,増山p.23)

そして、その上で、必要に応じた素早い対応を取ることが求められます。

レンツの偉大さは、サリドマイド児を自ら一例ずつ調査して回り、「奇形の原因としてコンテルガンが極めて疑わしい」ということを、短期間のうちに探り当てたことにあります。そして、それに基づき、「コンテルガンを直ちに回収すべきである」という見解を示した点にあります。

レンツは、専門知識・臨床経験をフルに発揮して、疫学調査を忠実に実行したのです。レンツ警告の意義は、「レンツ自らが疫学調査を行い、そのデータを統計学的に処理した上で、具体的な対策を示した」ことにあります。

四分表(2×2表)の縦と横を読み間違えてはいけない

杉山博(大阪大学工学部教授)、四分表(2×2表)の読み方を誤る

「いしずえ1984」(年表p.120)に、次の2項があります。

  • 「1969年5月、阪大杉山教授、統計学の初歩的な誤りをおかし、レンツ学説を否定」
  • 「同年7月19日、杉山教授、レンツ学説の否定を撤回」

杉山博(大阪大学工学部)は、「2×2表の縦と横」を単純に読み間違えて、サリドマイド原因説を否定しました。(杉山1969)

この杉山論文に対しては、多くの反論が出され、後に増山編1971にも多数まとめて収載されています。(増山pp.3-84,建田pp.179-191,高橋pp.193-207,吉村pp.233-306,そして大阪大学災害問題研究会pp.307-319)

杉山は、その後、自説を撤回しました。

津田敏秀(岡山大学)による四分表(2×2表)の正しい読み方

津田敏秀(岡山大学)は、四分表(2×2表)の見方の注意点として、次のようにまとめています。

症例対象研究の表では、症例の合計と対照の合計を取る意味はあるが、服用群と非服用群の合計は取るべきではない。症例の服用割合と対照の服用割合にそれぞれ意味があるのだから、それの合計をすると何の割合が反映されているのか分からなくなる。表の読み方を90度曲げてはならない。(津田2003,p.85)

つまり、四分表(2×2表)においては、次の2群を比べることに意味があります。

  1. 症例(奇形+)群におけるサリドマイド服用割合
  2. 対照(奇形-)群におけるサリドマイド服用割合

柴田義貞(長崎大学)は、杉山文献を学生用の教材に使っている

柴田義貞(長崎大学)は、医学部4年生や大学院生を対象にした授業において、上記杉山論文を教材に使い続けています。杉山論文の全文コピー(6ページ分)を前提条件無しに手渡し、2週間後にレポートを提出させるのだと言います。(参照:柴田2010,p.1)

その結果は、杉山論文の問題点を的確に指摘するものはごく少数(10%台)にとどまり、8割近くは杉山論文の趣旨に全面的に賛同するそうです。

柴田は、このことを踏まえて、「杉山論文は医学部生に断面調査,コホート調査,症例対照調査に伴う2×2表を理解させるのに非常に有用であると考える」としています。

メカニズムの解明よりも素早い回収を

⇒ レンツ警告3/3(メカニズムの解明よりも素早い回収を)

素早い回収こそ最善の策

グリュネンタール社(コンテルガン製造販売元:ドイツ)は、2012年8月31日(平成24)、初の謝罪声明を出しました。事件発生から50年間、実は一度も謝罪したことがなかったのだそうです。つまり、グリュネンタール社は、その当時から今までずっと、自身の責任を認めていなかったということなのでしょうか。

その事実関係はともかくとして、グリュネンタール社が、レンツ警告(1961年11月)を受けて、「何はともあれ直ちに回収」作業を実施したことは間違いありません。

そして、その結果、西ドイツにおけるその後の被害拡大を未然に防ぎました。この点、動物実験の結果を待ってからなどと、判断を先送りにして被害を拡大した日本とは対象的です。

疫学調査では、メカニズムの解明までは求められない

疫学とは、メカニズムの解明よりも何よりも先に、「目の前にある問題を解決するために、今すぐやるべきことは何か」を解明する学問です。

つまり、疫学調査では、メカニズムの解明までは求められていません。

それにもかかわらず、レンツ警告(疫学調査に基づく警告)に対して、「ただしこの報告は疫学的因果関係のみでメカニズムは未解明」(下記Wikipedia)と評価するのは意味の無いことです。

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』「サリドマイド」:

疫学調査(レンツ警告・1961年11月。ただしこの報告は疫学的因果関係のみでメカニズムは未解明)から先天異常「サリドマイド胎芽症」や胎児死亡といった催奇性と因果関係があるとされ、日本では1962年9月に販売停止と回収が行われた。(2018/06/17閲覧)

レンツ警告では、「コンテルガンが奇形の原因である」と断定したわけではありません。

この時点で、母親がコンテルガンを服用したことが確実な症例は、ごくわずかしか集まってはいませんでした。
もちろん、サリドマイド胎芽症そのものについては、ほとんど何も分かっていませんでした。

それでもなお、この時点で「メカニズムは未解明」であることには全く何の問題もありません。

コレラの流行に学ぶ

ロンドン(英国)のソーホー地区で、1854年8月末にコレラが発生し、約半月後には同地区の死亡率は12.8%に達しました。(注:嘉永7年、ペリー黒船艦隊来航の翌年)

この大疫病をわずか1か月あまりで終息させたのが、疫学の祖と呼ばれる医師のジョン・スノーです。

スノーは、地区の事情に詳しい副牧師ヘンリー・ホワイトヘッドの協力を得て、1軒1軒個別訪問を重ねて原因を追究しました。そして、ブロード・ストリートにある「ポンプ井戸の水」が怪しいと見当を付けました。スノーは、直ちに行政当局にポンプの柄を撤去させました。そしてその結果、9月末までには流行は終息しました。

この時に問題となったのは、「ポンプ井戸の水」です。コレラの大流行という目の前の問題を解決するために必要だったのは、「汚染された水が原因である」ことを速やかに探り当てることでした。そして、その原因を取り除く(汚染水を供給できなくする)ことでした。

その時に、コレラのメカニズム、つまり「コレラの真の原因はコレラ菌という病原体にある」ということまで解明されていたわけではありません。コレラ菌そのものは、この大疫病から30年後の1884年、ドイツの細菌学者ロベルト・コッホによって発見されました。

大日本製薬と厚生省(致命的な販売中止決定の遅れ)

大日本製薬・厚生省、販売続行を決定

⇒ レンツ警告後、日本での回収決定は大幅に遅れた

レンツ警告(1961年11月15日)は、翌月12月に入ってから日本にも届けられました。すでに西ドイツでは販売中止(及び回収決定)になったことも同時に伝えられました。

大日本製薬(株)は、1961年12月6日(昭和36)、厚生省と協議したものの「有用な医薬品を回収すれば社会不安が生じる」として販売を続行しました。

なお、英国の医学雑誌「The Lancet(ランセット)」が、ロンドンから日本に届くまで1~2か月(船便)もかかった時代のことです。国際電話回線も非常に限られた本数しかありませんでした。

大日本製薬(株)の学術課長、西ドイツ訪問(1962年1月)

年明け早々(1962年1月)、大日本製薬(株)から西ドイツに学術課長が派遣されました。

ところが、同課長は、現地でグリュネンタール社の関係者に面会したのみでした。レンツ博士やそのほかの学者、あるいは西ドイツの州政府を訪問することはありませんでした。それにもかかわらず、帰国してから「レンツ博士の警告には科学的根拠がない」と報告しました。

厚生省の製薬課長、西ドイツのレンツ博士と面会(1963年5月)

さらに、その翌年、1963年5月(昭和38)になってから、厚生省の製薬課長が西ドイツを訪問しました。

製薬課長は、レンツ博士に面会をしました。しかし、面会時間は通訳を交えてわずか30分程度のものでした。

そして、この製薬課長(厚生省)の訪問は、日本からレンツ博士にコンタクトを取った唯一のケースになりました。レンツ博士に対して、この訪問以外には、日本から手紙やそのほかの手段での問合せも一切ありませんでした。(藤木&木田1974,レンツ証言pp.112-114)

佐藤嗣道と栢森良二は、二人の課長の訪問時期とその内容を取り違えている

佐藤嗣道(現・公益財団法人「いしずえ」)は、レンツ警告(1961年11月)の翌年、すぐに西ドイツを訪問したのは製薬課長(厚生省)であり、同課長がレンツ博士に面会した上で「レンツの警告には科学的根拠がない」と報告した、という誤った認識を持っているようです。

同様にして、栢森良二(帝京大学医学部)は、「わが国においては、薬を回収させる特別な措置は講じられていなかった。厚生省から西独へ派遣された調査官による「レンツ報告は科学的に根拠が乏しい」との一言によって片づけられてしまっていた」と書いています。(栢森1997,p.44)

厚生省は自ら決して動こうとはしなかった

「いしずえ」公式Webの年表「サリドマイド事件およびサリドマイド復活問題関係年表」には、学術課長(大日本製薬)派遣の記載はあるものの、製薬課長(厚生省)に関する記載は何もありません。(2021/07/10再確認)

西ドイツを最初に訪問したのは、間違いなく学術課長(大日本製薬)です。

製薬課長(厚生省)が西ドイツを訪問した時期(1963年5月)は、1962年9月に日本でのサリドマイド製剤の販売が中止され、回収作業も一段落したと思われる頃のことです。

そもそも、レンツ警告(1961年11月)に対して、厚生省は決して自ら対応しようとはしませんでした。当時の製薬課長(厚生省)は、日本のサリドマイド裁判(東京地裁)において、次のように証言しています。(参照:藤木&木田1974,平瀬証言pp.248-253)

製造販売をしているのは大日本製薬であるので、大日本製薬の方でまず自主的に解決すべきだと思いました。(当時の製薬課長の証言)

自主的に出荷中止/イソミンとプロバンM(朝日夕刊1962/05/17付け)

自主的に出荷中止/イソミンとプロバンM(朝日新聞スクープ)

わが国のサリドマイド事件の第一報

大日本製薬(株)が、サリドマイド製剤の出荷を中止したのは、1962年5月のことです。そして、それをスクープしたのが、朝日新聞夕刊記事「自主的に出荷中止/イソミンとプロバンM」(1962年5月17日付け)です。

この朝日新聞スクープが、わが国でのサリドマイド事件の第一報とされています。つまり、レンツ警告(1961年11月)から約半年間、日本国内での報道は一切ありませんでした。(参照:柴田1994,p.10)

そして、このスクープ記事の日付は、その約3年後に被害者家族が「とりあえず時効の中断」を求めるための根拠とされました。損害賠償請求訴訟(1965年11月)を東京地裁に起こす少し前(同年5月ごろ)のことです。つまり、被害者家族は、1965年5月ごろの段階で、「(サリドマイドが奇形の原因であると)知ってから三年」の時効が目前に迫っていると認識していたのです。(いしずえ1984,西田p.17)

一方で、「(レンツ警告後)日本でもサリドマイド胎芽病に関するニュースは医学誌や新聞などで報道されている」とする記述もあります(栢森1997,p.42 )。ただし、そこには出典などは明記されておらず、確かなことはよく分かりません。。

朝日新聞スクープ以前の資料として、私が把握しているのは下記資料(2点)だけです。しかしながら、それらはいずれも英文ニュース誌あるいは医学専門誌であり、通常一般市民が目にするような資料ではありません。

  • 『TIME(タイム)』アジア版,Medicine:Sleeping Pill Nightmare(睡眠薬の悪夢),1962年2月23日号
  • 『日本医師会雑誌』「海外短信」,「薬に注意」,1962年3月15日号

朝日新聞・厚生省・大日本製薬は日本のサリドマイド児の存在を否定した

さて、朝日新聞スクープ(夕刊)の翌日、同じく朝日新聞の朝刊(5月18日付け)には、西ドイツのサリドマイドに関する詳しい記事が掲載されました。ところが、その記事には「悪影響の実例、日本ではない」とする著名な薬学者の長いコメントが付けられていました。

さらに、その一週間後(5月25日付け)、厚生省から「国内ではまだ患者についての報告が一件もない」とする通達が出されました。また、宮武徳次郎・大日本製薬(株)社長は、販売店宛ての手紙で「出荷停止はするが、販売は続けるように」と書いていました。(栢森1997,p.43)

こうして、サリドマイド製剤の出荷停止措置は取られたものの、既に出荷された商品は回収されることなく、そのまま薬局で売られ続けました。

上記のような状況に関して、木田盈四郎(帝京大学医学部教授)は、「(大日本製薬(株)はイソミンとプロバンMを一時的に出荷停止(5月12日)」にしたが、「日本の新聞は記事にしなかった」と断言しています。(木田1982,p.142)、注:5月17日が正しい。

木田は、日本のサリドマイド裁判では原告側証人として出廷した経験を持ち、後にサリドマイド福祉センター「いしずえ」の顧問まで務めました。大変残念なことです。

日本にも睡眠薬の脅威(読売朝刊1962/08/26付け)

日本にもサリドマイド児・梶井正博士(読売新聞スクープ)

わが国のサリドマイド事件の実態を初めて明らかにした

日本国内で、サリドマイド児の存在を初めて明らかにしたのは、梶井正博士(北海道大学医学部小児科講師)です。梶井博士は、自験例7例をいきなり英国の医学雑誌「The Lancet(ランセット)」(1962年7月21日発行)に投稿しました。

梶井は、その理由について次のように証言しています。(藤木&木田1974,梶井証言pp.129-131)
「この雑誌が一番早くこういう報告が載るから、世界的に信用があるからと思って書いた」。
梶井の狙いどおり、レンツをはじめとするサリドマイドに関心を持つ国外の学者たちから、一斉に問合せの手紙がきました。

ところで梶井は、The Lancet(ランセット)投稿後、大日本製薬(株)札幌支店と北海道庁を訪問していました。ところが、日本国内では、この直接訪問や論文投稿に対する反応は、ほとんど何もありませんでした。

梶井は、The Lancet(ランセット)投稿後、同じ内容を北海道の小児科学会地方会で発表(8月26日)しました。それをスクープしたのが、読売新聞記事「日本にも睡眠薬の脅威」(1962年8月28日付け)です。つまり、新聞記事が掲載されたのは、小児科学会地方会の翌々日のことです。

日本国内のサリドマイド問題は、結局はこの読売新聞スクープによって、一気にクローズアップされることになりました。そしてその2週間後(9月13日)、大日本製薬(株)はイソミンとプロバンMの販売中止(及び回収)に踏み切りました。

レンツ警告(1961年11月)から遅れること約10か月後のことです。

レンツ警告後、日本国内での販売中止とそれに続く回収作業が大幅に遅れた間にも、多くの患者が発生しました。レンツ警告後のサリドマイド児数は、日本が世界で一番多くなっています。

国・製薬企業共に、レンツ警告の意義、つまり「レンツ自らが疫学調査を行い、そのデータを統計学的に処理した上で、具体的な対策を示した」ことを理解していなかったと言えるでしょう。

注)梶井博士のランセット掲載(1962年7月)に続く地方会での発表(8月26日・日曜日)、そして読売記者の訪問(8月27日・月曜日)から読売新聞スクープ(8月28日・火曜日)あるいは販売中止(9月13日・木曜日)までの日付を、時系列で正確に伝えている資料は極めて少ない。

日本のサリドマイド被害者に関するデータ分析

築地産院におけるサリドマイド児3例

東京都立築地産院におけるサリドマイド児3例

レンツ警告以前、既に症例を把握していた

日本国内でも、サリドマイドの催奇形性について把握していたと思われるケースがあります。東京都立築地産院(東京都中央区)において、サリドマイド児3例(いずれも死産)を経験していたのです。

しかもそれは、レンツ警告(1961年11月)以前のことです。その事実は、メーカーにも報告されたということですが、その情報が厚生省まで届いていたのかどうか定かではありません。

レンツ警告(1961年11月)の約半年後、朝日新聞スクープ「自主的に出荷中止」(1962/05/17付け夕刊)に際して出された厚生省通達には、「国内ではまだ患者についての報告が一件もない」と書かれていました。

ところで、日本でサリドマイド製剤の販売が中止され回収が始まったのは、1962年9月のことです。これに対して、サリドマイド胎芽症3例を含む築地産院の論文は、1963年になってから掲載されました。つまり、築地産院のデータが、サリドマイド製剤の販売中止(及び回収)の引き金になることはありませんでした。

なお、築地産院の医師は、日本のサリドマイド裁判における証言を拒否しました。その理由は、以下のとおりです。

学会での発表はあくまでも仮説である。それをいちいち裁判でとり上げられると、研究発表に臆病になってなにもいえなくなるし、新薬の使用もできない。そうなれば医学も発展しない。国民の健康を守る医学、医療の発展のため証言は拒否する。(高野1981,p.130)

日本先天異常学会のアンケート調査(936症例)

サリドマイドによる被害調査(厚生省、森山豊東大教授に依頼)

サリドマイドによる被害調査(厚生省、森山豊東大教授に依頼)

厚生省が初めてサリドマイドによる被害調査を開始したのは、イソミン/プロバンMの販売中止(そして回収)が決定した翌日(1962年9月14日)のことです。そして、その2年後の1964年7月、森山豊東大教授による「日本先天異常学会のアンケート調査(936症例)」が同学会において発表され、新聞紙上でも大きく取り上げられました。

森山報告(936症例)は、全国の産婦人科医と助産婦全員を対象とした〈アンケート調査〉をまとめたものです。

このアンケート調査の精度については、後に、梶井博士が日本のサリドマイド裁判(東京地裁)で懸念の声を上げています。つまり、「いわゆるサリドマイド児でない、それに似ているけれども違う奇形を相当含んでいるのではなかろうかという推定が成り立ちます」というのです。(藤木&木田1974,梶井証言p.148)

もちろん、日本先天異常学会として、この936症例について〈個々の症例ごとに詳細調査を実施する〉ことが検討されました。しかしながら、結局はその後の追加調査は一切行われませんでした。

なお、このアンケート調査(936症例)では、「耳や指の奇形」については最初から調査項目に含まれていませんでした。(参照:サリドマイド裁判1976,第3編,pp.659-660)

したがって、森山報告(936症例)では、「耳の障害」を主とする被害者データ(全体の約20~25%と考えられる)が、すっぽり抜け落ちている可能性があります。そして、指の奇形は頻度不明です。つまり、全体像をどこまでカバーできていたのかは不明です。

レンツ警告以降もイソミンの販売量が減少することはなかった

大日本製薬(株)が公表したイソミン販売量と奇形児出生数
レンツ警告以降もイソミンの販売量が減少することはなかった
サリドマイド販売量をサリドマイドの新聞広告スペース量で推測することはできない

佐藤嗣道の主張は受け入れられない

佐藤嗣道(公益財団法人いしずえ理事長、医学博士)は、自身もサリドマイド被害者です。その彼は、第1回医薬ビジランスセミナー(1997年9月)で、次のように述べています。

「レンツ警告を境に睡眠薬の広告をやめ胃腸薬プロバンMを大々的に売りまくったということで、一種の在庫整理と言われてもしかたがないやり方です」。(ビジランス1999,佐藤p.43)

彼のこの主張は、私には次のように読み取れます。

レンツ警告(1961年11月)後、「大日本製薬(株)は、残ったイソミン(サリドマイド)を「在庫整理」のためプロバンM(胃腸薬とサリドマイドの合剤)の中に入れた」。

その根拠として挙げられているのが、「中森黎悟による新聞広告量の調査」です。(平沢1965,pp.202-205)

つまり、”レンツ警告後、大日本製薬(株)はイソミンの広告をぴたりと止めた”、そしてその替わりに、”プロバンMの広告量を爆発的に増やした”というのです。

ただし、ちょうどその頃、日本国内で睡眠薬に対する規制強化が始まっていたのもまた事実です。
「(イソミンの)広告の中止はその規制に従ったまで」というのが、大日本製薬(株)の言い分です。

いずれにせよ、レンツ警告直後にイソミンの販売量が減少した(あるいはゼロになった)という事実は確認できません。(次項参照)

元々、イソミンとプロバンMの新聞広告量の経時変化のみから、両者の販売量の大小を推し量ることは不可能であったと言わざるを得ません。相関関係がありそうに見えるだけで、因果関係有りとするのは科学ではありません。

大日本製薬(株)が公表したイソミン販売量について

吉村功(名古屋大学助教授)の論文の中に、「大日本製薬が公表したイソミン販売量と奇形児出生数」(プロバンMを除く)の表があります。(増山編1971,吉村p.243)

この表から、私なりに「イソミン販売量(地域別)」を集計して、全国計(年度ごと)を算出してみました。ちなみに、この販売量に関して、吉村は「大日本からの出荷量である可能性が大きい」としています。つまり、メーカー(大日本製薬)から卸(問屋)への出荷量という意味です。

  • 1958年(4,069,824錠)、対前年増加率(-)、1月20日新発売
  • 1959年(5,589,132錠)、対前年増加率(137.3%)
  • 1960年(12,845,942錠)、対前年増加率(229.8%)
  • 1961年(30,003,608錠)、対前年増加率(233.6%)
  • 1962年(14,871,632錠)、対前年増加率(49.6%)、5月17日出荷中止
    (対前年増加率は私の計算によるものです)

なお、1962年分は、出荷中止(5月17日)まで約半年分の販売量として判断しました。つまり、同年の出荷期間が5か月弱であるのに対して、出荷量は対前年のほぼ半分(49.6%)となっています。

結論として、この資料で見る限り、レンツ警告(1961年11月)の翌年(1962年)もイソミンの販売量は減少しなかった、逆に少し増加していることが分かります。

注)イソミンの販売量は、1962年に入ってから最大化したと判断される。

そのほかに、レンツ警告(1961年11月)後、大日本製薬(株)が「イソミンに換えてプロバンMを売りまくった」とする確かな証拠を私は知りません。

佐藤嗣道の主張には何ら根拠が無い、と私は考えます。

注)大日本製薬(株)の公表データ中の「奇形児出生数」は、森山豊(東大分院教授)による「日本先天異常学会のアンケート調査(936症例)」を基にしていると推測される。

日本の認定被害者309名の内訳(いしずえデータ)

日本におけるサリドマイド被害児数(梶井データ/いしずえデータ)

日本におけるサリドマイド被害者の出生年と男女別

「いしずえ」公式Webでは、認定被害者309名の内訳について次のように公表しています。(2013/01/24閲覧)

  • 1959年生(男6、女6)12、対前年増加率(-)
  • 1960年生(男16、女9)25、対前年増加率(208.3%)
  • 1961年生(男34、女24)58、対前年増加率(232.0%)
  • 1962年生(男88、女74)162、対前年増加率(279.3%)
  • 1963年生(男24、女23)47、対前年増加率(29.0%)
  • 1964年生(男2、女2)4、対前年増加率(-)
  • 1969年生(男1、女0)1、対前年増加率(-)
    合計309(男171、女138)、対前年増加率は私の計算によるものです。

レンツ警告の翌年以降の服用例が1/3程度ある(栢森コメント)

胎児(胎芽)がサリドマイドの影響を受けてから生まれるまで、最大で約8か月と考えることができます。したがって、もし仮に、サリドマイドの全面回収がレンツ警告(1961年11月)の出された年の間に完了したとするならば、1962年9月以降、サリドマイド被害者が生まれることはなかったと考えられます。

  1. 標準的な妊娠期間は、最終月経初日から数えて280日(40週0日)とされる。(ただし月経周期28日の場合)
  2. サリドマイドによる危険期(過敏期)は、最終月経初日から数えて34~50日の間である。

栢森良二(帝京大学医学部)は、「1962年9月以降に生まれたサリドマイド児が100名ほど」いるとしています。(栢森1997,p.42)

この数値は、レンツ警告の翌年(1962年1月)以降のサリドマイド服用例が、全体の約1/3程度あることを示唆しています。それは「(世界で)最も多い数」であり、回避できたはずの症例が、日本においてはそれだけ多かったことを表しています。

1962年:レンツ警告の翌年、被害者数はピークに達した

1962年生のサリドマイド被害者の母親がサリドマイドを服用した時期は、おおまかには1961年5月~1962年4月と考えられます。そしてこの一年間(1961/05~1962/04)は、ちょうどイソミン/プロバンM共に通常販売が継続された最後の期間となりました。

  1. サリドマイド製剤が自主的に出荷停止となるのは、1962年5月である。
  2. プロバンM(発売日:1960年8月)の広告が出されたのは、1961年5月〜1962年5月の約1年間である。

この間に、サリドマイド被害者の増加率はピーク(対前年比約2.8倍)に達し、被害者数も最大となっています。その中で、イソミン販売量の増加率(年率約2.3倍)を超える超過分〈約0.5倍〉、すなわち50%の増加分は、この間にプロバンMが爆発的に売れた結果によるものかもしれません。

この件は、「いしずえ」がイソミン/プロバンM別の被害者数をきちんと公開しさえすれば、直ちに解決する問題です。

残薬整理の重要性

1969年生まれの被害児1例は、「母親が妊娠中に不眠のため、娘時代に購入し保存してあったイソミンを服用」したもので、「(その後)保存してあった空き箱を提出した。現地調査を行ない、その背景が認められた」ものです。(木田1982,p.162)

催奇形性を有するサリドマイド製剤の取り扱いにおいて、残薬処理を徹底することの重要性を示した一例と言えるでしょう。

残薬整理に関して、西ドイツでは、コンテルガンの販売中止(回収決定)直後、内務省がラジオなどを通じて「コンテルガンを服用しないように、家庭内のコンテルガンを全て一箱残らず破棄するように」国民に呼び掛けました。

こうした西ドイツ当局の動きについて、当時の製薬課長(厚生省)は、「聞いておりません」と証言しています。(藤木&木田1974,平瀬証言p.260)

梶井データ180症例(日本のサリドマイド裁判資料より)

日本におけるサリドマイド被害児数(梶井データ/いしずえデータ)

北海道を中心にデータを集める(4か月単位で集計)

梶井正博士(当時、ジュネーブ大学助教授)は、日本のサリドマイド裁判で原告側証人として出廷しました(1971年10月4~8日、東京地裁)。その時の尋問で取り上げられた資料の一つが、この梶井データです。(参照:藤木&木田1974,梶井証言p.166)

梶井データは、北海道を中心としたサリドマイド被害者(死産を含む180症例)について、梶井自らが〈4か月単位で集計〉したものです。ちなみに、北海道におけるサリドマイド製剤の販売推移は、全国のそれに比例していることが証明されています(参照:増山編1971,吉村p.256)。

つまり、この梶井データは、全国的な被害者数の増減傾向を映し出していると考えてよいでしょう。

ただし、梶井データは、全体で180症例(死産を含む)と少数であり、日本の推定患者数(死産を含む)約1,500例のうち一割強しかカバーできていないものと思われます。

また、1959~1961年生まれの患者数の割合が、「森山報告」や「いしずえデータ」と比べて極端に低い傾向にあります。その裏返しとして、1962年9月以降生まれの割合が、約43.9%という高い数値になっていると言えるかもしれません。いずれにせよ、無視できないデータの偏りがあるようです。

しかしながら、梶井データには〈4か月単位で集計〉されているメリットがあります。そして、特に1962年の一年間は、ほぼ4か月単位で大きな変化がありました。

  1. 1962年5月:サリドマイド製剤の出荷中止
  2. 1962年9月:サリドマイド製剤の販売中止

そこで以下では、その1962年(12か月)を〈4か月単位〉で3分割して、サリドマイド製剤の販売量及びその結果としての被害者数の推移を考察してみました。

  1. 従来どおりの販売を継続した4か月(1962年1~4月に服薬)→「1962年9~12月」生まれ
  2. 在庫販売に移った4か月(1962年5~8月に服薬)→「1963年1~4月」生まれ
  3. 完全に販売を中止して回収に入った4か月(1962年9~12月に服薬)→「1963年5~8月」生まれ

それぞれの4か月を詳しく見てみると、以下のようになります。

1.レンツ警告後の「1962年9~12月」生まれがピークとなっている(販売継続)

梶井データ(4か月単位で集計)によると、レンツ警告(1961年11月)の翌年の「1962年9~12月」に、被害者数はピークに達しています。つまり、その8か月前の「1962年1~4月」に、最も多くの妊婦がサリドマイド製剤を服用したものと推測されます。

「1962年1~4月」というのは、レンツ警告(1961年11月)の翌年に当たります。そして、日本では同年5月(1962年)までは、サリドマイド製剤の販売はそのまま継続されました。

2.「1963年1~4月」生まれは、1/3まで激減した(出荷停止)

日本のサリドマイド製剤は、1962年5月にとりあえず「出荷中止」になったものの、店頭での販売は継続されました。つまり、在庫品の店頭販売は、1962年5月(出荷中止)から同年9月(販売中止)まで継続されました。

「1962年5~8月」の4か月間は、ちょうど在庫品の店頭販売が継続されていた時期に当たります。そして、その時のサリドマイド販売量が、8か月後の「1963年1~4月」生まれの被害者数に反映されることになります。

そこで、改めて梶井データを確認すると、「1963年1~4月」生まれの被害者数は、その前の「1962年9~12月」生まれの1/3まで激減しています。

1962年5月の措置(自主的に出荷中止)は不完全なものであり、同年9月まで在庫品の店頭販売は継続されました。しかしながら、この不完全な「出荷中止」措置でさえも、被害者数をそれまでの1/3にまで急激に減らす効果はあったということができます。

3.「1963年5~8月」以降の生まれは、さらに減少した(回収決定)

日本のサリドマイド製剤は、1962年9月になってやっと販売が中止され、回収作業が始まりました。

日本で回収作業が始まった「1962年9~12月」に、サリドマイドを服用した母親から生まれた被害者は、「1963年5~8月」生まれと考えられます。その数は、「1963年1~4月」生まれの3割未満であり、ピーク時である「1962年9~12月」生まれの1/10以下まで減少しています。

そしてその後、少数の発症例が続いています。なお、これらの発症例が、新たに薬局で購入した未回収の商品によるものか、あるいは家庭内で手持ちしていた残薬によるものかは不明です。

ケルシー博士(米国FDA)サリドマイドの発売阻止

サリドマイドは米国では発売されなかった

ケルシー博士(米国FDA)、米国内でのサリドマイド発売を阻止する

新人審査官としてのケルシー博士

サリドマイドは、米国ではついに発売されることはありませんでした。

FDA(米国食品医薬品局)の新人審査官であったフランシス・ケルシー博士が、米国メレル社の発売申請(1960年9月8日付け)に待ったを掛け続けたためです。その間当然ながら、発売を急ぐメレル社とケルシーとの間で激しいやり取りが交わされました。(米国での販売予定名:ケバドン)

その内幕は、レンツ警告の翌年に「ワシントン・ポスト」紙(1962年7月15日付け)の記事で初めて明らかにされました。そして、時の米国大統領ジョン・F・ケネディは、ケルシー博士を米国の救世主としてたたえ、大統領勲章を贈りました(同年8月4日)。

薬理学者としてのケルシー博士

ケルシーは薬理学者でした。

「十二年間在籍したシカゴ大で、抗マラリア薬の研究を続け、安全を証明するため、動物実験をいやというほど繰り返した」経験などを持っていました。薬理学者としての彼女の目には、ケバドンの申請資料は「安全性を示す動物実験が不十分」に見えました。そこで、「追加データを求め、承認を保留」し続けたのです。(「」内引用、朝日新聞記事:1994年11月1日付け)

つまり、ケルシーは初めから催奇形性に注目していたわけではなさそうです。

ケルシーが当初指摘したのは、安全性を示す動物実験が不十分だったことにあります。そしてその後、フローレンスの多発神経炎の記事(英国医師会雑誌:British Medical Journal)を読んで、催奇形性に注目したというのが真相のようです。

なお、上記の朝日新聞記事は、FDA本部のケルシーの部屋で直接インタビューしたものです。彼女は当時80歳で、しかもFDAの現役部長でした。(2005年に90歳でFDA退職、2015年8月死去・享年101歳)

キーフォーヴァー・ハリス医薬品改正法の成立とケルシー博士

サリドマイド事件をきっかけに、米国ではキーフォーヴァー・ハリス医薬品改正法(1962年)が成立しました。
ケルシー博士の活躍は、そのことに大きく貢献しました。

同法によって、米国における「新薬の有効性と安全性の検証プロセス」が標準化され、「FDAの監督権限」が強化されました。山口祐司(大阪市立大学)は、このことが米国の現在における「製薬産業の競争力の根拠となっている」としています。(山口2013,p.111)

サリドマイド胎芽症と催奇形性

主に四肢の欠損と耳の障害に大別される

サリドマイド胎芽症とは、妊娠初期の女性がサリドマイドの影響を受けることによって、胎児(正確には胎芽期)に生じる障害(奇形)のことを言います。

サリドマイド胎芽症の特徴としては、一般的には、四肢、特に上肢の低形成であるフォコメリアphocomelia(海豹肢症―あざらし肢症)がよく知られています。その一方で、難聴や外耳奇形を含む聴覚器に強い障害が出る場合があります。さらに、障害は内臓まで及ぶことも見逃せません。

上肢低形成群と聴器低形成群の2つのグループに分かれる

『サリドマイド胎芽症 診療ガイド2017』p.13では、サリドマイド胎芽症の身体的特徴として、「上肢低形成群と聴器低形成群の2つのグループに分かれている」としています。

  • 上肢低形成群:230人(75%)
  • 聴器低形成群:59人(19%)
  • 混合群:20人(6%)

そしてまた、「上肢低形成群が75%、聴器低形成群が25%ほどとみることができる」とも書いています。少数の混合群(6%)では、耳の方が腕よりも障害の程度が大きいという意味のようです。

ちなみに、「一般に耳の奇形は受胎してから早い時期に薬を投与されたときに起こり、腕の奇形は少し遅れて、脚の奇形はさらに遅い時期に起こる」ことが知られています。(増山編1971,木田p.137)

日本では、死亡率が高く重症例が少ない

日本のサリドマイド事件の特徴の一つとして、死亡率が高い(生存率が低い)ことや重症度が低い(下肢の障害が少ない)ことが挙げられます。

その理由として、無事に生まれたサリドマイド児を死産扱いとしたケースのあることが示唆されています。

森山報告(日本先天異常学会のアンケート調査:936症例)では、日本における各年度ごとの生存率は20%程度となっています。この数値は、例えばレンツ文献(死亡率40%、つまり生存率60%)と比べて異常に低くなっています。

下肢の障害については、『サリドマイド胎芽病診療 Q&A』(2014年)のデータがあります。それによると、上肢低形成型のうち下肢低形成合併例が3名あり、「うち1名が重度低形成で移動には車椅子が必要」としています。つまり、下肢に障害があるのは309例中3例のみと読み取れます。

なお、『サリドマイド胎芽症 診療ガイド2017』p.33では、「日本における下肢低形成者はわずか2/309例(1%以下)である」としています。下肢低形成者が3例から2例に減った理由については、私にはよく分かりません。

日本のサリドマイド事件の特徴(回避できたはずの症例、生まれたはずの症例)

危険期は、最終月経から34~50日の間である

妊娠したかどうか分からない時期が危ない

サリドマイド胎芽症の定義は、「最終月経後の34~50日の間にサリドマイド薬剤を服用した妊婦から生まれた奇形症候群である」とされています。(診療ガイド2020,p.23)

つまり、サリドマイドによる危険期(過敏期)は、胎芽期(週齢で3~7週)の中でもさらに狭い範囲に限定されていることが分かります。それは、月経周期を仮に28日とした場合には、次の生理予定日からおおよそ1~3週間の間になります。

要するに、妊娠したかどうか気付けない可能性のある時期であり、”つわり”の始まる時期(妊娠4~5週(妊娠2か月))とも重なっています。

「サリドマイド胎芽病の過敏期」については、ノバックとレンツによる詳細な研究(82例)があります。それによると、「妊婦のサリドマイド服用による障害は、最終月経初日から数えて34~50日の間に生じることが分かった」としています。(参照:増山編1971,木田pp.137-142)

高橋晄正(東京大学医学部講師)による東京都立築地産院(3例)の分析結果では、「この資料から危険期を求めるなら最終月経の第1日から数えて36~44日ということになる」としています。(同上,高橋pp.209-232)

診療ガイド2017では、「サリドマイド胎芽症では、妊婦の最終月経から36~49日間(児齢22~35日、週齢4~5週)がサリドマイド曝露の臨界期である」としています(診療ガイド2017,p.32)。注)ただし、定義自体は34~50日としている。(同ガイド,p.12)

サリドマイド胎芽病と催奇形性

サリドマイド製剤の催奇形性の強さ

サリドマイドのヒトに対する感受性は特異的に高い

サリドマイドの感受性は、種差(動物の種類による影響力の差)が非常に大きいことが分かっています。
その中で、ヒトのサリドマイドに対する感受性は極めて高くなっています。

それを裏付けるかのように、レンツ博士は次のように述べています。
「西ドイツでの調査によると、外観に異常がなくても、危険期に服用した母親から生まれた児には、必ず異常が発見できた」。(シェストレーム1973,増山:序に代えてp.8)

さらに、「PMDA サリドマイドの非臨床における概括評価書」には、次のデータが記載されています。
「催奇形に必要なサリドマイドの最低量(mg/kg)」は、イヌ100、マウス31、ラット10、サル10に対して、ウサギ2.5、そしてヒト(0.5-1.0)mg/kgとなっている(要約)。
注)PMDA:独立行政法人 医薬品医療機器総合機構

上記のヒトにおける感受性の最低量(0.5-1.0mg/kg)は、体重50kgの成人に直すと、コンテルガンやイソミンの1錠(サリドマイド25mg含有)あるいは2錠(サリドマイド50mg相当)にちょうど当てはまる量となります。

そして、西ドイツでは、薬局で買い求めたコンテルガン(サリドマイド25mg錠)を1回2錠飲んだだけで発症したケースが紹介されています。(栢森1997,p.20)

イソミンそしてプロバンMの被害者数の割合

平沢正夫(ジャーナリスト)は、京都のある小集団において「(7人中)過半数の4人は、母親がプロバンMをのんだために、奇形児がうまれた」例があることを紹介しています。(平沢1965,p.204)

平沢は、その結果について、「庶民にとっては、胃腸薬のほうが、睡眠薬よりもはるかに親しまれている。のむ機会も多い。それだけに被害も大きいのではないか」との見解を示しています。

しかしながら、私の分析結果では、「のむ機会」が多かったのは、プロバンMではなくてイソミンの方になります。
平沢の見解は、データに基づかないただ単なる憶測に過ぎません。

参考までに、私の分析結果を以下にてお示しいたします。

まず大前提として、睡眠薬「イソミン錠」と胃腸薬「プロバンM錠」のそれぞれ1錠中に含まれるサリドマイド量を比較すると、その比率(概算)はイソミン(4)に対してプロバンM(1)になります。

  • イソミン錠:サリドマイド25mg含有
  • プロバンM錠:臭化プロパンテリン7.5mg+サリドマイド6mg含有

そして、当時の各剤の用法・用量を以下のとおりと仮定します。
(参考:2020年現在の臭化プロパンテリン添付文書など)

  • イソミン錠(睡眠薬として)は、1日1回2錠(サリドマイド50mg)服用した(仮定)。
  • プロバンM錠(胃腸薬として)は、1日3~4回、1回2錠ずつ(サリドマイド最大で48mg)服用した(仮定)。

以上から、一人1日当たりの服用錠数は、明らかにプロバンMの方が多かったことが分かります。

さらに、最盛期(1962年1月ごろ)、イソミン錠とプロバンM錠の販売錠数はほぼ等しくなっていました。
つまり、後から発売されたプロバンM錠の販売錠数が、イソミン錠に追いつく形になっていました。

いずれにしても、サリドマイド製剤の全販売期間を通して、1日服用錠数の少ないイソミンの方が、プロバンMよりも服用人数(服用機会)は多かったと考えられます。
それに伴って、被害児の比率もプロバンMよりもイソミンの方が多くなっているはずです。

ただし残念ながら、プロバンMの売上高推移及びそれに伴う患者数の推移が公表されていないため、これ以上の比較検討はできません。

サリドマイド製剤の催奇形性の強さ(コンテルガン、イソミンそしてプロバンM)

サリドマイド仮説の証明

サリドマイド胎芽症の原因はサリドマイドにある

「サリドマイド胎芽症の原因はサリドマイドにある」とするサリドマイド仮説の最も重要な論拠は次の二つです。
疫学調査によって、それらを裏付ける数多くの資料が集められ、サリドマイド仮説は証明されたと言えます。

(1)「奇形児と非奇形児の間で統計的にもっとも差のある因子は、妊娠初期におけるサリドマイドの服用である。すなわち、前者の母親には、妊娠初期にサリドマイドをのんだ確証のあるものが多いのに対して、後者の母親にはそれが少ない(レンツ博士)」。(増山編1971,吉村pp.233-234)

レンツ警告2/3(疫学の考え方、四分表(2✕2表)を理解する)

(2)サリドマイド胎芽症は、サリドマイドが販売された場所(国)と時間(期間)でのみ発生した。

サリドマイド児の発生数は、サリドマイドの売り上げ増加に伴って上昇した。
そして逆に、売り上げ低下とともに減少した。
全てのサリドマイドが回収されて以降、再び同様の奇形を見ることはなかった。
なお、サリドマイド未発売国における同様の奇形は、治験薬によるものなどが少数例あるのみである。

サリドマイド使用量の推移とサリドマイド胎芽病の増減には相関関係がある

サリドマイドによる血管新生抑制作用と催奇形性

サリドマイドの催奇形性に関する有力な仮説の一つに、サリドマイドによる血管新生抑制作用があります。

サリドマイドは、血管新生作用を持つTNF-αの免疫系内での合成を選択的に抑制します。
つまり、サリドマイドの持つ血管新生抑制作用の結果、例えば四肢に育つ組織に血管が作られず、手足の正常な形成が阻害されると考えられています。

サリドマイドには「不斉」炭素が一つある

サリドマイドの催奇形性は「左手型」にある

サリドマイドには、「不斉」炭素が一つあります。
したがって、右手型(R体)と左手型(S体)の鏡像異性体が存在します。
そして、睡眠作用は「右手型」、催奇形性は「左手型」にあることが分かっています。

それならば、最初から「不斉合成」を行って、「右手型」だけを取り出しておけば、サリドマイド胎芽症を防ぐことができたのかというと、ことはそう簡単ではありません。

  • 催奇形性が、「左」「右」のいずれか一方のみにあるということは、事件後に分かったことである。
  • たとえ、事件前にその事実をつかんでいたとしても、両者を完全に分離生産する技術は当時まだ確立されていなかった。
  • さらに、サリドマイドの場合、右手型も体内で少しづつ左手型に変化していく。
    つまり、時間とともにラセミ化して、右手型と左手型が混じり合った状態となる。

結局のところ、サリドマイドそのものを臨床に用いるとするならば、サレドカプセル(効能・効果:再発又は難治性の多発性骨髄腫など)のようにラセミ体の製剤とした上で、徹底した副作用対策を行う以外にはありません。

サリドマイドの血管新生抑制作用と不斉合成

なお、サリドマイドを服用した本人に生じる重大な副作用としては、多発神経炎が知られています。

注)2001年度ノーベル化学賞(キラル触媒による不斉反応の研究)は、野依良治教授(名古屋大学)ら3氏に贈られた。野依良治教授は、2003年10月から独立行政法人理化学研究所(理研)の初代理事長となり、2015年3月末で辞任した。その理研から、STAP細胞に関する論文が発表されたのは、2014年1月のことであった。(英国の科学雑誌「Nature(ネイチャー)」2014年1月30日号掲載)

日本のサリドマイド裁判、そして「いしずえ」や今後のことなど

日本のサリドマイド裁判は民事訴訟である

裁判は東京地裁を中心に進められた

日本のサリドマイド裁判は、1963年6月28日(昭和38)、被害者家族が大日本製薬(株)を相手に、損害賠償請求訴訟を名古屋地裁に提訴したことに始まります。
そしてその後、京都(1964年12月)、東京(1965年11月)などが続き全国で8地裁となりました。
(東京、岐阜、名古屋、京都、大阪、岡山、広島、福岡の8地裁)

当初は、各地域ごとの訴訟団の連絡はなかったものの、間もなく各弁護団、原告団の連絡組織が作られ、東京が中心となってリーディングケースとして訴訟を進めることになりました。(1971年11月には、全国サリドマイド訴訟統一原告団(45家族)結成)

日本でも民事訴訟始まる

東京地裁に提訴以来、約5年をかけた準備手続は1970年11月に終結しました。
その後、証人尋問(原告側・被告側)が、1971年2月から1973年12月まで約3年にわたって行われました。
そして被告側は、1973年12月14日(昭和48)、因果関係と責任を全面的に認め、正式に和解申入れを行いました。

サリドマイド訴訟(因果関係・責任論・損害)

和解交渉の末、一時金、年金(物価スライド制)に加えて、財団法人サリドマイド福祉センター(仮称)の設立が決定しました。(和解確認書調印、1974年10月13日)
それは間もなく、財団法人「いしずえ」として設立が許可(同年12月7日)されることになります。

サリドマイド福祉センター「いしずえ」の取り組み

「いしずえ」の取り組みとして、「サリドマイド被害者の健康管理と福祉の増進、被害者の交流、薬害防止等に関する事業」が挙げられています。
その中で、薬害防止などに関する事業については、サリドマイド復活問題、学校教育への協力、他団体との交流・連携が挙げられています。(いしずえ公式Web、2020年2月以前の確認)

例えば、学校教育への協力ということについては、中学3年生を対象とした厚生労働省医薬食品局『薬害を学ぼう』(2013年)p.3で、サリドマイド被害者の一人である増山ゆかり(いしずえ常務理事)は次のように書いています。

「二度と同じような被害者を出さないために、この薬の危険性をよく知って、慎重に使用してほしい」。
つまり、サリドマイド剤の復活(サレドカプセル、効能・効果:再発又は難治性の多発性骨髄腫)を念頭に置いてのことです。

薬害防止に向けて、被害者からの積極的な発言は重く受け止めるべきと考えます。

サリドマイド被害者のための福祉センター「いしずえ」

中森黎悟さん(サリドマイド児の父親)刑事告発

大日本製薬(株)は不起訴処分になった

ところで、日本でもサリドマイドに関する刑事告発が行われました。
しかし、当該企業は不起訴処分となりました。

中森黎悟さん(サリドマイド児の父親)は、1966年12月7日(昭和41)、大日本製薬(株)を「薬事法違反及び業務上過失致死傷害罪」で京都地検に告発しました。
しかしながら、京都地検は大日本製薬(株)を不起訴処分と決定しました。

それを受けて、中森さんが京都検察審査会に申し立てた結果、京都検察審査会は京都地検の不起訴処分を不当としました。
ところが、1970年8月15日(昭和45)、京都地検は再調査でも不起訴と決定しました。
そして、担当検事はその翌日和歌山地検へ転出しました。

佐藤嗣道理事長は自らの公式Webを見ていない

2020年春(令和2)、安倍晋三首相は、新型コロナウイルス感染症の治療薬として、催奇形性を有するアビガン錠(抗インフルエンザ薬)を緊急追加承認するために前のめり状態になっていました。
そして、同年5月4日の記者会見では、”5月中の薬事承認を目指す”考えを明らかにしました。

コロナ禍の下、医薬品の有効性・安全性の基準が軽んじられかねない状況の中で、私は公益財団法人「いしずえ」のオフィシャルWebを改めて閲覧していました。
そしてそのWeb上で、信じられない文章を発見しました。

「いしずえ」トップページ >> サリドマイド事件-事件の概要/被害の実態

サリドマイド事件-事件の概要/被害の実態

西ドイツでは幼児の睡眠薬「シネマジュース」として販売されたために妊婦の服用が増え、被害の増加につながりました。(2020/04/29閲覧)

もちろん、「幼児の睡眠薬を妊婦が服用した結果、サリドマイド被害者が増加した」はずはありません。
私の指摘を受けて、この文章は事務局で多少手直しをされました。
なおこの文章は、かなり以前からそのままの形で掲載されていたようです。

いずれにせよ、佐藤嗣道理事長(大学薬学部教員、自身もサリドマイド被害者)が、自ら公式Webの内容を確認(校閲)していないことは明らかです。

 いしずえの外部に向けた発信の現況

現在の公益財団法人「いしずえ」は、公式Webを新たに作り替えた(2020年2月ごろ)ようです。
そしてその中では、”公益目的事業4”として、「医薬品の副作用にかかる被害を防止し被害救済を行うための政策の拡充及び促進のための提言、研修教育並びに啓発」を掲げています。(2021/07/10再確認)

「いしずえ」が、今後とも”公益目的事業4”推進のため外部に向かって発信を続けるというのであれば、私は、まずは「いしずえ」自身に関するデータについて、科学的根拠(evidence)を示してからにしていただきたいと希望します。

以下は、特に気になる事柄です。

  1. レンツ警告(1961/11/15)の日付をめぐる解釈の違い
  2. レンツ文献(Lenz1988)翻訳の正確性について
  3. 佐藤理事長は二人の課長の西ドイツ訪問時期とその内容を取り違えている
  4. イソミンを在庫整理してプロバンMを売りまくった(佐藤嗣道の主張)

イソミンとプロバンM、結局その違いはどこにあったのか

鎮静・催眠剤イソミン(1958年1月発売)に加えて、胃腸薬プロバンMを追加発売(1960年8月発売)したことによって、サリドマイド胎芽症が増えることはあったのでしょうか。
あるいは、鎮静・催眠剤イソミンと胃腸薬プロバンMでは、つわりに対してどのように使い分けられていたのでしょうか。
科学的根拠(evidence)はどこにも示されていません。

私は、その手掛かりとして、以下のことを考えています。

つまり、日本のサリドマイド被害者数は、1962年生まれが最大となっています。
この時、その増加率(対前年比約2.8倍)は、イソミン売上高の伸び率(対前年比約2.3倍)よりも大きくなっています。
その差(約0.5倍つまり50%増)は、プロバンM売上高の急増によるものと推測されます。

私は、サリドマイド事件に関する事柄については、公益財団法人「いしずえ」において、科学的根拠(evidence)に基づくきちんとした文章として書き残していただきたいと切に願っています。
その第一歩として、以下のことを要望します。

製品別被害者数の月次推移について、服用目的別にまとめた資料を作成して公表すること。

そのときのポイントは、以下のようになるかと存じます。

  1. サリドマイド服用年月と出生年月(男女の別)
  2. 服用薬剤名(イソミン・プロバンMの別、あるいは他社品名)
  3. 服用目的(睡眠・鎮静あるいはつわり対策など)
  4. 購入日(購入後すぐ服用、あるいは手持ちしていたものかどうかなど)

サリドマイドの復権と今後の展望

ステロイドを上回る免疫抑制作用、抗炎症作用が注目されている

1964年(昭和39)、全くの偶然からエルサレム・ハンセン病病院(ヤコブ・シェスキン院長)で、サリドマイドがハンセン病患者に多発する難治性の皮膚炎(結節性紅斑)に劇的に効くことが確かめられました。

その後の研究によって、サリドマイドはステロイドを上回る効能・効果(免疫抑制作用、抗炎症作用)を有する薬剤として臨床応用が進んでいます。

そしてついに日本でも、2009年2月(平成21)、サリドマイド製剤の販売が再開されました。
効能・効果は、再発又は難治性の多発性骨髄腫です。
さらにその後、らい性結節性紅斑に対する「効能・効果」及び「用法・用量」が追加承認されました。
(藤本製薬(株)のサレドカプセル)

サリドマイドの復権(日本の場合)

基礎研究(催奇形性の解明など)が日本国内で進んでいる

東京工業大学は、2010年3月8日(平成22)、「サリドマイド催奇性における主要な原因標的タンパク質を同定」したことを公表しました。
これによって、催奇性を軽減させたより優れた新薬開発への道が開かれたことになります。

さらに大阪大学は、2016年9月8日(平成28)、「レナリドミド(サリドマイド誘導体)による抗炎症作用のメカニズムを解明することに成功」したと発表しました。
今後、炎症性自己免疫疾患(関節リウマチなど)にいかに応用していくか注目されます。

国立大学法人名古屋工業大学は、2018年2月20日(平成30)、「サリドマイドの催奇形性問題を分子レベルで解明-40年間の謎に終止符-」することに成功したと発表しました。
「今後、催奇形性の無い安全なサリドマイド型治療薬の開発が期待されるほか、新規治療薬の開発に向けての大きな足掛かりになることが期待されます」。

国立大学法人東京工業大学は、2019年10月8日(令和1)、「サリドマイドが手足や耳に奇形を引き起こすメカニズムを解明」したことを公表しました。
「本研究によりp63(タンパク質の一種、当Web作者注)の分解が副作用の原因であることが判明しました。p63の分解を誘導しないサリドマイド系化合物を探索することにより、安全性の高い新薬の開発が可能になると考えられます」。

いずれにしても、今後研究を進める上で、徹底した副作用対策(多発神経炎や胎芽症)が欠かせないことは言うまでもありません。

サリドマイド事件(半世紀後の今)

サリドマイド事件はまだ終わっていない

サリドマイド事件から半世紀以上が経過しました。
その間、2005年(平成17)までに、日本での認定被害者309名のうち12名の方が既に亡くなっているそうです。その原因は、交通事故や肝障害、心不全、突然死、心の病など多岐にわたっています。

また、患者が年齢を重ねるごとに、四肢・耳などの障害による日常生活動作の不自由さや、内臓まで障害が及んでいることによる健康不安が高まっています。

サリドマイド事件は決してまだ終わったわけではありません。

サリドマイド事件 ~世界最大の薬害 日本の場合はどうだったのか~
アマゾンKindle第7版(2023/02/20)です。
このページ以外の20数ページ(Web版)を全てまとめた完全版になっています。
図表及びその詳しい説明もあります。