サリドマイド事件のあらまし(概要)
世界最大の薬害~サリドマイド事件とは
睡眠・鎮静剤サリドマイドには催奇形性がある
サリドマイド事件とは、睡眠・鎮静剤サリドマイド(化合物名:N-フタリル・グルタミン酸イミド)を妊娠初期の女性が服用することによって、胎児(正確には胎芽)に四肢短縮などの障害(奇形)を生じた世界的な薬害事件のことを言います。
つまり、サリドマイドには催奇形性があります。
サリドマイド(thalidomide、化学式:alpha-ph[thal]-im[ido]-glutari[mide])を開発したのは、グリュネンタール社(西ドイツ、当時)です。
サリドマイド製剤は、西ドイツで商品名「コンテルガン」として発売(1957年10月1日)以来、提携会社を通じて世界の40か国以上で販売されました。
なお販売名は、それぞれの販売先で独自の商品名が付けられました。(日本での商品名:イソミンなど)
コンテルガンの販売開始から丸4年後(1961年11月15日)、レンツ博士(西ドイツ)によってレンツ警告(サリドマイドに催奇性有りとする警告)が出され、サリドマイド製剤は直ちに先進国の市場から姿を消しました。
サリドマイド製剤は、フランス、米国及び東欧諸国(東ドイツ、旧ソ連など)では発売されませんでした。
サリドマイド胎芽症:サリドマイドによって生じる奇形症候群である
サリドマイドを妊娠初期の母親が服用することによって、胎児(正確には胎芽)に生じる障害(奇形)のことをサリドマイド胎芽症と言います。
サリドマイドで奇形が生じるのは、胎芽期(週齢で3~7週)の中でもさらに限られた期間であり、生理が遅れたかなと気付きはじめてから、ほんのわずかの間です。
注)受精卵から着床まで:週齢で1~2週、胎芽期:週齢で3~7週、胎児期:それ以降8~38週。(最終月経開始日から14日後排卵、受精と仮定)
なお、サリドマイド胎芽症の定義は、「最終月経後の34~50日の間にサリドマイド薬剤を服用した妊婦から生まれた奇形症候群」とされています。(診療ガイド2020,p.23)
コンテルガン、イソミンの催奇形性試験は行われなかった
コンテルガンの動物実験データについて、臨床薬理学の世界的権威・ティエルシュ教授(米国ワシントン州立大学)が、1973年10月17日(昭和48)、日本のサリドマイド裁判(東京地裁)で次のように証言しています。
「完全に安全性が確立されていたとは思えません。幾つかの抜けている点がありました」。
さらに、胎児に対する安全性については、「調査すらされなかった」と断言しました。
(藤木&木田1974,ティエルシュ証言,pp.195-196)
なお、日本のサリドマイド裁判(東京地裁)で海外から出廷したのは、レンツ(西独)、梶井(当時、ジュネーブ大学助教授)そしてティエルシュ(米国)の3名でした。
いずれも原告側証人であり、被告側証人(国外)は誰も認められませんでした。
イソミンの催奇形性試験も行われませんでした。
もちろん、その当時は世界的に見ても、新薬の催奇形性試験が〈義務〉付けられていなかったのは確かです。
しかしながら、既に世界的な常識として、薬物(キニーネやアミノプテリンなど)に催奇形性があることは分かっていました。
したがって、妊婦にも安全だと宣伝していた以上は、催奇形性試験を行う責務があったと言うべきでしょう。
なお日本においては、1965年5月(昭和40)の厚生省通達(薬製第125号通達)によって、新薬に対する催奇形性試験の実施が義務付けられました。
コンテルガン、イソミンと多発神経炎
サリドマイドは、従来から使用されていたバルビツール酸系睡眠薬とは系統の異なる薬剤です。
その特徴は、即効性があり、持ち越し効果が少ないというものでした。
つまり、目覚めた時に頭がぼんやりしていたり、眠気が残っているようなことはありませんでした。
また、呼吸抑制作用が弱く、大量に服用しても死亡することはありませんでした。
つまり、自殺目的には使用できないと考えられました。
そこで、同薬の副作用として多発神経炎が問題となるまでは、西ドイツでも大衆薬(医師の処方箋を必要としない)として取り扱われ、最も人気の高い睡眠薬となりました。
しかしながら、グリュネンタール社による発売前の臨床試験では、めまい、耳鳴り、便秘などの副作用報告が既に上がっていました。
そこで、同社内でも、コンテルガン発売に反対する人たちがいました。
そしてその懸念は、発売後に多発神経炎として証明されることになり、同薬は処方箋薬に指定されました。
その結果、コンテルガン(西ドイツ)の販売量は、1961年1月をピークにして急激に減少しました。
レンツ警告(1961年11月)当時の販売量は、既にピーク時の3~4割程度まで(つまり、半分以下にまで)落ち込んでいたことが分かります。(栢森1997,p.41図より)
これに対して日本では、発売前から発売中、そして販売中止に至る過程で、多発神経炎が話題になることは一度もありませんでした。
サリドマイドの被害総数は約一万症例
生存者数は、6千人前後と推測される
サリドマイド胎芽症の世界における被害総数(死産を含む)は、約10,000人(一万人)、そして、その内の生存者数は6千人前後と推測されます。
ただし、サリドマイドの被害状況については、被害総数の中の生存者数及びその割合(生存率)、あるいは死産の数及びその割合(死亡率)の表記方法が資料によってまちまちとなっています。
また、それらの数値そのものが資料によって異なっている場合があります。
そうした中で、栢森良二(帝京大学医学部)は、サリドマイド児の全世界における発生数に関して、レンツ文献から次のように引用(翻訳)しています。
Lenz W: A short history of thalidomide embryopathy. TERATOLOGY,38:203-215,1988
「3,900症例が生存している。死亡率は40%程度と算出されることから、全世界の発生は5,850症例と考えられる」。(栢森1997,p.41)
この栢森の引用内容について、私は次のように読み取りました。
- サリドマイド胎芽症の死亡率は、おおよそ40%と推測される。
- 生存者は5,850人(1960年代初頭)と考えられる。
- 3,900症例が生存しているというのは、このレンツ文献投稿(掲載は1988年9月)時点での生存者数のことであろう。
なお、同レンツ文献では、各国別の被害児数(生存者数)について、上位19か国分(小計4,165症例)を紹介しています。(栢森1997,p.39)
それを見ると、被害児の多い順に、西ドイツ3049、日本309、英国201、カナダ115、スウェーデン107、ブラジル99、イタリア86などとなっています。
日本の認定患者(生存者)は309名である
日本での認定患者数(生存者)は、上記レンツ文献にもあるように309名です。
しかしながら、「諸般の事情で申請しなかった、申請制度を知らなかった、耳の障害と母指球筋低形成などの被害者は、サリドマイド被害者だと気づいていない家族がいる可能性がある」ことが指摘されています。(川俣2010,p.435)
実際に私は、2020年5月、そうした中のお一人からメールを頂きました。
日本のサリドマイド製剤(イソミンとプロバンM、そしてゾロ品)
イソミン、製法特許を主張(大日本製薬株式会社)
サリドマイド製剤は、日本国内でも販売されました。
しかしそれは、西ドイツから導入されたものではありません。
日本のサリドマイドは、大日本製薬(株)が、薬学雑誌に掲載されたグリュネンタール社(西ドイツ)の文献にヒントを得て、独自の製法を用いて合成を行い特許を出願しました。
物質特許ではなく製法特許を主張したのです。
製法特許主義とは、同じ化学物質であっても、製法さえ異なれば〈別の化合物として〉特許権を主張できるとする考え方です。
日本が、欧米並みの物質特許主義に移行したのは、1976年1月1日(昭和51)のことです。
さて、イソミンの特許出願から製造販売許可申請まで、わずか1年足らずしかありませんでした。
そうした状況の中で、きちんとした動物実験や臨床試験をやる余裕はなかったものと思われます。
それにもかかわらず、イソミンは製造販売を許可されました。
イソミンとプロバンM(プロバンMB)新発売
大日本製薬(株)は、1958年1月20日(昭和33)、睡眠・鎮静剤「イソミン錠」(単剤)の販売を開始しました。(ほかに10%散剤有り)
そして、1960年8月22日(昭和35)、胃腸薬「プロバンM錠」(合剤)を〈追加〉発売しました。
これは、抗コリン性鎮痙薬の臭化プロパンテリンに少量のサリドマイドを配合したものです。
サリドマイド製剤は、そのほかのメーカーからも発売されました。
それらはいずれも、当時常態となっていたゾロ品(後発のまね薬)として発売されたものです。
ただし実際には、大日本製薬(株)の2製品で約95%占拠していたとされています。
なお、大日本製薬(株)は、レンツ警告後の1962年7月7日(昭和37)、「プロバンM錠」のサリドマイドをブロバリン(ブロモバレリル尿素)と入れ替えた新胃腸薬「プロバンMB錠」を発売しました。
サリドマイドの入っていない〈新〉胃腸薬「プロバンMB錠」は、「プロバンM錠」としてそのまま販売が継続されました。
その頃の広告写真が幾つかの書籍に載っており、それを見ると、小さく〈新処方〉と表示されているのが分かります。(栢森1997,pp.10-11、松下1996,p.25)
この〈新〉「プロバンM錠」は、少なくとも1962年12月ごろまでは発売されていたようです。
⇒ 日本のサリドマイド製剤(イソミンとプロバンM、そしてゾロ品)
薬事審議会と事務局限りの包括建議、そして天下り
イソミンは包括建議・第八項の対象とされた
1950年代後半、薬事及び毒物劇物の取扱いに関する重要事項を調査審議するため、厚生大臣の諮問機関として薬事審議会(薬審)が設置されていました。(2001年以降、薬事・食品衛生審議会)
そしてそれに付随して、包括建議という制度が設けられていました。
包括建議とは、多数の案件を円滑に処理するためとして、薬事審議会(薬審)に諮ることなく、〈事務局限り〉(厚生省薬務局製薬課)で処理を行っていた制度のことです。対象となったのは、ゾロ品(後発のまね薬)などであり、包括建議・第1~7項に該当するとされた場合には、書類審査だけで承認を受けることができました。
それに対してイソミンは、あくまでも新医薬品であり、ゾロ品(後発のまね薬)ではありませんでした。
したがって、通常であれば薬事審議会の対象品目であり、包括建議の対象となることはあり得ません。
ところがこの時、イソミンの製造販売許可申請書には、コンテルガンが既に西ドイツで販売されているかのような資料が添付されていたのです。
そこでイソミンは、日本国内では初めての医薬品(新医薬品)だが、先進国では既に発売されている医薬品として、包括建議・第八項の対象とされました。
こうしてイソミンは、専門家の審議(新医薬品調査会)は必要としたものの、薬事審議会にかけられることなく製造販売許可を得ました。
もちろんその頃、開発国の西ドイツでもコンテルガンはまだ発売準備中でした。
当然ながら、世界中のどこにも、サリドマイド製剤を発売している国はありませんでした。
この間、厚生省薬務局製薬課において、どのようなやり取りがあったのかは不明です。
製薬課長や薬務局長(厚生省)の天下り
厚生省薬務局製薬課において、薬に関する許認可を与える側とそれを求める側は、日常的に密接に結びついていました。
そして、製薬業界への天下りが継続的に行われていました。
イソミン発売当時の製薬課長(厚生省、当時)は、後に山之内製薬(株)に入社して開発部長になりました。
それに続いた二人の製薬課長は、退任後、それぞれ中外製薬(株)と藤沢薬品工業(株)に入社しました。
そして、同じく開発関連の部署につきました。
なお、それ以前の製薬課長(複数)も、ほぼ同規模の製薬企業に再就職していました。
薬務局長(厚生省)も天下りをしています。
サリドマイド訴訟における和解確認書の覚書の署名者の中に、厚生省薬務局長の名前があります。
署名にあたって彼は、二度と薬害は起こしませんと誓ったはずでした。
しかし、(株)ミドリ十字に天下り、後に社長となった彼は、薬害エイズ事件の当事者として被告席に座ることになりました。
⇒ 日本のサリドマイド製剤(イソミンとプロバンM、そしてゾロ品)
レンツ警告(サリドマイドに催奇形性の疑いあり)
レンツ博士:グリュネンタール社に電話をする(1961/11/15)
レンツ警告は、1961年11月15日(昭和36)、レンツ博士(西ドイツ、ハンブルグ大学小児科講師)によって発せられました。
レンツ警告(グリュネンタール社への電話):
サリドマイド(商品名:コンテルガン)が、1960年代初頭に西ドイツで多発していた新たな奇形の原因である可能性が極めて高く、したがって、直ちに全製品を回収すべきである。(1961/11/15)
注)レンツ博士は、日本のサリドマイド裁判において原告側証人として出廷した。
(1971年11月2日~24日、東京地裁にて出廷回数11回)
レンツ警告とは、地方学会での発言(11月18日)のことではない
私は、レンツ警告=1961年11月15日(グリュネンタール社への電話)と考えています。
これに対して、レンツ警告=11月18日(小児科学会地方会での発言)とする資料が数多くあります。
更田義彦(弁護士)の考え方
例えば、日本のサリドマイド裁判で弁護団に加わった更田義彦(弁護士)は、次のように述べています。
明らかに、レンツ警告=11月18日説です。
1961年11月、ドイツのW.レンツが、地方小児科学会で、最近の新生児に見られる四肢の欠陥について「ある特別の薬(サリドマイド)がこの原因になっているのではないか」と発言して、警告を発した。
この警告は、海外では大きな反響を呼び起こし、速やかに販売の停止、回収等の措置が講じられた。NPO法人 エイチ・エー・ビー研究機構
トップページ>HAB人試料委員会>創薬研究の基礎知識
サリドマイド事件の教訓 更田義彦(弁護士)
https://www.hab.or.jp/committee/pdf_hito03/5-2_fuketa.pdf
(2020/05/22閲覧)
佐藤嗣道(公益財団法人いしずえ)の考え方
佐藤嗣道(公益財団法人いしずえ)も、レンツ警告=小児科学会地方会での発言(11月18日)としています。
第16回薬害根絶デー(2015年8月24日)下記スライド有り
佐藤嗣道「サリドマイド事件の概要と被害者の今」(2020/09/10再確認)
https://www.gaiki.net/yakugai/ykd/lib/thalidomide_sato.pdf
ただし、「いしずえ」公式Webの年表「サリドマイド事件およびサリドマイド復活問題関係年表」には、11月18日付けの記載事項は何もありません。
それに対して、11月15日付けで、レンツ博士が直接グリュネンタール社に連絡したことが記載されています。(2020/09/10再確認)
レンツ博士の思い
いずれにしても、レンツ博士はこの学会場(11月18日)ではコンテルガンの名前を出しませんでした。
その理由について、レンツは日本のサリドマイド裁判で次のように証言しています。
以前に会社に対して警告をいたしましたので、彼らが市場からその薬品を回収できる時間を与えるべきではないかといった気持でこのことを公開しなかったのだと思います。(藤木&木田1974,レンツ証言p.101)
上記証言の中の「以前に会社に対して警告をいたしました」とは、1961年11月15日、レンツ博士がグリュネンタール社に電話したことを指しています。
つまり、レンツ博士が、グリュネンタール社に直接電話(11月15日)をして詳細を伝えたのは、レンツ博士が小児科学会地方会で発言(11月18日)するよりも前のことです。
グリュネンタール社は、レンツ博士からの電話(11月15日)に対応した
コンテルガンの製造開発責任者であるミュクター博士自らが対応した
レンツ博士の電話(11月15日)に対応したのは、コンテルガンの製造開発責任者であるミュクター博士でした。
ミュクターは、レンツの警告内容に納得はしませんでした。
しかしながら、グリュネンタール社から後日レンツを訪問することを約束しました。
つまりミュクターは、レンツの電話に対してただ単に応対したのではなく、きちんと対応したのです。
それに対してレンツは、翌日(11月16日)、電話の内容をまとめた手紙をグリュネンタール社宛てに送付しました。
もちろんそれは、電話の内容を「確固としたものにするため」でした。
そして、その数日後(11月20日)、グリュネンタール社の関係者がレンツを訪問しました。
このように、グリュネンタール社は、レンツ博士からの電話(11月15日)を受けて、サリドマイド製剤の催奇形性について対応を開始しました。
それは、レンツが小児科学会地方会で発言(11月18日)するよりも前のことです(既述)。
レンツが同学会で発言した時には、既に事態は動き始めていたのです。
レンツ警告とは、11月15日の電話を指すと考えるのが妥当です。
なお、「レンツ博士・コンテルガンについて学会発表(11月18日)」などとする資料もありますが、この学会上では、コンテルガンの名前は出されていません(既述)。
グリュネンタール社は、1961年11月中には全ての作業を完了した
グリュネンタール社は、同年11月25~27日(資料によって異同有り)のいずれかで、何はともあれコンテルガンの販売中止及び回収を決定しました。
そして、そのことを直ちに実行しました。
遅くとも、同月(11月)中には全ての作業を完了したものと思われます。
西欧先進国においても、同年12月末までには製品の回収を終了しました。
これに対して日本では、レンツ警告から約半年後の翌年1962年5月、やっと「自主的に出荷中止」になりました。
ただし、薬局での在庫品販売は継続されました。
完全な「販売中止及び回収決定」が行われたのは、レンツ警告の約10か月後(1962年9月)のことでした。
⇒ レンツ警告1/3(サリドマイドが奇形の原因である可能性が極めて高いと警告/1961年11月)
レンツ警告(疫学の考え方を理解する)
疫学の考え方、四分表(2×2表)を理解する
統計学の理解が欠かせない
サリドマイドと奇形との間に、因果関係が有るのか無いのかをはっきりさせるためには、疫学の考え方が欠かせません。
疫学とは、『広辞苑2008(第六版)』によれば、「疾病・事故・健康状態について、地域・職域などの多数集団を対象とし、その原因や発生条件を統計的に明らかにする学問」としています。
サリドマイド事件の場合には、症例対照研究(後向き研究:retrospective study)として行うことになります。
つまり、「ある疾病にかかった群(症例群)とかかっていない群(対照群)を設定し、両群における過去の生活習慣の状況を比較する方法」です。
具体的には、調査結果を四分表(2×2表)にまとめて統計学的な分析をします。
なお、「四分表からカイ二乗の値を求め、この値が3.84以上であれば有意とするのが普通」とされています。(増山編1971,増山p.23)
そしてその上で、必要に応じた素早い対応を取ることが求められます。
レンツの偉大さは、サリドマイド児を自ら一例ずつ調査して回り、「奇形の原因としてコンテルガンが極めて疑わしい」ということを、短期間のうちに探り当てたことにあります。
そしてそれに基づき、「コンテルガンを直ちに回収すべきである」という見解を示した点にあります。
レンツは、専門知識・臨床経験をフルに発揮して、疫学調査を忠実に実行したのです。
レンツ警告の意義は、「疫学調査とその統計学的な処理及び具体的な対策」を示したことにあります。
⇒ レンツ警告2/3(疫学の考え方、四分表(2✕2表)を理解する)
レンツ警告(メカニズムの解明よりも素早い回収を)
疑わしきは何はともあれ回収すべきである
疫学とは、メカニズムの解明よりも何よりも先に、「目の前にある問題を解決するために、今すぐやるべきことは何か」を解明する学問です。
つまり、疫学調査では、メカニズムの解明までは求められていません。
それにもかかわらず、レンツ警告(疫学調査に基づく警告)に対して、「ただしこの報告は疫学的因果関係のみでメカニズムは未解明」(下記Wikipedia)と評価するのは意味の無いことです。
Wikipedia「サリドマイド」の「薬害サリドマイド禍」の項:
疫学調査(レンツ警告・1961年11月。ただしこの報告は疫学的因果関係のみでメカニズムは未解明)から先天異常「サリドマイド胎芽症」や胎児死亡といった催奇性と因果関係があるとされ、日本では1962年9月に販売停止と回収が行われた。(2018/06/17閲覧)
レンツ警告では、「コンテルガンが奇形の原因である」と断定したわけではありません。
この時点で、母親がコンテルガンを服用したことが確実な症例は、ごくわずかしか集まってはいませんでした。
もちろん、サリドマイド胎芽症そのものについては、ほとんど何も分かっていませんでした。
それでもなお、この時点で「メカニズムは未解明」であることには全く何の問題もありません。
コレラの流行に学ぶ
ロンドン(英国)のソーホー地区で、1854年8月末にコレラが発生し、約半月後には同地区の死亡率は12.8%に達しました。(注:嘉永7年、ペリー黒船艦隊来航の翌年)
この大疫病をわずか1か月あまりで終息させたのが、疫学の祖と呼ばれる医師のジョン・スノーです。
スノーは、地区の事情に詳しい副牧師ヘンリー・ホワイトヘッドの協力を得て、1軒1軒個別訪問を重ねて原因を追究しました。
そして、ブロード・ストリートにある「ポンプ井戸の水」が怪しいと見当を付けました。
スノーは、直ちに行政当局にポンプの柄を撤去させました。
そしてその結果、9月末までには流行は終息しました。
この時に問題となったのは、「ポンプ井戸の水」です。
コレラの大流行という目の前の問題を解決するために必要だったのは、「汚染された水が原因である」ことを速やかに探り当てることでした。
そして、その原因を取り除く(汚染水を供給できなくする)ことでした。
その時に、コレラのメカニズム、つまり「コレラの真の原因はコレラ菌という病原体にある」ということまで解明されていたわけではありません。
コレラ菌そのものは、この大疫病から30年後の1884年、ドイツの細菌学者ロベルト・コッホによって発見されました。
大日本製薬と厚生省(致命的な販売中止決定の遅れ)
大日本製薬・厚生省、販売続行を決定
レンツ警告(1961年11月15日)は、翌月12月に入ってから日本にも届けられました。
既に西ドイツでは販売中止(及び回収決定)になったことも同時に伝えられました。
大日本製薬(株)は、1961年12月6日(昭和36)、厚生省と協議したものの「有用な薬品を回収すれば社会不安を起こす」として、販売を続行しました。
なお、英国の医学雑誌「The Lancet(ランセット)」が、ロンドンから日本に届くまで1~2か月(船便)もかかった時代のことです。
国際電話回線も非常に限られた本数しかありませんでした。
大日本製薬(株)の学術課長、西ドイツ訪問(1962年1月)
年明け早々(1962年1月)、大日本製薬(株)から西ドイツに学術課長が派遣されました。
ところが同課長は、現地でグリュネンタール社の関係者に面会したのみでした。
レンツ博士やそのほかの学者、あるいは西ドイツの州政府を訪問することはありませんでした。
それにもかかわらず、帰国してから「レンツ博士の発表には科学的根拠が無い」と報告しました。
厚生省の製薬課長、西ドイツのレンツ博士と面会(1963年5月)
さらにその翌年、1963年5月(昭和38)になってから、厚生省の製薬課長が西ドイツを訪問しました。
製薬課長は、レンツ博士に面会をしました。
しかし、面会時間は通訳を交えてわずか30分程度のものでした。
そして、この製薬課長(厚生省)の訪問は、日本からレンツ博士にコンタクトを取った唯一のケースになりました。
レンツ博士に対して、この訪問以外には、日本から手紙やそのほかの手段での問合せも一切ありませんでした。(藤木&木田1974,レンツ証言pp.112-114)
なお上記のように、厚生省の製薬課長が西ドイツを訪問したのは、1962年9月に日本での販売が中止され、回収作業も一段落したと思われる1963年5月になってからのことです。
ところで、大日本製薬(株)と厚生省の各課長の西ドイツ訪問時期とその内容について、一部資料では混同されています。
自主的に出荷中止/イソミンとプロバンM(朝日夕刊1962/05/17付け)
わが国のサリドマイド事件の第一報
大日本製薬(株)が、サリドマイド製剤の出荷を中止したのは、1962年5月のことです。
そして、それをスクープしたのが、朝日新聞夕刊記事「自主的に出荷中止/イソミンとプロバンM」(1962年5月17日付け)です。
この朝日新聞スクープが、わが国でのサリドマイド事件の第一報とされています。
つまり、レンツ警告(1961年11月)から約半年間、日本国内での報道は一切ありませんでした。
そして、このスクープ記事の日付は、その約3年後に被害者家族が「とりあえず時効の中断」を求めるための根拠とされました。
損害賠償請求訴訟(1965年11月)を東京地裁に起こす少し前(同年5月ごろ)のことです。
つまり、被害者家族・弁護団共に、1965年5月ごろの段階で、「(サリドマイドが奇形の原因であると)知ってから三年」の時効が目前に迫っていると認識していたのです。(いしずえ1984,西田p.17)
一方で、「(レンツ警告後)日本でもサリドマイド胎芽病に関するニュースは医学誌や新聞などで報道されている」とする記述もあります。(栢森1997,p.42 )
ただし、そこで取り上げられている情報には出典が明記されておらず、確かなことはよく分かりません。
朝日新聞スクープ以前の資料として、存在が確実なのは私の知る限り以下の二つしかありません。
ただし、いずれも日本のイソミンなどについて直接言及したものではなく、しかも一般には目につきにくい記事です。
- 『TIME(タイム)』アジア版,Medicine:Sleeping Pill Nightmare,1962年2月23日号(英語版)
- 『日本医師会雑誌』「海外短信」,「薬に注意」,1962年3月15日号
朝日新聞記事は日本のサリドマイド児の存在を否定した
さて、朝日新聞スクープ(夕刊)の翌日、同じく朝日新聞の朝刊(5月18日付け)には、西ドイツのサリドマイドに関する詳しい記事が掲載されました。
ところが、その記事には「悪影響の実例、日本ではない」とする著名な薬学者の長いコメントが付けられていました。
さらに、その一週間後(5月25日付け)、厚生省から「国内ではまだ患者についての報告が一件もない」とする通達が出されました。
また、宮武徳次郎・大日本製薬(株)社長は、販売店宛ての手紙で「出荷停止はするが、販売は続けるように」と書いていました。(栢森1997,p.43)
こうして、サリドマイド製剤の出荷停止措置は取られたものの、既に出荷された商品は回収されることなく、そのまま薬局で売られ続けました。
上記のような状況に関して、木田盈四郎(帝京大学医学部教授)は、「(大日本製薬(株)は)イソミンとプロバンMを一時的に出荷停止(5月12日)」にしたが、「日本の新聞は記事にしなかった」と断言しています。(木田1982,p.142)
彼は、日本のサリドマイド裁判では原告側証人として出廷した経験を持ち、後にサリドマイド福祉センター「いしずえ」の顧問まで務めました。
日付の間違いはともかくとして、見過ごすことのできない事実誤認です。
⇒ 自主的に出荷中止/イソミンとプロバンM(朝日新聞スクープ)
日本にも睡眠薬の脅威(読売朝刊1962/08/26付け)
わが国のサリドマイド事件の実態を初めて明らかにした
日本国内で、サリドマイド児の存在を初めて明らかにしたのは、梶井正博士(北海道大学医学部小児科講師)です。
梶井博士は、自験例7例をいきなり英国の医学雑誌「The Lancet(ランセット)」(1962年7月21日発行)に投稿しました。
梶井は、その理由について次のように証言しています。(藤木&木田1974,梶井証言pp.129-131)
「この雑誌が一番早くこういう報告が載るから、世界的に信用があるからと思って書いた」。
梶井の狙いどおり、レンツをはじめとするサリドマイドに関心を持つ国外の学者たちから、一斉に問合せの手紙がきました。
ところで梶井は、The Lancet(ランセット)投稿後、大日本製薬(株)札幌支店と北海道庁を訪問していました。
ところが、日本国内では、この直接訪問や論文投稿に対する反応は、ほとんど何もありませんでした。
梶井は、The Lancet(ランセット)投稿後、同じ内容を北海道の小児科学会地方会で発表(8月26日)しました。
それをスクープしたのが、読売新聞記事「日本にも睡眠薬の脅威」(1962年8月28日付け)です。
つまり、新聞記事が掲載されたのは、小児科学会地方会の翌々日のことです。
日本国内のサリドマイド問題は、結局はこの読売新聞スクープによって、一気にクローズアップされることになりました。
そしてその2週間後(9月13日)、大日本製薬(株)はイソミンとプロバンMの販売中止(及び回収)に踏み切りました。
レンツ警告(1961年11月)から遅れること約10か月後のことです。
レンツ警告後、日本国内での販売中止とそれに続く回収作業が大幅に遅れた間にも、多くの患者が発生しました。
レンツ警告後のサリドマイド児数は、日本が世界で一番多くなっています。
国・製薬企業共に、レンツ警告の意義「疫学調査とその統計学的な処理及び具体的な対策」を理解していなかったと言えるでしょう。
注)梶井博士のランセット掲載(1962年7月)に続く地方会での発表(8月26日)、そして読売新聞スクープ記事(8月28日)あるいは販売中止(9月13日)の日付を時系列で正確に伝えている資料は極めて少ない。
日本のサリドマイド児に関するデータ分析
築地産院におけるサリドマイド児3例
レンツ警告以前、既に症例を把握していた
日本国内でも、サリドマイドの催奇形性について把握していたと思われるケースがあります。
東京都立築地産院(東京都中央区)において、サリドマイド児3例(いずれも死産)を経験していたのです。
しかもそれは、レンツ警告(1961年11月)以前のことです。
その事実は、メーカーにも報告されたということですが、その情報が厚生省まで届いていたのかどうか定かではありません。
レンツ警告(1961年11月)の約半年後、朝日新聞スクープ「自主的に出荷中止」(1962/05/17付け夕刊)に際して出された厚生省通達には、「国内ではまだ患者についての報告が一件もない」と書かれていました。(既述)。
ところで、日本でサリドマイド製剤の販売が中止され回収が始まったのは、1962年9月のことです。
これに対して、サリドマイド胎芽症3例を含む築地産院の論文は、1963年になってから掲載されました。
つまり、築地産院のデータが、サリドマイド製剤の販売中止(及び回収)の引き金になることはありませんでした。
なお、築地産院の医師は、日本のサリドマイド裁判における証言を拒否しました。
その理由は、以下のとおりです。
「学会での発表はあくまでも仮説である。それをいちいち裁判でとり上げられると、研究発表に臆病になってなにもいえなくなるし、新薬の使用もできない。そうなれば医学も発展しない。国民の健康を守る医学、医療の発展のため証言は拒否する」。(高野1981,p.130)
サリドマイドによる被害調査(厚生省、森山豊東大教授に依頼)
日本先天異常学会のアンケート調査(936症例)
厚生省が初めてサリドマイドによる被害調査を開始したのは、イソミン/プロバンMの販売中止(そして回収)が決定した翌日(1962年9月14日)のことです。
そして、その2年後の1964年7月、森山豊東大教授による「日本先天異常学会のアンケート調査(936症例)」が同学会において発表され、新聞紙上でも大きく取り上げられました。
このアンケート調査(森山報告)では、耳や指の奇形、そしてプロバンMは調査対象外でした。
また、アンケート調査(対象は全国の産婦人科医と助産婦)の精度について懸念の声が挙がったものの、個別の患者ごとの詳しい聞き取り調査は結局行われませんでした。
森山報告では、「耳の障害」を主とする患者データ(全体の約20~25%と考えられる)が、すっぽり抜け落ちている可能性の高いことが分かります。
さらに、調査対象はイソミンのみであり、プロバンMは対象外でした。
また、「指の障害」は頻度不明です。
⇒ サリドマイドによる被害調査(厚生省、森山豊東大教授に依頼)
レンツ警告以降もイソミンの販売量が減少することはなかった
佐藤嗣道の主張は受け入れられない
佐藤嗣道(公益財団法人いしずえ理事長、医学博士)は、自身もサリドマイド被害者です。
その彼は、第1回医薬ビジランスセミナー(1997年9月)で、次のように述べています。
「レンツ警告を境に睡眠薬の広告をやめ胃腸薬プロバンMを大々的に売りまくったということで、一種の在庫整理と言われてもしかたがないやり方です」。(ビジランス1999,佐藤p.43)
彼のこの主張は、私には次のように読み取れます。
レンツ警告(1961年11月)後、「大日本製薬(株)は、残ったイソミン(サリドマイド)を「在庫整理」のためプロバンM(胃腸薬とサリドマイドの合剤)の中に入れた」。
その根拠として挙げられているのが、「中森黎悟による新聞広告量の調査」です。(平沢1965,pp.202-205)
つまり、”レンツ警告後、大日本製薬(株)はイソミンの広告をぴたりと止めた”、そしてその替わりに、”プロバンMの広告量を爆発的に増やした”というのです。
ただし、ちょうどその頃、日本国内で睡眠薬に対する規制強化が始まっていたのもまた事実です。
「(イソミンの)広告の中止はその規制に従ったまで」というのが、大日本製薬(株)の言い分です。
どちらの主張が正しいにせよ、レンツ警告直後にイソミンの販売量が減少した(あるいはゼロになった)という事実は確認できません。(次項参照)
元々、イソミンとプロバンMの新聞広告量の経時変化のみから、両者の販売量の大小を推し量ることは不可能であったと言わざるを得ません。相関関係がありそうに見えるだけで、因果関係有りとするのは科学ではありません。
大日本製薬(株)が公表したイソミン販売量について
吉村功(名古屋大学助教授)の論文の中に、「大日本製薬が公表したイソミン販売量と奇形児出生数」(プロバンMを除く)の表があります。(増山編1971,吉村p.243)
この表から、私なりに「イソミン販売量(地域別)」を集計して、全国計(年度ごと)を算出してみました。
ちなみに、この販売量に関して、吉村は「大日本からの出荷量である可能性が大きい」としています。
つまり、メーカー(大日本製薬)から卸(問屋)への出荷量という意味です。
- 1958年(4,069,824錠)、対前年増加率(-)、1月20日新発売
- 1959年(5,589,132錠)、対前年増加率(137.3%)
- 1960年(12,845,942錠)、対前年増加率(229.8%)
- 1961年(30,003,608錠)、対前年増加率(233.6%)
- 1962年(14,871,632錠)、対前年増加率(49.6%)、5月17日出荷中止
(対前年増加率は私の計算によるものです)
なお、1962年分は、出荷中止(5月17日)まで約半年分の販売量として判断しました。
つまり、同年の出荷期間が約半年であるのに対して、出荷量は対前年のほぼ半分となっています。
結論として、この資料で見る限り、レンツ警告(1961年11月)の翌年(1962年)もイソミンの販売量は減少しなかったことが分かります。
そのほかに、レンツ警告(1961年11月)後、大日本製薬(株)が「イソミンに換えてプロバンMを売りまくった」とする確かな証拠を私は知りません。
佐藤嗣道の主張には何ら根拠が無いと私は考えます。
注)大日本製薬(株)の公表データ中の「奇形児出生数」は、森山豊(東大分院教授)による「日本先天異常学会のアンケート調査(936症例)」を基にしていると推測される。
⇒ 大日本製薬(株)が公表したイソミン販売量と奇形児出生数
⇒ レンツ警告以降もイソミンの販売量が減少することはなかった
⇒ サリドマイド販売量をサリドマイドの新聞広告スペース量で推測することはできない
レンツ警告後に日本の被害児数はピークに達した
回収の遅れによって、被害児の数はどこまで拡大したか
胎児(胎芽)がサリドマイドの影響を受けてから生まれるまで、最大で約8か月と考えることができます。
そこでもし仮に、サリドマイドの全面回収が、レンツ警告(1961年11月)が出された年の間に完了したとするならば、1962年9月以降、サリドマイド胎芽症が発症することはなかったと考えられます。
ところが、梶井正博士(北海道大学医学部講師)のデータ(下記)によれば、日本のサリドマイド児の約43.9%が、1962年9月以降の生まれとなっています。
一方、栢森良二(帝京大学医学部)は、「1962年9月以降に生まれたサリドマイド児が100名ほど」いるとしています。(栢森1997,p.42)
この100名という数値の根拠は不明ですが、もしも「日本の認定患者309名中の100名」という意味だとするならば、その比率は100/309=約32.4%ということになります。
しかしながら、こうしたいわゆる〈回避できたはずの患者数〉について、安易に「倍増した」というあいまいな言葉を使っている資料が少なくありません。(片平1997,p.30など)
なお、日本の認定患者309名のデータは「いしずえ」にあるわけですから、「いしずえ」がきちんとしたデータを示しさえすれば、この〈回避できたはずの患者数〉はすぐに分かるはずです。
注)梶井正(当時、ジュネーブ大学助教授)は、日本のサリドマイド裁判で原告側証人として出廷した。(1971年10月4~8日、東京地裁)。
その時の尋問で取り上げられた資料の一つが、下記の梶井データである。(藤木&木田1974,梶井証言p.166)
梶井正博士のデータ(日本のサリドマイド裁判資料より)
梶井データは、北海道を中心としたサリドマイド児(死産を含む180症例)について、〈4か月単位で集計〉をしています。
- 「1959年9~12月」生まれ、2例
- 「1960年」生まれ、7例(1年分まとめて表示)
- 「1961年1~4月」生まれ、3例
- 「1961年5~8月」生まれ、8例
- 「1961年9~12月」生まれ、6例 ←(1961年1~4月に服薬)
- 「1962年1~4月」生まれ、35例 ←(1961年5~8月に服薬)
- 「1962年5~8月」生まれ、40例 ←(1961年9~12月に服薬)
- 「1962年9~12月」生まれ、54例 ←(1962年1~4月に服薬)
- 「1963年1~4月」生まれ、18例 ←(1962年5~8月に服薬)
- 「1963年5~8月」生まれ、5例 ←(1962年9~12月に服薬)
- これ以降、2例(まとめて表示)
(合計180症例、Web作者にて適宜改変して表示)
日本では、レンツ警告(1961年11月)後の1962年に、出荷中止(同年5月)と販売中止(同年9月)が行われました。
1962年の一年間については、下記のような4か月ごとの区切りで、〈ほぼ〉節目ごとの被害児数の変化を細かく見ることができるようになっています。
- 従来どおりの販売を継続した4か月(1962年1~4月に服薬)→「1962年9~12月」生まれ
- 在庫販売に移った4か月(1962年5~8月に服薬)→「1963年1~4月」生まれ
- 完全に販売を中止して回収に入った4か月(1962年9~12月に服薬)→「1963年5~8月」生まれ
それぞれの4か月を詳しく見てみると、以下のようになります。
1.日本では「1962年9~12月」生まれが一番多い
欧州諸国の多くでは、レンツ警告の年(1961年12月末)にサリドマイド製剤の回収は終了したものと思われます。
それに対して日本では、レンツ警告の約10か月後(1962年9月)、販売を完全に中止して回収作業が始まりました。
そうした中で、梶井データ(4か月単位で集計)によると、レンツ警告(1961年11月)の翌年の「1962年9~12月」に、被害児数はピークに達しています。
つまり、その8か月前の「1962年1~4月」に、最も多くの妊婦がサリドマイド製剤を服用したことを示唆しています。
「1962年1~4月」というのは、レンツ警告(1961年11月)の翌年に当たります。
そして、日本では同年5月(1962年)までは、サリドマイド製剤の販売はそのまま継続されました。
2.「1963年1~4月」生まれは、1/3まで激減した
日本のサリドマイド製剤は、1962年5月にとりあえず「出荷中止」になったものの、店頭での販売は継続されました。
つまり、在庫品の店頭販売は、1962年5月(出荷中止)から同年9月(販売中止)まで継続されました。
上記の梶井データ(4か月単位で集計)によれば、「1962年5~8月」は、在庫品の店頭販売が継続されていた時期に当たります。
そして、その時のサリドマイド販売量が、8か月後の「1963年1~4月」生まれの被害児数に反映されることになります。
そこで、改めて梶井データを確認すると、「1963年1~4月」生まれの被害児数は、その前の「1962年9~12月」生まれのちょうど1/3まで激減しています。
繰り返しになりますが、1962年5月の措置(自主的に出荷中止)は不完全なものであり、同年9月まで在庫品の店頭販売は継続されました。
しかしながら、この不完全な「出荷中止」措置でさえも、被害児数をそれまでの1/3にまで急激に減らす効果はあったということができます。
3.「1963年5~8月」以降の生まれは、さらに減少した
日本でサリドマイド製剤の回収が始まった「1962年9~12月」に、サリドマイドを服用した母親から生まれた被害児は、「1963年5~8月」生まれと考えられます。
その数は、「1963年1~4月」生まれの3割未満であり、ピーク時「1962年9~12月」の1/10以下まで減少しています。
そしてその後、ごく少数の発症例が続いています。
なお、これらの発症例が、新たに薬局で購入した未回収の商品によるものか、あるいは家庭内で手持ちしていた残薬によるものかは不明です。
最後に、この梶井データを見る限り、店頭販売中止後の回収の遅れによる影響は、実際にはあまり大きくはなかったのかもしれません。
⇒ 日本におけるサリドマイド被害児数(梶井データ/いしずえデータ)
日本におけるサリドマイド被害者の出生年と男女別
日本の認定患者309名の内訳(いしずえデータ)
「いしずえ」公式Webでは、認定患者309名の内訳について次のように公表しています。(2013/01/24閲覧)
- 1959年生(男6、女6)12、対前年増加率(-)
- 1960年生(男16、女9)25、対前年増加率(208.3%)
- 1961年生(男34、女24)58、対前年増加率(232.0%)
- 1962年生(男88、女74)162、対前年増加率(279.3%)
- 1963年生(男24、女23)47、対前年増加率(29.0%)
- 1964年生(男2、女2)4、対前年増加率(-)
- 1969年生(男1、女0)1、対前年増加率(-)
合計309(男171、女138)、対前年増加率は私の計算によるものです。
イソミン販売量は、1960年、1961年の両年共に〈約2.3倍〉程度の対前年増加率を示しています(既述)。
これに対して、サリドマイド被害児の対前年増加率は、1961年〈約2.3倍〉、1962年〈約2.8倍〉となっています。
1962年の超過分〈約0.5倍〉、すなわち50%の増加分こそ、プロバンMが爆発的に売れた結果によるものかもしれません。
この件は、「いしずえ」がイソミン/プロバンM別の被害者数をきちんと公開しさえすれば、直ちに解決する問題です。
残薬整理の重要性
最後に、1969年生まれの被害児1例は、「母親が妊娠中に不眠のため、娘時代に購入し保存してあったイソミンを服用」したもので、「(その後)保存してあった空き箱を提出した。現地調査を行ない、その背景が認められた」ものです。(木田1982,p.162)
残薬処理を徹底することの重要性を示した一例と言えるでしょう。
西ドイツでは、コンテルガンの販売中止(回収決定)直後、内務省がラジオなどを通じて、「コンテルガンを服用しないように、家庭内のコンテルガンを全て一箱残らず破棄するように」国民に呼び掛けました。
こうした西ドイツ当局の動きについて、当時の製薬課長(厚生省)は、「聞いておりません」と証言しています。(藤木&木田1974,平瀬証言p.260)
⇒ 日本におけるサリドマイド被害児数(梶井データ/いしずえデータ)
ケルシー博士(米国FDA)の活躍
新人審査官としてのケルシー博士
サリドマイドは、米国ではついに発売されることはありませんでした。
FDA(米国食品医薬品局)の新人審査官であったフランシス・ケルシー博士が、米国メレル社の発売申請(1960年9月8日付け)に待ったを掛け続けたためです。
その間当然ながら、発売を急ぐメレル社とケルシーとの間で激しいやり取りが交わされました。(米国での販売予定名:ケバドン)
その内幕は、レンツ警告の翌年に「ワシントン・ポスト」紙(1962年7月15日付け)の記事で初めて明らかにされました。
そして、時の米国大統領ジョン・F・ケネディは、ケルシー博士を米国の救世主としてたたえ、大統領勲章を贈りました(同年8月4日)。
薬理学者としてのケルシー博士
ケルシーは薬理学者でした。
「十二年間在籍したシカゴ大で、抗マラリア薬の研究を続け、安全を証明するため、動物実験をいやというほど繰り返した」経験などを持っていました。
薬理学者としての彼女の目には、ケバドンの申請資料は「安全性を示す動物実験が不十分」に見えました。
そこで、「追加データを求め、承認を保留」し続けたのです。(「」内引用、朝日新聞記事:1994年11月1日付け)
つまり、ケルシーは初めから催奇形性に注目していたわけではなさそうです。
ケルシーが当初指摘したのは、安全性を示す動物実験が不十分だったことにあります。
そしてその後、フローレンスの多発神経炎の記事(英国医師会雑誌:British Medical Journal)を読んで、催奇形性に注目したというのが真相のようです。
なお、上記の朝日新聞記事は、FDA本部のケルシーの部屋で直接インタビューしたものです。
彼女は当時80歳で、しかもFDAの現役部長でした。
(2005年に90歳でFDA退職、2015年8月死去・享年101歳)
キーフォーヴァー・ハリス医薬品改正法の成立とケルシー博士
サリドマイド事件をきっかけに、米国ではキーフォーヴァー・ハリス医薬品改正法(1962年)が成立しました。
ケルシー博士の活躍はそのことに大きく貢献しました。
同法によって、米国における「新薬の有効性と安全性の検証プロセス」が標準化され、「FDAの監督権限」が強化されました。
山口祐司(大阪市立大学)は、このことが米国の現在における「製薬産業の競争力の根拠となっている」としています。(山口2013,p.111)
⇒ ケルシー博士(米国FDA)、米国内でのサリドマイド発売を阻止する
サリドマイド胎芽症と催奇形性
主に四肢の欠損と耳の障害に大別される
サリドマイド胎芽症とは、サリドマイドを妊娠初期の母親が服用することによって、胎児(正確には胎芽)に生じる障害(奇形)のことを言います。
サリドマイド胎芽症の特徴としては、一般的には、四肢、特に上肢の低形成であるフォコメリアphocomelia(海豹肢症―あざらし肢症)がよく知られています。
その一方で、難聴や外耳奇形を含む聴覚器に強い障害が出る場合があります。
さらに、障害は内臓まで及ぶことも見逃せません。
上肢低形成群と聴器低形成群の2つのグループに分かれる
『サリドマイド胎芽症 診療ガイド2017』p.13では、サリドマイド胎芽症の身体的特徴として、「上肢低形成群と聴器低形成群の2つのグループに分かれている」としています。
- 上肢低形成群:230人(75%)
- 聴器低形成群:59人(19%)
- 混合群:20人(6%)
そしてまた、「上肢低形成群が75%、聴器低形成群が25%ほどとみることができる」とも書いています。
少数の混合群(6%)では、耳の方が腕よりも障害の程度が大きいという意味のようです。
ちなみに、「一般に耳の奇形は受胎してから早い時期に薬を投与されたときに起こり、腕の奇形は少し遅れて、脚の奇形はさらに遅い時期に起こる」ことが知られています。(増山編1971,木田p.137)
日本では、死亡率が高く重症例が少ない
日本のサリドマイド事件の特徴の一つとして、死亡率が高い(生存率が低い)ことや重症度が低い(下肢の障害が少ない)ことが挙げられます。
その理由として、無事に生まれたサリドマイド児を死産扱いとしたケースのあることが示唆されています。
森山報告(日本先天異常学会のアンケート調査:936症例)では、日本における各年度ごとの生存率は20%程度となっています。
この数値は、レンツ文献(死亡率40%、つまり生存率60%)と比べて異常に低くなっています。
下肢の障害については、『サリドマイド胎芽病診療 Q&A』(2014年)のデータがあります。
それによると、上肢低形成型のうち下肢低形成合併例が3名あり、「うち1名が重度低形成で移動には車椅子が必要」としています。
つまり、下肢に障害があるのは309例中3例のみと読み取れます。
なお、『サリドマイド胎芽症 診療ガイド2017』p.33では、「日本における下肢低形成者はわずか2/309例(1%以下)である」としています。
下肢低形成者が3例から2例に減った理由については、私にはよく分かりません。
⇒ 日本のサリドマイド事件の特徴(回避できたはずの症例、生まれたはずの症例)
ところで、サリドマイド認定患者(生存者309人)の調査は、今でも継続的に行われています。
その過程で、上肢低形成群、聴器低形成群あるいは混合群の該当患者数などに、多少の変動が生じています。
診断基準の変更などがその主な原因と思われます。
しかしながら、「いしずえ」公式Webでは、2014/05/17閲覧時と同様の古いデータを掲載したままとなっています。(2020/09/10再確認)
危険期は、妊婦の最終月経から34~50日の間である
妊娠したかどうか分からない時期が危ない
ノバックとレンツによれば、「妊婦のサリドマイド服用による障害は、最終月経初日から数えて34~50日の間に生じることが分かった」としています。(増山編1971,木田p.138)
高橋晄正(東京大学医学部講師)による東京都立築地産院(3例)の分析結果では、「この資料から危険期を求めるなら最終月経の第1日から数えて36~44日ということになる」としています。(同上,高橋pp.209-232)
「サリドマイド胎芽症 診療ガイド2017」p.32では、「臨界期は最終月経から36~49日(児齢22~35日、週齢4~5週)であり、最も臓器感受性があり奇形が形成される胎芽期である。これ以前には胎内死亡が多く、これ以降は胎児期で機能形態の障害を伴うことが多く胎児症と呼ばれる」としています。
ただし、サリドマイド胎芽症の定義そのものは、「最終月経後の34~50日の間にサリドマイド薬剤を服用した妊婦から生まれた奇形症候群である」(診療ガイド2020,p.23)となっています。(診療ガイド2017,p.12でも、定義自体は同じく34~50日としている)
いずれにしても、サリドマイドによる催奇形性の危険期は、非常に狭い範囲に限定されています。
それは、次の生理予定日から、おおよそ1~3週間の間になります。
サリドマイド製剤の催奇形性の強さ
サリドマイドのヒトに対する感受性は特異的に高い
サリドマイドの感受性は、種差(動物の種類による影響力の差)が非常に大きいことが分かっています。
その中で、ヒトのサリドマイドに対する感受性は極めて高くなっています。
それを裏付けるかのように、レンツ博士は次のように述べています。
「西ドイツでの調査によると、外観に異常がなくても、危険期に服用した母親から生まれた児には、必ず異常が発見できた」。(シェストレーム1973,増山:序に代えてp.8)
さらに、「PMDA サリドマイドの非臨床における概括評価書」には、次のデータが記載されています。
「催奇形に必要なサリドマイドの最低量(mg/kg)」は、イヌ100、マウス31、ラット10、サル10に対して、ウサギ2.5、そしてヒト(0.5-1.0)mg/kgとなっている(要約)。
注)PMDA:独立行政法人 医薬品医療機器総合機構
上記のヒトにおける感受性の最低量(0.5-1.0mg/kg)は、体重50kgの成人に直すと、コンテルガンやイソミンの1錠(サリドマイド25mg含有)あるいは2錠(サリドマイド50mg相当)にちょうど当てはまる量となります。
そして、西ドイツでは、薬局で買い求めたコンテルガン(サリドマイド25mg錠)を1回2錠飲んだだけで発症したケースが紹介されています。(栢森2013,p.17)
イソミンそしてプロバンMの被害者数の割合
平沢正夫(ジャーナリスト)は、京都のある小集団において「(7人中)過半数の4人は、母親がプロバンMをのんだために、奇形児がうまれた」例があることを紹介しています。(平沢1965,p.204)
平沢は、その結果について、「庶民にとっては、胃腸薬のほうが、睡眠薬よりもはるかに親しまれている。のむ機会も多い。それだけに被害も大きいのではないか」との見解を示しています。
しかしながら、私の分析結果では、「のむ機会」が多かったのは、プロバンMではなくてイソミンの方になります。
平沢の見解は、データに基づかないただ単なる憶測に過ぎません。
参考までに、私の分析結果を以下にてお示しいたします。
まず、大前提として、睡眠薬「イソミン錠」と胃腸薬「プロバンM錠」のそれぞれ1錠中に含まれるサリドマイド量を比較すると、イソミン(4)に対してプロバンM(1)になります。
- イソミン錠:サリドマイド25mg含有
- プロバンM錠:臭化プロパンテリン7.5mg+サリドマイド6mg含有
そして、当時の各剤の用法・用量を以下のとおりと仮定します。
(参考:2020年現在の臭化プロパンテリン添付文書など)
- イソミン錠(睡眠薬として)は、1日1回2錠(サリドマイド50mg)服用した(仮定)。
- プロバンM錠(胃腸薬として)は、1日3~4回、1回2錠ずつ(サリドマイド最大で48mg)服用した(仮定)。
以上から、一人1日当たりの服用錠数は、明らかにプロバンMの方が多かったことが分かります。
さらに、最盛期(1962年1月ごろ)、イソミン錠とプロバンM錠の販売錠数はほぼ等しくなっていました。
つまり、後から発売されたプロバンM錠の販売錠数が、イソミン錠に追いつく形になっていました。
いずれにしても、サリドマイド製剤の全販売期間を通して、1日服用錠数の少ないイソミンの方が、プロバンMよりも服用人数(服用機会)は多かったと考えられます。
それに伴って、被害児の比率もプロバンMよりもイソミンの方が多くなっているはずです。
ただし残念ながら、プロバンMの売上高推移及びそれに伴う患者数の推移が公表されていないため、これ以上の比較検討はできません。
⇒ サリドマイド製剤の催奇形性の強さ(コンテルガン、イソミンそしてプロバンM)
サリドマイド仮説の証明
サリドマイド胎芽症の原因はサリドマイドにある
「サリドマイド胎芽症の原因はサリドマイドにある」とするサリドマイド仮説の最も重要な論拠は次の二つです。
そして、それらを裏付ける数多くの資料によって、サリドマイド仮説は証明されたと言えます。
(1)「奇形児と非奇形児の間で統計的にもっとも差のある因子は、妊娠初期におけるサリドマイドの服用である。すなわち、前者の母親には、妊娠初期にサリドマイドをのんだ確証のあるものが多いのに対して、後者の母親にはそれが少ない(レンツ博士)」。(増山編1971,吉村pp.233-234)
⇒ レンツ警告2/3(疫学の考え方、四分表(2✕2表)を理解する)
(2)サリドマイド児の発生数は、サリドマイドの売り上げ増加に伴って上昇した。
そして逆に、売り上げ低下とともに減少した。
全てのサリドマイドが回収されて以降、再び同様の奇形を見ることはなかった。
なお、サリドマイド未発売国における同様の奇形は、治験薬によるものなどが少数例あるのみである。
⇒ サリドマイド使用量の推移とサリドマイド胎芽病の増減には相関関係がある
サリドマイドによる血管新生抑制作用と催奇形性
サリドマイドの催奇形性に関する有力な仮説の一つに、サリドマイドによる血管新生抑制作用があります。
サリドマイドは、血管新生作用を持つTNF-αの免疫系内での合成を選択的に抑制します。
つまり、サリドマイドの持つ血管新生抑制作用の結果、例えば四肢に育つ組織に血管が作られず、手足の正常な形成が阻害されると考えられています。
サリドマイドには「不斉」炭素が一つある
サリドマイドの催奇形性は「左手型」にある
サリドマイドには、「不斉」炭素が一つあります。
したがって、右手型(R体)と左手型(S体)の鏡像異性体が存在します。
そして、睡眠作用は「右手型」、催奇形性は「左手型」にあることが分かっています。
それならば、最初から「不斉合成」を行って、「右手型」だけを取り出しておけば、サリドマイド胎芽症を防ぐことができたのかというと、ことはそう簡単ではありません。
- 催奇形性が、「左」「右」のいずれか一方のみにあるということは、事件後に分かったことである。
- たとえ、事件前にその事実をつかんでいたとしても、両者を完全に分離生産する技術は当時まだ確立されていなかった。
- さらに、サリドマイドの場合、右手型も体内で少しづつ左手型に変化していく。
つまり、時間とともにラセミ化して、右手型と左手型が混じり合った状態となる。
結局のところ、サリドマイドそのものを臨床に用いるとするならば、サレドカプセル(効能・効果:再発又は難治性の多発性骨髄腫など)のようにラセミ体の製剤とした上で、徹底した副作用対策を行う以外にはありません。
なお、サリドマイドを服用した本人に生じる重大な副作用としては、多発神経炎が知られています。
注)2001年度ノーベル化学賞(キラル触媒による不斉反応の研究)は、野依良治教授(名古屋大学)ら3氏に贈られた。野依良治教授は、2003年10月から独立行政法人理化学研究所(理研)の初代理事長となり、2015年3月末で辞任した。その理研から、STAP細胞に関する論文が発表されたのは、2014年1月のことであった。(英国の科学雑誌「Nature(ネイチャー)」2014年1月30日号掲載)
日本のサリドマイド裁判、そして「いしずえ」のことなど
日本のサリドマイド裁判は民事訴訟である
裁判は東京地裁を中心に進められた
日本のサリドマイド裁判は、1963年6月28日(昭和38)、被害者家族が大日本製薬(株)を相手に、損害賠償請求訴訟を名古屋地裁に提訴したことに始まります。
そしてその後、京都(1964年12月)、東京(1965年11月)などが続き全国で8地裁となりました。
(東京、岐阜、名古屋、京都、大阪、岡山、広島、福岡の8地裁)
当初は、各地域ごとの訴訟団の連絡はなかったものの、間もなく各弁護団、原告団の連絡組織が作られ、東京が中心となってリーディングケースとして訴訟を進めることになりました。(1971年11月には、全国サリドマイド訴訟統一原告団(45家族)結成)
東京地裁に提訴以来、約5年をかけた準備手続は1970年11月に終結しました。
その後、証人尋問(原告側・被告側)が、1971年2月から1973年12月まで約3年にわたって行われました。
そして被告側は、1973年12月14日(昭和48)、因果関係と責任を全面的に認め、正式に和解申入れを行いました。
和解交渉の末、一時金、年金(物価スライド制)に加えて、財団法人サリドマイド福祉センター(仮称)の設立が決定しました。(和解確認書調印、1974年10月13日)
それは間もなく、財団法人「いしずえ」として設立が許可(同年12月7日)されることになります。
サリドマイド福祉センター「いしずえ」の取り組み
「いしずえ」の取り組みとして、「サリドマイド被害者の健康管理と福祉の増進、被害者の交流、薬害防止等に関する事業」が挙げられています。
その中で、薬害防止などに関する事業については、サリドマイド復活問題、学校教育への協力、他団体との交流・連携が挙げられています。(いしずえ公式Web、2020年2月以前の確認)
例えば、学校教育への協力ということについては、中学3年生を対象とした厚生労働省医薬食品局『薬害を学ぼう』(2013年)p.3で、サリドマイド被害者の一人である増山ゆかり(いしずえ常務理事)は次のように書いています。
「二度と同じような被害者を出さないために、この薬の危険性をよく知って、慎重に使用してほしい」。
つまり、サリドマイド剤の復活(サレドカプセル、効能・効果:再発又は難治性の多発性骨髄腫)を念頭に置いてのことです。
薬害防止に向けて、被害者からの積極的な発言は重く受け止めるべきと考えます。
中森黎悟さん(サリドマイド児の父親)刑事告発
大日本製薬(株)は不起訴処分になった
ところで、日本でもサリドマイドに関する刑事告発が行われました。
しかし、当該企業は不起訴処分となりました。
中森黎悟さん(サリドマイド児の父親)は、1966年12月7日(昭和41)、大日本製薬(株)を「薬事法違反及び業務上過失致死傷害罪」で京都地検に告発しました。
しかしながら、京都地検は大日本製薬(株)を不起訴処分と決定しました。
それを受けて、中森さんが京都検察審査会に申し立てた結果、京都検察審査会は京都地検の不起訴処分を不当としました。
ところが、1970年8月15日(昭和45)、京都地検は再調査でも不起訴と決定しました。
そして、担当検事はその翌日和歌山地検へ転出しました。
「いしずえ」オフィシャルWebは、直ちに書き直すべきである
2020年12月31日(令和2)、この項に追加修正しました。
サリドマイド被害者のための福祉センターとして「いしずえ」があります。
そのオフィシャルWebを改めて閲覧していて、信じられない文章を発見しました。
トップページ>>サリドマイド事件-事件の概要/被害の実態
http://ishizue-twc.or.jp/thalidomide/damage-01/
「西ドイツでは幼児の睡眠薬「シネマジュース」として販売されたために妊婦の服用が増え、被害の増加につながりました」というのです。(2020/04/29閲覧)
もちろん、「幼児の睡眠薬を妊婦が服用した結果、サリドマイド被害児が増加した」はずはありません。
私の指摘を受けて、この文章は事務局で直ちに書き換えられました。
そのほか、Web上には幾つか疑問点がありメールをしましたが、それらに対する返事は一切ありませんでした。
佐藤嗣道理事長(大学薬学部教員、自身もサリドマイド被害者)が、自らの公式Webの内容を確認(校閲)していないことは明らかです。
そこで、2020年8月、佐藤理事長宛に確認のメールをしました。
しかしながら、「コロナ禍で手が足りず忙しい」という趣旨の事務局発メールを受け取ったのみで、2020年末現在何の進展もありません。
「いしずえ」は、サリドマイドの被害者団体として、国に対して薬害防止のためのさまざまな提言を行ってきました。
私としては、尊敬できる団体と考えていたのですが、残念な結果となりました。
サリドマイドの復権と今後の展望
ステロイドを上回る免疫抑制作用、抗炎症作用が注目されている
1964年(昭和39)、全くの偶然からエルサレム・ハンセン病病院(ヤコブ・シェスキン院長)で、サリドマイドがハンセン病患者に多発する難治性の皮膚炎(結節性紅斑)に劇的に効くことが確かめられました。
その後の研究によって、サリドマイドはステロイドを上回る効能・効果(免疫抑制作用、抗炎症作用)を有する薬剤として臨床応用が進んでいます。
そしてついに日本でも、2009年2月(平成21)、サリドマイド製剤の販売が再開されました。
効能・効果は、再発又は難治性の多発性骨髄腫です。
さらにその後、らい性結節性紅斑に対する「効能・効果」及び「用法・用量」が追加承認されました。
(藤本製薬(株)のサレドカプセル)
基礎研究(催奇形性の解明など)が日本国内で進んでいる
東京工業大学は、2010年3月8日(平成22)、「サリドマイド催奇性における主要な原因標的タンパク質を同定」したことを公表しました。
これによって、催奇性を軽減させたより優れた新薬開発への道が開かれたことになります。
さらに大阪大学は、2016年9月8日(平成28)、「レナリドミド(サリドマイド誘導体)による抗炎症作用のメカニズムを解明することに成功」したと発表しました。
今後、炎症性自己免疫疾患(関節リウマチなど)にいかに応用していくか注目されます。
国立大学法人名古屋工業大学は、2018年2月20日(平成30)、「サリドマイドの催奇形性問題を分子レベルで解明-40年間の謎に終止符-」することに成功したと発表しました。
「今後、催奇形性の無い安全なサリドマイド型治療薬の開発が期待されるほか、新規治療薬の開発に向けての大きな足掛かりになることが期待されます」。
国立大学法人東京工業大学は、2019年10月8日(令和1)、「サリドマイドが手足や耳に奇形を引き起こすメカニズムを解明」したことを公表しました。
「本研究によりp63(タンパク質の一種、当Web作者注)の分解が副作用の原因であることが判明しました。p63の分解を誘導しないサリドマイド系化合物を探索することにより、安全性の高い新薬の開発が可能になると考えられます」。
いずれにしても、今後研究を進める上で、徹底した副作用対策(多発神経炎や胎芽症)が欠かせないことは言うまでもありません。
サリドマイド事件(半世紀後の今)
サリドマイド事件はまだ終わっていない
サリドマイド事件から半世紀以上が経過しました。
その間、2005年(平成17)までに、日本での認定患者309名のうち12名の方が既に亡くなっているそうです。その原因は、交通事故や肝障害、心不全、突然死、心の病など多岐にわたっています。
また、患者が年齢を重ねるごとに、四肢・耳などの障害による日常生活動作の不自由さや、内臓まで障害が及んでいることによる健康不安が高まっています。
サリドマイド事件は決してまだ終わったわけではありません。
参考資料
⇒ サリドマイド事件(年表)
⇒ サリドマイド事件(参考文献一覧)
『サリドマイド事件 ~世界最大の薬害 日本の場合はどうだったのか~』
アマゾンKindle第4版(2020/05/20)です。
このページ以外の20数ページ(Web版)を全てまとめた完全版になっています。
図表及びその詳しい説明もあります。
『サリドマイド事件と情報リテラシーの向上』
アマゾンKindle版(2020/10/01)です。
コロナ禍とサリドマイド事件について、私の思うところを忌憚なく述べています。
図表も挿入しています。
関連URL及び電子書籍(アマゾンKindle版)
1)サリドマイド事件全般について、以下で概要をまとめています。
⇒サリドマイド事件のあらまし(概要)
上記まとめ記事から各詳細ページにリンクを張っています。
(現在の詳細ページ数、20数ページ)2)サリドマイド事件に関する全ページをまとめて電子出版しています。(アマゾンKindle版)
『サリドマイド事件(第4版)』
世界最大の薬害 日本の場合はどうだったのか(図表も入っています)
www.amazon.co.jp/ebook/dp/B00V2CRN9G/
2015年3月21日(電子書籍:Amazon Kindle版)
2016年11月5日(第2版発行)
2019年10月12日(第3版発行)
2020年05月20日(第4版発行)本書は、『サリドマイド胎芽症診療ガイド2017』で参考書籍の一つに挙げられています。
Web管理人
山本明正(やまもと・あきまさ)
1970年3月(昭和45)徳島大学薬学部卒(薬剤師)
1970年4月(昭和45)塩野義製薬株式会社 入社
2012年1月(平成24)定年後再雇用満期4年で退職
2012年2月(平成24)保険薬局薬剤師(フルタイム)
2021年1月(令和3)現在、保険薬局薬剤師(パートタイム)