サリドマイド事件のあらまし(概要)

2022年12月9日

紙の書籍『サリドマイド事件(第二版)』(アマゾン・ペーパーバック版:POD版)を出版しました。内容はKindle版と同じです。今後は、『サリドマイド事件』の正式版は、アマゾンPOD版(紙の書籍)といたします。(2022/05/03刷)

底本:『サリドマイド事件(第6版)』(アマゾンKindle版:2022/05/03刷)
注)用字用語に2か所間違いがあり、修正しています。

POD版、Kindle版共に、Web版よりもきちんとまとまっています。(図版も入っています)

Web版の方が分量の多い箇所も、一部あります。ただし、Web版は全て〈参考資料〉の位置付けです。このWebをご覧いただく際には、〈未完成原稿〉であることをご了解くださいますようお願いいたします。

このページの目次です

サリドマイド事件とは

2021年(令和3)は、レンツ警告(1961年11月)から60年の節目の年でした。

コロナ禍の下、科学的根拠(evidence)に基づくデータを収集して、正しい判断・行動をする能力がますます求められています。ご参考になれば幸いです。

注)図版・引用文献などは、『サリドマイド事件(第6版)』(アマゾンKindle版)に譲ります。
注)紙の書籍『サリドマイド事件』(アマゾン・ペーパーバック版)もあります。(Kindle第6版に合わせて、最新版を作成中です)

世界最大の薬害(1960年代初頭)

⇒ サリドマイドの誕生(西ドイツ&日本)

催眠・鎮静剤サリドマイドには催奇形性がある

サリドマイド事件とは、催眠・鎮静剤サリドマイド(化合物名:N-フタリル・グルタミン酸イミド)を妊娠初期の女性が服用することによって、胎児(正確には胎芽期)に四肢短縮などの障害(奇形)を生じた世界的な薬害事件(1950年代後半から1960年代初頭にかけて)のことを言います。

つまり、サリドマイドには催奇形性があります。

サリドマイド(thalidomide)を開発したのは、グリュネンタール社(西ドイツ、当時)です。サリドマイド製剤は、西ドイツで商品名「コンテルガン(Contergan)」として発売(1957年10月1日)以来、提携会社を通じて世界の少なくとも20か国ほどで販売されました。(フランス、米国及び東欧諸国(東ドイツ、旧ソ連など)では発売されなかった)

サリドマイドは、従来から使用されていたバルビツール酸系睡眠薬とは系統の異なる薬物でした。副作用が少なく安全性が高いということで、西ドイツでも大衆薬(医師の処方箋を必要としない)として取り扱われ、最も人気の高い睡眠薬となりました。

ただし、販売量の急増とともに副作用として多発神経炎があることがはっきりしてきたため、コンテルガンは処方箋薬に指定されました。

そうした状況の中で、販売開始から丸4年後(1961年11月15日)、サリドマイドの催奇性を疑うレンツ警告(西ドイツ)が出され、サリドマイド製剤は直ちに先進国の市場から姿を消しました。

コンテルガンの催奇形性試験は行われていなかった

コンテルガンの動物実験データについて、臨床薬理学の世界的権威・ティエルシュ教授(米国ワシントン州立大学)が、1973年10月17日(昭和48)、日本のサリドマイド裁判(東京地裁)で次のように証言しています。

「完全に安全性が確立されていたとは思えません。幾つかの抜けている点がありました」。さらに、胎児に対する安全性については、「調査すらされなかった」と断言しました。
(藤木&木田1974,ティエルシュ証言,pp.195-196)

なお、日本のサリドマイド裁判(東京地裁)で海外から出廷したのは、レンツ(西独)、梶井(当時、ジュネーブ大学助教授)そしてティエルシュ(米国)の3名でした。いずれも原告側証人であり、被告側証人(国外)は誰も認められませんでした。

サリドマイドの被害総数は7~8千症例(死産を含む)

生存被害者数は4,000名を上回る(死亡率約40%)

全世界におけるサリドマイド製剤による被害状況について、現在の私は以下のように推測しています。(2021/08/25現在)

  1. 全世界の生存被害者は、ごくおおまかには約4千人から5千人に達する可能性がある。
  2. 死亡率は、約40%(生存率60%)である。
  3. 被害者のほとんど全ては、20か国ほどで生じている。
    注)一般的には、サリドマイド製剤は世界の40か国以上で販売されたと言われている。

主として参考にしたのは、レンツ文献(Lenz1988)です。レンツ文献(Lenz1988)では、サリドマイド被害者の全世界における発生数に関して、レンツ自身の調査結果に加えて数多くの文献を網羅的に集めて検討しています。

レンツ文献(Lenz1988):栢森良二の解釈

栢森(かやもり)良二(りょうじ)(帝京大学医学部)は、このレンツ文献(Lenz1988)から次のように引用(翻訳)しています。(栢森1997,p.41、同2013,p.40、参考:同2021,p.148)

3,900症例が生存している。死亡率は40%程度と算出されることから、全世界の発生は5,850症例と考えられる。

しかしながら、この訳文では、「3,900症例」(生存数)/「5,850症例」(発生数)⇒「40%」(死亡率)の関係がすっきりしません。計算が合わないのです。なお、栢森著には「数値は原文のまま」という注釈が付いています。

現在の私は、レンツ文献(Lenz1988)の数値「生存数3,900/発生数5,850(死亡率40%)」のみにこだわることなく、被害の実態を把握するように努めています。

レンツ文献(Lenz1988):「いしずえ」公式Webほかの解釈

「いしずえ」公式Webでは、同じレンツ文献(Lenz1988)から、「被害者の数」について次のようにまとめています。(2019/10/16確認)
http://ishizue-twc.or.jp/thalidomide/damage-01/

全世界で3900例と報告され、30%の死産があったので総数は5800と推定されています(一部抜粋)。(「いしずえ」公式Web)

しかしながら、レンツ文献(Lenz1988)の中に、「30%の死産」や「総数は5800と推定」といった数値は見当たりません。さらに、「3,900症例」(生存数)、「死亡率」(30%)、及び「5,800症例」(発生数)のそれぞれの関係がはっきりしません。(これまた計算が合いません)

なお、いしずえ公式Webと同じフレーズ(数値)は、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』「サリドマイド」の項や、「多発性骨髄腫に対するサリドマイドの適正使用ガイドライン」(2004年12月10日付け)でも採用されています。

相互にコピペ(Copy&Paste)したのでなければ幸いです。

日本の認定被害者(生存者)は309名である

日本の認定被害者(生存者)は、上記レンツ文献(Lenz1988)にもあるように309名です。そして、そのうちの63家族が、日本のサリドマイド裁判(民事訴訟)に原告として加わっていました。(参照:ジュリスト1973,No.548,山田pp.335-339)

裁判和解後、訴訟に加わらなかった被害者に対する認定作業が、順次行われました。その結果、認定被害者数(生存者)は、1981年5月(昭和56)、最終的に309名として確定し現在に至っています。(参照:川俣2010,pp.433-435)

しかしながら、「諸般の事情で申請しなかった、申請制度を知らなかった、耳の障害と母指球筋低形成などの被害者は、サリドマイド被害者だと気づいていない家族がいる可能性がある」ことが指摘されています。(川俣2010,p.435)

つまり、認定被害者309名(厚生労働省)のほかに、「やむにやまれぬ諸般の事情」によって、手を挙げることができなかった(名乗り出なかった)方などがいらっしゃいます。実際に、私は2020年5月、そうしたお一人からメールを頂いた経験があります。

日本の被害者総数(死産を含む)は1,500名を超える

日本の厚生省によるサリドマイド被害調査は、サリドマイド製剤が販売中止(及び回収)になった後で行われました。唯一の全国規模アンケート調査となった森山報告936症例(日本先天異常学会)では、「生存数184/出生数936(死産を含む)」となっています。

つまり、このアンケート調査では、認定被害者(生存者)309名の約60%程度しかカバーできていないことが分かります。また、生存率は約20%程度であり、諸外国の生存率約60%(死亡率約40%)と比べて、異常に低い数値となっています。

この生存率約20%を基準とするならば、日本における被害総数(死産を含む)は、1,500名を超えるとみることができます。(認定被害者数309÷生存率20%→被害総数1,545)

注)佐藤嗣道(現・公益財団法人「いしずえ」)は、無事に生まれたサリドマイド被害者を「死産扱いとして処置」したケースのあることを示唆している。(参照:ビジランス1999,佐藤p.39)

日本のサリドマイド製剤(イソミンとプロバンM、そしてゾロ品)

⇒ サリドマイドの誕生(西ドイツ&日本)
日本のサリドマイド製剤(イソミンとプロバンM、そしてゾロ品)

イソミン、製法特許を主張(大日本製薬株式会社)

サリドマイド製剤は、日本国内でも販売されました。しかし、それは、西ドイツから導入されたものではありません。日本のサリドマイドは、大日本製薬(株)が、薬学雑誌に掲載されたグリュネンタール社(西ドイツ)の文献にヒントを得て、独自の製法を用いて合成を行い特許を出願しました。

物質特許ではなく製法特許を主張したのです。製法特許主義とは、同じ化学物質であっても、製法さえ異なれば〈別の化合物〉として特許権を主張できるとする考え方です。

大日本製薬(株)、グリュネンタール社とライセンス契約を結ぶ

ただし、その当時の国際基準は、すでに物質特許主義に移行していました。したがって、大日本製薬(株)としては、グリュネンタール社との間で、何らかのライセンス契約を結ぶ必要がありました。

しかしながら、大日本製薬(株)が、グリュネンタール社との間で特許に関するライセンス交渉を開始したのは、イソミン発売(1958年1月)後の同年5月になってからのことです。つまり、同社のイソミン発売は、見切り発車だったようです。

大日本製薬(株)は、その後、技術援助契約(1959年秋)を経て、技術提携(1960年5月)を結び特許問題を解決しました。つまり「「日本及び隣接地域」での販売権と技術情報の提供の見返りにロイヤリティーを支払う」ことになったのです。(川俣2010,p.22)

その結果、イソミンは台湾へも輸出され被害を生じました。

イソミンとプロバンM(プロバンMB)新発売

大日本製薬(株)は、1958年1月20日(昭和33)、鎮静・催眠剤「イソミン」(単剤)の販売を開始しました。

さらに、1960年8月22日(昭和35)、胃腸薬「プロバンM」(合剤)を〈追加〉発売しました。これは、抗コリン性鎮痙薬の臭化プロパンテリンに、佐薬(補助薬)として少量のサリドマイドを配合したものです。

同社は、レンツ警告(1961年11月)後の1962年7月7日(昭和37)、「プロバンM」のサリドマイドをブロバリン(ブロモバレリル尿素)と入れ替えた新胃腸薬「プロバンMB」を発売しました。

この新胃腸薬「プロバンMB」には、もちろんサリドマイドは入っていません。ただし、それをそのまま「プロバンM錠」として、旧名のまま販売を続けたようです。この〈プロバンM錠〉の新聞広告は、日本国内でサリドマイド製剤が販売中止(1962年9月)になった後も、少なくとも同年12月までは出されていました。

効能・効果及び用法・用量(イソミンとプロバンM)

イソミンの効能・効果及び用法・用量(略記)は、以下のとおりです。

  • 効能・効果:不眠症、手術前の鎮静、不安・緊張状態の鎮静
  • 用法・用量:鎮静作用を目的とする場合、通常1回5mg~25mgを1日3回服用。催眠の目的には、就寝前に50mg~100mgを頓用する。小児には、適宜減量して用いる。(川俣2010,p.449)

平沢正夫(フリージャーナリスト)は、イソミン(サリドマイド)の睡眠薬としての特徴について次のように書いています。

毒性はたしかに低かった。(中略)サリドマイドでは、自殺が不可能といわれているぐらいだ。イソミンをのんだ場合、さめ心地も格別だった。ほかの睡眠薬のように、頭痛や吐き気を感じない。それに、泥のように眠りほうけることもない。自然の睡眠状態同様、声をかけるか、軽くゆさぶるかすれば、目をさます。その点でも理想的であった。(平沢1965,p.45)

木田盈四郎(帝京大学医学部)は、イソミンとプロバンMについて次のようにまとめています。

イソミンは、不眠症、手術前および緊張不安状態の鎮静に効果があり、妊婦、小児にも安全無害であると、テレビ、新聞などを通じても広く宣伝された。プロバンMは、胃酸過多、胃炎、消化性潰瘍治療剤として市販された。(木田1982,p.138)

販売価格(イソミンとプロバンM)

川俣修壽(サリドマイド事件支援者)によれば、イソミン・プロバンMの販売価格は次のようになっています。はがき一枚5円の時代 (昭和26年11月1日~41年6月30日)の話です。(参考:川俣2010,p.453ほか)

  • イソミン25mg錠 (12錠150円、30錠300円)
  • イソミン10%散 (25mg700円、100mg2,500円)
  • プロバンM (10錠200円、30錠550円、100錠1,430円)
    (栢森1997,pp.10-11のコピー写真にもイソミン錠の価格表示有り)

ゾロ品の発売(大日本製薬を含めて15社(16品目)で販売が許可された)

当時の日本国内では、新薬が発売されると、それに連れてゾロ品(後発のまね薬)が次々と発売されるのが常でした。この時も同様で、販売許可されたサリドマイド製剤は、イソミン・プロバンMも含めて全部で16品目(15社)に上りました。

しかしながら、それらが全て実際に発売されたわけではなく、全容ははっきりとはつかめていません。(参照:川俣2010,pp.452-454)

そうした中で、日本のサリドマイド裁判において、国(厚生省)や大日本製薬(株)とともに被告になったのは、セイセー薬品工業(東京地裁のみ)だけです。

ただし、サリドマイド裁判和解時の損害賠償金は、下記5社(合わせて6品目有り)が分担して支払いました。(参照:川俣2010,p.429,453)

大日本製薬(イソミン・プロバンM)、富山化学工業(グルタノン)、エスエス製薬(新ニプロール)、小野薬品工業(ボンブレン)、ゼリア化工(サノドルミン)。

いずれも、21世紀まで存続している製薬会社ばかりです。

注)セイセー薬品工業(新ナイトS)は、裁判和解時には既に倒産していた。
注)セイセー薬品工業については、生盛薬品工業という表記も見られる。(増山編1971,増山p.59)
注)大日本製薬(イソミン・プロバンM)の占拠率は、90~95%以上だった。

ゾロ品からジェネリック医薬品へ

現在では、医療用医薬品は、新薬(先発医薬品)とジェネリック医薬品(後発医薬品)に分けて考えられています。

ジェネリック医薬品は、特許期間が過ぎた新薬と同じ有効成分を使い、国の厳しい基準に基づいて製造・販売されています。開発費があまりかからないので価格は割安となり、国の医療費抑制の柱として、厚生労働省でも後発品の使用を推奨しています。

しかしながら、今年(2021年)に入ってから、ジェネリック医薬品メーカーの中で、抗真菌薬・イトラコナゾールに睡眠薬を混入させてしまったり、「承認書に記載のない工程を実施していた」などの理由で大量の品目を自主回収したりするなど、重大な不祥事が相次いでいます。

そして、その影響を受けて、医療用医薬品の流通が先発メーカーも巻き込んで大きく混乱しています。

そうした中で、厚生労働省によって新たに掲げられた「後発品80%目標」(2023年度末までに後発医薬品の数量シェアを全ての都道府県で80%以上とする:2021/04/27付け)の質が厳しく問われています。

薬事審議会と事務局限りの包括建議、そして天下り

イソミンの有効性・安全性は評価されていなかった

イソミンの特許出願(1956年11月)から製造販売許可申請(1957年8月)まで、実はわずか1年足らずしかありません。当然のことながら、きちんとした動物実験や臨床試験をやる余裕はなかったものと思われます。

大日本製薬(株)では、イソミンの有効性・安全性を評価するために必要十分なデータを集め切れてはいなかったと考えられます。それでも、イソミンは製造販売を許可(1957年10月)され、翌年には販売を開始(1968年1月)しました。

その当時の薬事行政について、レギュラトリーサイエンス(2013,p.20)は、次のように評価しています。

つまり、「現在のように医薬品の有効性と安全性をデータに基づいて適切に評価する」というレベルにはなく、それが「当時の世界の趨勢」であった、としています。

この前後、薬事行政の根幹を成す薬事法(2014年11月より薬機法)は、旧薬事法(1948年7月公布)から改正薬事法(法律第145号、1960年8月公布)に変わっています。

つまり、旧薬事法=「不良医薬品の取締りに重点を置く」(戦後の混乱期)ことから、やっと、改正薬事法=「医薬品の製造・輸入販売行為を規制することに重点を置く」レベルになったところだったと言えます。

 薬事審議会に付随して包括建議という制度があった

1950年代後半、厚生大臣の諮問機関として薬事審議会(薬審)が設置されていました。そして、それに付随して、包括建議という制度が設けられていました。(参照:藤木&木田1974,水野証言pp.218-247)

包括建議とは、多数の案件を円滑に処理するためとして、薬事審議会(薬審)に諮ることなく、"事務局限り"(厚生省薬務局製薬課)で処理を行っていた制度のことです。対象となったのは、ゾロ品(後発のまね薬)などであり、包括建議・第1~7項に該当するとされた場合には、"事務局限り"の書類審査だけで承認を得ることができました。

これに対して、イソミンは、国内では初めての医薬品であり、ゾロ品(後発のまね薬)などではありませんでした。ところが、イソミンの製造販売許可申請書には、コンテルガンが、すでに西ドイツで販売されているかのような資料が添付されていたのです。(もちろんコンテルガンはまだ発売準備中でした)

それにもかかわらず、イソミンは、このようなあいまいな事前審査によって、〈日本国内では初めてだが先進国では既に発売されている医薬品〉として、包括建議(第八項)の対象とみなされました。

包括建議・第八項では専門家の審議を必要とした

イソミンは、こうして薬事審議会(薬審)の対象品目から外されました。ただし、完全に事務局限りで処理されたわけではありません。包括建議の第八項対象として、専門家の審議(新医薬品調査会)は必要とされました。

そして、当日の新医薬品調査会には、同委員4名(1名欠席)と、厚生省側からは製薬課長を除く数名が出席しました。その審議時間は、他剤(ほかに1品目有り)と併せて1時間30分程度で、何の問題も無く調査会は終了しました。(参照:増山編1971,増山p.33)

包括建議とゾロ品(後発のまね薬)

厚生省は、レンツ警告(1961年11月)の翌年になって、新たにサリドマイド製剤のゾロ品(後発のまね薬)を販売許可しています。

ところが、当時の製薬課長は、認可理由を問われて「(責任者として自ら決裁したことを)覚えておりません」と証言しています。包括建議の対象として、"事務局限り"(厚生省薬務局製薬課)で処理した多数の案件の中に入っていたのでしょう。(藤木&木田1974,平瀬証言p.267)

厚生省は、1962年5月、さらにもう一品目を販売許可しています。ところが、そのことは日本のサリドマイド裁判(東京地裁)でも言及されなかったようです。川俣は、「(国は)この情報はこれまで故意に国民に伏せてきた」と書いています。不可思議です。(参照:川俣2010,p.43)

製薬課長や薬務局長(厚生省)の天下り

厚生省薬務局製薬課において、薬に関する許認可を与える側とそれを求める側は、日常的に密接に結びついていました。そして、製薬業界への天下りが継続的に行われていました。(参照:平沢1965,pp.181-185)

イソミン発売当時の製薬課長(厚生省、当時)は、後に山之内製薬(株)に入社して開発部長になりました。その前後の製薬課長(複数)も、ほぼ同規模の製薬企業に再就職していました。

サリドマイド訴訟における和解確認書の覚書(1974年10月13日付け)には、厚生省薬務局長も署名をしています。署名にあたって彼は、二度と薬害は起こしませんと誓ったはずでした。しかし、(株)ミドリ十字に天下り、後に社長となった彼は、薬害エイズ事件の当事者として被告席に座ることになりました。

レンツ警告(サリドマイドの催奇形性と疫学調査の重要性)

レンツ博士:グリュネンタール社へ電話する

⇒ レンツ警告1/3(サリドマイドが奇形の原因である可能性が極めて高いと警告/1961年11月)

西ドイツの小児科医・レンツ博士

“サリドマイド児の父"と慕われたレンツ博士(Widukind Lenz)は、1919年にドイツ(後の旧東ドイツ地域)で生まれ、1995年に死去(享年76歳)しました。

レンツの最大の業績は、サリドマイドに関するものです。1961年11月(昭和36)には、「レンツ警告」、すなわち「サリドマイドに催奇形性の疑い有り、直ちに全製品を回収すべき」との警告を発しました。

レンツは、その当時、西ドイツのハンブルク大学小児科講師(42歳)でした。そして、その翌年、ハンブルク大学人類遺伝学教授に就任しました。レンツの詳細な調査に基づくサリドマイド仮説の立証、および各国のサリドマイド裁判で果たした役割は極めて大きいものがありました。

注)レンツ博士は、日本のサリドマイド裁判において原告側証人として出廷した。
(1971年11月2日~24日、東京地裁にて出廷回数11回)

レンツ警告(1961/11/15の電話)

レンツ博士は、1961年11月15日(昭和36)、グリュネンタール社(コンテルガンの製造販売元、西ドイツ)に電話をして警告を発しました。これが、いわゆる「レンツ警告」です。(参照:藤木&木田1974,レンツ証言pp.99-108)

レンツ警告(グリュネンタール社への電話):

サリドマイド(商品名:コンテルガン)が、1960年代初頭に西ドイツで多発していた新たな奇形の原因である可能性が極めて高く、したがって、直ちに全製品を回収すべきである。

全てはレンツ博士の電話(11月15日)から始まった

レンツ博士の電話(11月15日)に対応したのは、コンテルガンの製造開発責任者であるミュクター博士でした。

ミュクターは、レンツの警告内容に納得はしませんでした。しかしながら、グリュネンタール社から後日レンツを訪問することを約束しました。そして、その数日後(11月20日)、同社の社員がレンツのもとを訪れました。

このようにして、グリュネンタール社は、レンツ博士からの電話(11月15日)を受けて、サリドマイド製剤の催奇形性について対応を開始しました。レンツ警告とは、11月15日の電話を指すと考えるのが妥当です。

なお、レンツは、電話の翌日(11月16日)、その内容をまとめた手紙をグリュネンタール社宛てに送付していました。もちろんそれは、電話の内容を「確固としたものにするため」でした。

グリュネンタール社は、1961年11月中には全ての作業を完了した

「いしずえ」公式Webの年表「サリドマイド事件およびサリドマイド復活問題関係年表」には、11月15日付けで、レンツ博士がグリュネンタール社に連絡したことが記載されています。(2020/09/10再確認)

  • 「西独のレンツ博士、グリュネンタール社に「奇形の原因はコンテルガンと思われるので、販売停止をすべきだ」と伝える。会社側聞かず」(1961年11月15日付け)

上記「いしずえ」年表には、「会社側聞かず」の一文があります。確かに、グリュネンタール社は、レンツ博士に同意はしませんでした。しかしながら、結局のところ、"何はともあれ回収"に応じました。

すなわち、レンツ警告(11月15日)では、疑わしきは販売停止の上で"直ちに回収する"ことを提言しています。

それに対して、グリュネンタール社は、後日レンツを訪問することを約束して、それを実現(11月20日)しました。そして、その当日の午後からは、ハンブルク州政府の保健省の代表を交えて会談を行いました。

注)レンツ博士の所属するハンブルク大学(医学部)はハンブルク州(特別州)にある。

さらに、その後も、行政を交えた三者会談(11月24日)を重ねました。すなわち、ノルトライン=ヴェストファーレン州内務省(デュッセルドルフ)において、内務省とグリュネンタール社の各代表者数名およびレンツの三者会談が行われました。

注)グリュネンタール社(本社:アーヘン)は、ノルトライン=ヴェストファーレン州(州都:デュッセルドルフ)にある。

グリュネンタール社は、最終的には1961年11月26~27日のいずれか(25日の可能性も有り)で、コンテルガンの販売中止及び回収を決定しました。それは、催奇形性について全国紙(西ドイツ)で報道された結果とはいえ、レンツ警告からわずか10日余り後のことでした。

そして同社は、回収作業を直ちに実行しました。例えば、「いしずえ1984」(年表p.118)は、「27日・28日、コンテルガン回収」としています。西ドイツ国内の回収作業は、遅くとも同月(1961年11月)中には完了したものと思われます。

レンツ警告とは、小児科学会地方会での発言のことではない

小児科学会地方会(1961/11/18の発言)

レンツ博士は、グリュネンタール社へ電話をした3日後(11月18日)、小児科学会地方会のディスカッションにおいて、ある"特別な薬"が奇形の原因となっているのではないか、という短い論評を発表しました。

栢森1997は、「通常、公にしたという意味では、これをもって「レンツ警告」としている」と書いています。さらに栢森2021では、参考文献として「Lenz W:DMW 86:2552-2556,1961」が添えられています。(栢森1997,pp.24-25、同2013,p.22、同2021,p.38)

ところで、レンツは、この小児科学会地方会では、コンテルガンの名前を出してはいません。したがって、「レンツ博士、コンテルガンの催奇性について学会発表(11月18日)」などとする資料は、明らかに間違いです。

小児科学会での発言内容を確認する

レンツ博士の小児科学会地方会における論評(コメント)について、栢森1997は、その内容を次のように紹介しています。(一部抜粋)

大衆薬として使用されている薬剤が、この奇形の原因であると考えられるが、まだ十分に証明されていない/しかし、一市民として、自分の調査で明らかになった事実に対して沈黙を守るような態度をとることはできない/メーカーに私の観察結果を知らせ、またその無害性が確実に立証されるまでこの薬を直ちに回収すべきであるという私見を伝えました。(栢森1997,p.25、同2013,p.23)

これらの排除が一か月遅れるごとに、甚だしい奇形児は恐らく50ないし100名増えることになるでしょう。(栢森1997,p.122、同2013,p.119)

小児科学会でのレンツの思い

レンツは、同学会上では、具体的な商品名を出しませんでした。その理由について、レンツ自身は、その思いを次のように語っています。

以前に会社に対して警告をいたしましたので、彼らが市場からその薬品を回収できる時間を与えるべきではないかといった気持でこのことを公開しなかったのだと思います。(藤木&木田1974,レンツ証言p.101)

学会当日(11月18日)前後の状況を振り返ってみると、グリュネンタール社は、すでにレンツを訪問する約束をしていました(11月15日)。そして、実際に、その数日後(11月20日)、両者の会談が実現しています。

そうした流れの中で、レンツの気持ちとしては、グリュネンタール社が回収作業を直ちに実施することを期待して、静観していたかったのでしょう。つまり、レンツが小児科学会地方会で発言(11月18日)した時には、すでに事態は動き始めていました。

以上から、私は、〈レンツ警告とは11月15日の電話のことを指す〉と理解しています。何と言っても、11月15日の電話が、コンテルガン回収に向けて最初のきっかけとなったことは、間違いありません。

しかしながら、〈レンツ警告=1961年11月18日〉とする説は、栢森に限らず幾つもあります。

更田義彦(弁護士)の考え方

日本のサリドマイド裁判(東京地裁)で弁護団に加わった更田義彦(弁護士)は、次のように述べています。明らかに、レンツ警告=11月18日説です。

1961年11月、ドイツのW.レンツが、地方小児科学会で、最近の新生児に見られる四肢の欠陥について「ある特別の薬(サリドマイド)がこの原因になっているのではないか」と発言して、警告を発した。この警告は、海外では大きな反響を呼び起こし、速やかに販売の停止、回収等の措置が講じられた。

NPO法人 エイチ・エー・ビー研究機構
トップページ > HAB人試料委員会 > 創薬研究の基礎知識
サリドマイド事件の教訓 更田義彦(弁護士)
https://www.hab.or.jp/committee/pdf_hito03/5-2_fuketa.pdf
(2020/05/22閲覧)

佐藤嗣道(公益財団法人「いしずえ」)の考え方

佐藤嗣道(現・公益財団法人「いしずえ」)は、11月18日の論評(コメント)をレンツ警告として紹介しています。ただし、その文章(引用文)は、上記の栢森1997(p.25)とは微妙に異なっています。(参照:ビジランス1999,佐藤p.42)

なお、「いしずえ」公式Webの年表には、レンツ博士の電話(11月15日)について記載されていますが、小児科学会地方会での論評(11月18日)に関する記載は何もありません。

疫学の考え方と四分表(2×2表)を理解する

⇒ レンツ警告2/3(疫学の考え方、四分表(2✕2表)を理解する)

レンツ博士は疫学の基本に従って行動した

サリドマイドと奇形との間に、因果関係が有るのか無いのかをはっきりさせるためには、疫学の考え方が欠かせません。

疫学とは、広辞苑2008(第六版)によれば、次のように説明されています。

疾病・事故・健康状態について、地域・職域などの多数集団を対象とし、その原因や発生条件を統計的に明らかにする学問。

サリドマイド事件の場合には、症例対照研究(後向き研究:retrospective study)として行うことになります。
つまり、「ある疾病にかかった群(症例群)とかかっていない群(対照群)を設定し、両群における過去の生活習慣の状況を比較する方法」です。

具体的には、調査結果を四分表(2×2表)にまとめて統計学的な分析をします。なお、「四分表からカイ二乗の値を求め、この値が3.84以上であれば有意とするのが普通」とされています。(増山編1971,増山p.23)

そして、その上で、必要に応じた素早い対応を取ることが求められます。

レンツの偉大さは、サリドマイド児を自ら一例ずつ調査して回り、「奇形の原因としてコンテルガンが極めて疑わしい」ということを、短期間のうちに探り当てたことにあります。そして、それに基づき、「コンテルガンを直ちに回収すべきである」という見解を示した点にあります。

レンツは、専門知識・臨床経験をフルに発揮して、疫学調査を忠実に実行したのです。レンツ警告の意義は、「レンツ自らが疫学調査を行い、そのデータを統計学的に処理した上で、具体的な対策を示した」ことにあります。

四分表(2×2表)の縦と横を読み間違えてはいけない

杉山博(大阪大学工学部教授)、四分表(2×2表)の読み方を誤る

「いしずえ1984」(年表p.120)に、次の2項があります。

  • 「1969年5月、阪大杉山教授、統計学の初歩的な誤りをおかし、レンツ学説を否定」
  • 「同年7月19日、杉山教授、レンツ学説の否定を撤回」

杉山博(大阪大学工学部)は、「2×2表の縦と横」を単純に読み間違えて、サリドマイド原因説を否定しました。(杉山1969)

この杉山論文に対しては、多くの反論が出され、後に増山編1971にも多数まとめて収載されています。(増山pp.3-84,建田pp.179-191,高橋pp.193-207,吉村pp.233-306,そして大阪大学災害問題研究会pp.307-319)

杉山は、その後、自説を撤回しました。

津田敏秀(岡山大学)による四分表(2×2表)の正しい読み方

津田敏秀(岡山大学)は、四分表(2×2表)の見方の注意点として、次のようにまとめています。

症例対象研究の表では、症例の合計と対照の合計を取る意味はあるが、服用群と非服用群の合計は取るべきではない。症例の服用割合と対照の服用割合にそれぞれ意味があるのだから、それの合計をすると何の割合が反映されているのか分からなくなる。表の読み方を90度曲げてはならない。(津田2003,p.85)

つまり、四分表(2×2表)においては、次の2群を比べることに意味があります。

  1. 症例(奇形+)群におけるサリドマイド服用割合
  2. 対照(奇形-)群におけるサリドマイド服用割合

柴田義貞(長崎大学)は、杉山文献を学生用の教材に使っている

柴田義貞(長崎大学)は、医学部4年生や大学院生を対象にした授業において、上記杉山論文を教材に使い続けています。杉山論文の全文コピー(6ページ分)を前提条件無しに手渡し、2週間後にレポートを提出させるのだと言います。(参照:柴田2010,p.1)

その結果は、杉山論文の問題点を的確に指摘するものはごく少数(10%台)にとどまり、8割近くは杉山論文の趣旨に全面的に賛同するそうです。

柴田は、このことを踏まえて、「杉山論文は医学部生に断面調査,コホート調査,症例対照調査に伴う2×2表を理解させるのに非常に有用であると考える」としています。

メカニズムの解明よりも素早い回収を

⇒ レンツ警告3/3(メカニズムの解明よりも素早い回収を)

素早い回収こそ最善の策

グリュネンタール社(コンテルガン製造販売元:ドイツ)は、2012年8月31日(平成24)、初の謝罪声明を出しました。事件発生から50年間、実は一度も謝罪したことがなかったのだそうです。つまり、グリュネンタール社は、その当時から今までずっと、自身の責任を認めていなかったということなのでしょうか。

その事実関係はともかくとして、グリュネンタール社が、レンツ警告(1961年11月)を受けて、「何はともあれ直ちに回収」作業を実施したことは間違いありません。

そして、その結果、西ドイツにおけるその後の被害拡大を未然に防ぎました。この点、動物実験の結果を待ってからなどと、判断を先送りにして被害を拡大した日本とは対象的です。

疫学調査では、メカニズムの解明までは求められない

疫学とは、メカニズムの解明よりも何よりも先に、「目の前にある問題を解決するために、今すぐやるべきことは何か」を解明する学問です。

つまり、疫学調査では、メカニズムの解明までは求められていません。

それにもかかわらず、レンツ警告(疫学調査に基づく警告)に対して、「ただしこの報告は疫学的因果関係のみでメカニズムは未解明」(下記Wikipedia)と評価するのは意味の無いことです。

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』「サリドマイド」:

疫学調査(レンツ警告・1961年11月。ただしこの報告は疫学的因果関係のみでメカニズムは未解明)から先天異常「サリドマイド胎芽症」や胎児死亡といった催奇性と因果関係があるとされ、日本では1962年9月に販売停止と回収が行われた。(2018/06/17閲覧)

レンツ警告では、「コンテルガンが奇形の原因である」と断定したわけではありません。

この時点で、母親がコンテルガンを服用したことが確実な症例は、ごくわずかしか集まってはいませんでした。
もちろん、サリドマイド胎芽症そのものについては、ほとんど何も分かっていませんでした。

それでもなお、この時点で「メカニズムは未解明」であることには全く何の問題もありません。

コレラの流行に学ぶ

ロンドン(英国)のソーホー地区で、1854年8月末にコレラが発生し、約半月後には同地区の死亡率は12.8%に達しました。(注:嘉永7年、ペリー黒船艦隊来航の翌年)

この大疫病をわずか1か月あまりで終息させたのが、疫学の祖と呼ばれる医師のジョン・スノーです。

スノーは、地区の事情に詳しい副牧師ヘンリー・ホワイトヘッドの協力を得て、1軒1軒個別訪問を重ねて原因を追究しました。そして、ブロード・ストリートにある「ポンプ井戸の水」が怪しいと見当を付けました。スノーは、直ちに行政当局にポンプの柄を撤去させました。そしてその結果、9月末までには流行は終息しました。

この時に問題となったのは、「ポンプ井戸の水」です。コレラの大流行という目の前の問題を解決するために必要だったのは、「汚染された水が原因である」ことを速やかに探り当てることでした。そして、その原因を取り除く(汚染水を供給できなくする)ことでした。

その時に、コレラのメカニズム、つまり「コレラの真の原因はコレラ菌という病原体にある」ということまで解明されていたわけではありません。コレラ菌そのものは、この大疫病から30年後の1884年、ドイツの細菌学者ロベルト・コッホによって発見されました。

大日本製薬と厚生省(致命的な販売中止決定の遅れ)

大日本製薬・厚生省、販売続行を決定

⇒ レンツ警告後、日本での回収決定は大幅に遅れた

レンツ警告(1961年11月15日)は、翌月12月に入ってから日本にも届けられました。すでに西ドイツでは販売中止(及び回収決定)になったことも同時に伝えられました。

大日本製薬(株)は、1961年12月6日(昭和36)、厚生省と協議したものの「有用な医薬品を回収すれば社会不安が生じる」として販売を続行しました。

なお、英国の医学雑誌「The Lancet(ランセット)」が、ロンドンから日本に届くまで1~2か月(船便)もかかった時代のことです。国際電話回線も非常に限られた本数しかありませんでした。

大日本製薬(株)の学術課長、西ドイツ訪問(1962年1月)

年明け早々(1962年1月)、大日本製薬(株)から西ドイツに学術課長が派遣されました。

ところが、同課長は、現地でグリュネンタール社の関係者に面会したのみでした。レンツ博士やそのほかの学者、あるいは西ドイツの州政府を訪問することはありませんでした。それにもかかわらず、帰国してから「レンツ博士の警告には科学的根拠がない」と報告しました。

厚生省の製薬課長、西ドイツのレンツ博士と面会(1963年5月)

さらに、その翌年、1963年5月(昭和38)になってから、厚生省の製薬課長が西ドイツを訪問しました。

製薬課長は、レンツ博士に面会をしました。しかし、面会時間は通訳を交えてわずか30分程度のものでした。

そして、この製薬課長(厚生省)の訪問は、日本からレンツ博士にコンタクトを取った唯一のケースになりました。レンツ博士に対して、この訪問以外には、日本から手紙やそのほかの手段での問合せも一切ありませんでした。(藤木&木田1974,レンツ証言pp.112-114)

佐藤嗣道と栢森良二は、二人の課長の訪問時期とその内容を取り違えている

佐藤嗣道(現・公益財団法人「いしずえ」)は、レンツ警告(1961年11月)の翌年、すぐに西ドイツを訪問したのは製薬課長(厚生省)であり、同課長がレンツ博士に面会した上で「レンツの警告には科学的根拠がない」と報告した、という誤った認識を持っているようです。

同様にして、栢森良二(帝京大学医学部)は、「わが国においては、薬を回収させる特別な措置は講じられていなかった。厚生省から西独へ派遣された調査官による「レンツ報告は科学的に根拠が乏しい」との一言によって片づけられてしまっていた」と書いています。(栢森1997,p.44)

厚生省は自ら決して動こうとはしなかった

「いしずえ」公式Webの年表「サリドマイド事件およびサリドマイド復活問題関係年表」には、学術課長(大日本製薬)派遣の記載はあるものの、製薬課長(厚生省)に関する記載は何もありません。(2021/07/10再確認)

西ドイツを最初に訪問したのは、間違いなく学術課長(大日本製薬)です。

製薬課長(厚生省)が西ドイツを訪問した時期(1963年5月)は、1962年9月に日本でのサリドマイド製剤の販売が中止され、回収作業も一段落したと思われる頃のことです。

そもそも、レンツ警告(1961年11月)に対して、厚生省は決して自ら対応しようとはしませんでした。当時の製薬課長(厚生省)は、日本のサリドマイド裁判(東京地裁)において、次のように証言しています。(参照:藤木&木田1974,平瀬証言pp.248-253)

製造販売をしているのは大日本製薬であるので、大日本製薬の方でまず自主的に解決すべきだと思いました。(当時の製薬課長の証言)

自主的に出荷中止/イソミンとプロバンM(朝日夕刊1962/05/17付け)

自主的に出荷中止/イソミンとプロバンM(朝日新聞スクープ)

わが国のサリドマイド事件の第一報

大日本製薬(株)が、サリドマイド製剤の出荷を中止したのは、1962年5月のことです。そして、それをスクープしたのが、朝日新聞夕刊記事「自主的に出荷中止/イソミンとプロバンM」(1962年5月17日付け)です。

この朝日新聞スクープが、わが国でのサリドマイド事件の第一報とされています。つまり、レンツ警告(1961年11月)から約半年間、日本国内での報道は一切ありませんでした。(参照:柴田1994,p.10)

そして、このスクープ記事の日付は、その約3年後に被害者家族が「とりあえず時効の中断」を求めるための根拠とされました。損害賠償請求訴訟(1965年11月)を東京地裁に起こす少し前(同年5月ごろ)のことです。つまり、被害者家族は、1965年5月ごろの段階で、「(サリドマイドが奇形の原因であると)知ってから三年」の時効が目前に迫っていると認識していたのです。(いしずえ1984,西田p.17)

一方で、「(レンツ警告後)日本でもサリドマイド胎芽病に関するニュースは医学誌や新聞などで報道されている」とする記述もあります(栢森1997,p.42 )。ただし、そこには出典などは明記されておらず、確かなことはよく分かりません。。

朝日新聞スクープ以前の資料として、私が把握しているのは下記資料(2点)だけです。しかしながら、それらはいずれも英文ニュース誌あるいは医学専門誌であり、通常一般市民が目にするような資料ではありません。

  • 『TIME(タイム)』アジア版,Medicine:Sleeping Pill Nightmare(睡眠薬の悪夢),1962年2月23日号
  • 『日本医師会雑誌』「海外短信」,「薬に注意」,1962年3月15日号

朝日新聞・厚生省・大日本製薬は日本のサリドマイド児の存在を否定した

さて、朝日新聞スクープ(夕刊)の翌日、同じく朝日新聞の朝刊(5月18日付け)には、西ドイツのサリドマイドに関する詳しい記事が掲載されました。ところが、その記事には「悪影響の実例、日本ではない」とする著名な薬学者の長いコメントが付けられていました。

さらに、その一週間後(5月25日付け)、厚生省から「国内ではまだ患者についての報告が一件もない」とする通達が出されました。また、宮武徳次郎・大日本製薬(株)社長は、販売店宛ての手紙で「出荷停止はするが、販売は続けるように」と書いていました。(栢森1997,p.43)

こうして、サリドマイド製剤の出荷停止措置は取られたものの、既に出荷された商品は回収されることなく、そのまま薬局で売られ続けました。

上記のような状況に関して、木田盈四郎(帝京大学医学部教授)は、「(大日本製薬(株)はイソミンとプロバンMを一時的に出荷停止(5月12日)」にしたが、「日本の新聞は記事にしなかった」と断言しています。(木田1982,p.142)、注:5月17日が正しい。

木田は、日本のサリドマイド裁判では原告側証人として出廷した経験を持ち、後にサリドマイド福祉センター「いしずえ」の顧問まで務めました。大変残念なことです。

日本にも睡眠薬の脅威(読売朝刊1962/08/26付け)

日本にもサリドマイド児・梶井正博士(読売新聞スクープ)

わが国のサリドマイド事件の実態を初めて明らかにした

日本国内で、サリドマイド児の存在を初めて明らかにしたのは、梶井正博士(北海道大学医学部小児科講師)です。梶井博士は、自験例7例をいきなり英国の医学雑誌「The Lancet(ランセット)」(1962年7月21日発行)に投稿しました。

梶井は、その理由について次のように証言しています。(藤木&木田1974,梶井証言pp.129-131)
「この雑誌が一番早くこういう報告が載るから、世界的に信用があるからと思って書いた」。
梶井の狙いどおり、レンツをはじめとするサリドマイドに関心を持つ国外の学者たちから、一斉に問合せの手紙がきました。

ところで梶井は、The Lancet(ランセット)投稿後、大日本製薬(株)札幌支店と北海道庁を訪問していました。ところが、日本国内では、この直接訪問や論文投稿に対する反応は、ほとんど何もありませんでした。

梶井は、The Lancet(ランセット)投稿後、同じ内容を北海道の小児科学会地方会で発表(8月26日)しました。それをスクープしたのが、読売新聞記事「日本にも睡眠薬の脅威」(1962年8月28日付け)です。つまり、新聞記事が掲載されたのは、小児科学会地方会の翌々日のことです。

日本国内のサリドマイド問題は、結局はこの読売新聞スクープによって、一気にクローズアップされることになりました。そしてその2週間後(9月13日)、大日本製薬(株)はイソミンとプロバンMの販売中止(及び回収)に踏み切りました。

レンツ警告(1961年11月)から遅れること約10か月後のことです。

レンツ警告後、日本国内での販売中止とそれに続く回収作業が大幅に遅れた間にも、多くの患者が発生しました。レンツ警告後のサリドマイド児数は、日本が世界で一番多くなっています。

国・製薬企業共に、レンツ警告の意義、つまり「レンツ自らが疫学調査を行い、そのデータを統計学的に処理した上で、具体的な対策を示した」ことを理解していなかったと言えるでしょう。

注)梶井博士のランセット掲載(1962年7月)に続く地方会での発表(8月26日・日曜日)、そして読売記者の訪問(8月27日・月曜日)から読売新聞スクープ(8月28日・火曜日)あるいは販売中止(9月13日・木曜日)までの日付を、時系列で正確に伝えている資料は極めて少ない。

日本のサリドマイド被害者に関するデータ分析

築地産院におけるサリドマイド児3例

東京都立築地産院におけるサリドマイド児3例

レンツ警告以前、既に症例を把握していた

日本国内でも、サリドマイドの催奇形性について把握していたと思われるケースがあります。東京都立築地産院(東京都中央区)において、サリドマイド児3例(いずれも死産)を経験していたのです。

しかもそれは、レンツ警告(1961年11月)以前のことです。その事実は、メーカーにも報告されたということですが、その情報が厚生省まで届いていたのかどうか定かではありません。

レンツ警告(1961年11月)の約半年後、朝日新聞スクープ「自主的に出荷中止」(1962/05/17付け夕刊)に際して出された厚生省通達には、「国内ではまだ患者についての報告が一件もない」と書かれていました。

ところで、日本でサリドマイド製剤の販売が中止され回収が始まったのは、1962年9月のことです。これに対して、サリドマイド胎芽症3例を含む築地産院の論文は、1963年になってから掲載されました。つまり、築地産院のデータが、サリドマイド製剤の販売中止(及び回収)の引き金になることはありませんでした。

なお、築地産院の医師は、日本のサリドマイド裁判における証言を拒否しました。その理由は、以下のとおりです。

学会での発表はあくまでも仮説である。それをいちいち裁判でとり上げられると、研究発表に臆病になってなにもいえなくなるし、新薬の使用もできない。そうなれば医学も発展しない。国民の健康を守る医学、医療の発展のため証言は拒否する。(高野1981,p.130)

日本先天異常学会のアンケート調査(936症例)

サリドマイドによる被害調査(厚生省、森山豊東大教授に依頼)

サリドマイドによる被害調査(厚生省、森山豊東大教授に依頼)

厚生省が初めてサリドマイドによる被害調査を開始したのは、イソミン/プロバンMの販売中止(そして回収)が決定した翌日(1962年9月14日)のことです。そして、その2年後の1964年7月、森山豊東大教授による「日本先天異常学会のアンケート調査(936症例)」が同学会において発表され、新聞紙上でも大きく取り上げられました。

森山報告(936症例)は、全国の産婦人科医と助産婦全員を対象とした〈アンケート調査〉をまとめたものです。

このアンケート調査の精度については、後に、梶井博士が日本のサリドマイド裁判(東京地裁)で懸念の声を上げています。つまり、「いわゆるサリドマイド児でない、それに似ているけれども違う奇形を相当含んでいるのではなかろうかという推定が成り立ちます」というのです。(藤木&木田1974,梶井証言p.148)

もちろん、日本先天異常学会として、この936症例について〈個々の症例ごとに詳細調査を実施する〉ことが検討されました。しかしながら、結局はその後の追加調査は一切行われませんでした。

なお、このアンケート調査(936症例)では、「耳や指の奇形」については最初から調査項目に含まれていませんでした。(参照:サリドマイド裁判1976,第3編,pp.659-660)

したがって、森山報告(936症例)では、「耳の障害」を主とする被害者データ(全体の約20~25%と考えられる)が、すっぽり抜け落ちている可能性があります。そして、指の奇形は頻度不明です。つまり、全体像をどこまでカバーできていたのかは不明です。

レンツ警告以降もイソミンの販売量が減少することはなかった

大日本製薬(株)が公表したイソミン販売量と奇形児出生数
レンツ警告以降もイソミンの販売量が減少することはなかった
サリドマイド販売量をサリドマイドの新聞広告スペース量で推測することはできない

佐藤嗣道の主張は受け入れられない

佐藤嗣道(公益財団法人いしずえ理事長、医学博士)は、自身もサリドマイド被害者です。その彼は、第1回医薬ビジランスセミナー(1997年9月)で、次のように述べています。

「レンツ警告を境に睡眠薬の広告をやめ胃腸薬プロバンMを大々的に売りまくったということで、一種の在庫整理と言われてもしかたがないやり方です」。(ビジランス1999,佐藤p.43)

彼のこの主張は、私には次のように読み取れます。

レンツ警告(1961年11月)後、「大日本製薬(株)は、残ったイソミン(サリドマイド)を「在庫整理」のためプロバンM(胃腸薬とサリドマイドの合剤)の中に入れた」。

その根拠として挙げられているのが、「中森黎悟による新聞広告量の調査」です。(平沢1965,pp.202-205)

つまり、”レンツ警告後、大日本製薬(株)はイソミンの広告をぴたりと止めた”、そしてその替わりに、”プロバンMの広告量を爆発的に増やした”というのです。

ただし、ちょうどその頃、日本国内で睡眠薬に対する規制強化が始まっていたのもまた事実です。
「(イソミンの)広告の中止はその規制に従ったまで」というのが、大日本製薬(株)の言い分です。

いずれにせよ、レンツ警告直後にイソミンの販売量が減少した(あるいはゼロになった)という事実は確認できません。(次項参照)

元々、イソミンとプロバンMの新聞広告量の経時変化のみから、両者の販売量の大小を推し量ることは不可能であったと言わざるを得ません。相関関係がありそうに見えるだけで、因果関係有りとするのは科学ではありません。

大日本製薬(株)が公表したイソミン販売量について

吉村功(名古屋大学助教授)の論文の中に、「大日本製薬が公表したイソミン販売量と奇形児出生数」(プロバンMを除く)の表があります。(増山編1971,吉村p.243)

この表から、私なりに「イソミン販売量(地域別)」を集計して、全国計(年度ごと)を算出してみました。ちなみに、この販売量に関して、吉村は「大日本からの出荷量である可能性が大きい」としています。つまり、メーカー(大日本製薬)から卸(問屋)への出荷量という意味です。

  • 1958年(4,069,824錠)、対前年増加率(-)、1月20日新発売
  • 1959年(5,589,132錠)、対前年増加率(137.3%)
  • 1960年(12,845,942錠)、対前年増加率(229.8%)
  • 1961年(30,003,608錠)、対前年増加率(233.6%)
  • 1962年(14,871,632錠)、対前年増加率(49.6%)、5月17日出荷中止
    (対前年増加率は私の計算によるものです)

なお、1962年分は、出荷中止(5月17日)まで約半年分の販売量として判断しました。つまり、同年の出荷期間が5か月弱であるのに対して、出荷量は対前年のほぼ半分(49.6%)となっています。

結論として、この資料で見る限り、レンツ警告(1961年11月)の翌年(1962年)もイソミンの販売量は減少しなかった、逆に少し増加していることが分かります。

注)イソミンの販売量は、1962年に入ってから最大化したと判断される。

そのほかに、レンツ警告(1961年11月)後、大日本製薬(株)が「イソミンに換えてプロバンMを売りまくった」とする確かな証拠を私は知りません。

佐藤嗣道の主張には何ら根拠が無い、と私は考えます。

注)大日本製薬(株)の公表データ中の「奇形児出生数」は、森山豊(東大分院教授)による「日本先天異常学会のアンケート調査(936症例)」を基にしていると推測される。

日本の認定被害者309名の内訳(いしずえデータ)

日本におけるサリドマイド被害児数(梶井データ/いしずえデータ)

日本におけるサリドマイド被害者の出生年と男女別

「いしずえ」公式Webでは、認定被害者309名の内訳について次のように公表しています。(2013/01/24閲覧)

  • 1959年生(男6、女6)12、対前年増加率(-)
  • 1960年生(男16、女9)25、対前年増加率(208.3%)
  • 1961年生(男34、女24)58、対前年増加率(232.0%)
  • 1962年生(男88、女74)162、対前年増加率(279.3%)
  • 1963年生(男24、女23)47、対前年増加率(29.0%)
  • 1964年生(男2、女2)4、対前年増加率(-)
  • 1969年生(男1、女0)1、対前年増加率(-)
    合計309(男171、女138)、対前年増加率は私の計算によるものです。

レンツ警告の翌年以降の服用例が1/3程度ある(栢森コメント)

胎児(胎芽)がサリドマイドの影響を受けてから生まれるまで、最大で約8か月と考えることができます。したがって、もし仮に、サリドマイドの全面回収がレンツ警告(1961年11月)の出された年の間に完了したとするならば、1962年9月以降、サリドマイド被害者が生まれることはなかったと考えられます。

  1. 標準的な妊娠期間は、最終月経初日から数えて280日(40週0日)とされる。(ただし月経周期28日の場合)
  2. サリドマイドによる危険期(過敏期)は、最終月経初日から数えて34~50日の間である。

栢森良二(帝京大学医学部)は、「1962年9月以降に生まれたサリドマイド児が100名ほど」いるとしています。(栢森1997,p.42)

この数値は、レンツ警告の翌年(1962年1月)以降のサリドマイド服用例が、全体の約1/3程度あることを示唆しています。それは「(世界で)最も多い数」であり、回避できたはずの症例が、日本においてはそれだけ多かったことを表しています。

1962年:レンツ警告の翌年、被害者数はピークに達した

1962年生のサリドマイド被害者の母親がサリドマイドを服用した時期は、おおまかには1961年5月~1962年4月と考えられます。そしてこの一年間(1961/05~1962/04)は、ちょうどイソミン/プロバンM共に通常販売が継続された最後の期間となりました。

  1. サリドマイド製剤が自主的に出荷停止となるのは、1962年5月である。
  2. プロバンM(発売日:1960年8月)の広告が出されたのは、1961年5月〜1962年5月の約1年間である。

この間に、サリドマイド被害者の増加率はピーク(対前年比約2.8倍)に達し、被害者数も最大となっています。その中で、イソミン販売量の増加率(年率約2.3倍)を超える超過分〈約0.5倍〉、すなわち50%の増加分は、この間にプロバンMが爆発的に売れた結果によるものかもしれません。

この件は、「いしずえ」がイソミン/プロバンM別の被害者数をきちんと公開しさえすれば、直ちに解決する問題です。

残薬整理の重要性

1969年生まれの被害児1例は、「母親が妊娠中に不眠のため、娘時代に購入し保存してあったイソミンを服用」したもので、「(その後)保存してあった空き箱を提出した。現地調査を行ない、その背景が認められた」ものです。(木田1982,p.162)

催奇形性を有するサリドマイド製剤の取り扱いにおいて、残薬処理を徹底することの重要性を示した一例と言えるでしょう。

残薬整理に関して、西ドイツでは、コンテルガンの販売中止(回収決定)直後、内務省がラジオなどを通じて「コンテルガンを服用しないように、家庭内のコンテルガンを全て一箱残らず破棄するように」国民に呼び掛けました。

こうした西ドイツ当局の動きについて、当時の製薬課長(厚生省)は、「聞いておりません」と証言しています。(藤木&木田1974,平瀬証言p.260)

梶井データ180症例(日本のサリドマイド裁判資料より)

日本におけるサリドマイド被害児数(梶井データ/いしずえデータ)

北海道を中心にデータを集める(4か月単位で集計)

梶井正博士(当時、ジュネーブ大学助教授)は、日本のサリドマイド裁判で原告側証人として出廷しました(1971年10月4~8日、東京地裁)。その時の尋問で取り上げられた資料の一つが、この梶井データです。(参照:藤木&木田1974,梶井証言p.166)

梶井データは、北海道を中心としたサリドマイド被害者(死産を含む180症例)について、梶井自らが〈4か月単位で集計〉したものです。ちなみに、北海道におけるサリドマイド製剤の販売推移は、全国のそれに比例していることが証明されています(参照:増山編1971,吉村p.256)。

つまり、この梶井データは、全国的な被害者数の増減傾向を映し出していると考えてよいでしょう。

ただし、梶井データは、全体で180症例(死産を含む)と少数であり、日本の推定患者数(死産を含む)約1,500例のうち一割強しかカバーできていないものと思われます。

また、1959~1961年生まれの患者数の割合が、「森山報告」や「いしずえデータ」と比べて極端に低い傾向にあります。その裏返しとして、1962年9月以降生まれの割合が、約43.9%という高い数値になっていると言えるかもしれません。いずれにせよ、無視できないデータの偏りがあるようです。

しかしながら、梶井データには〈4か月単位で集計〉されているメリットがあります。そして、特に1962年の一年間は、ほぼ4か月単位で大きな変化がありました。

  1. 1962年5月:サリドマイド製剤の出荷中止
  2. 1962年9月:サリドマイド製剤の販売中止

そこで以下では、その1962年(12か月)を〈4か月単位〉で3分割して、サリドマイド製剤の販売量及びその結果としての被害者数の推移を考察してみました。

  1. 従来どおりの販売を継続した4か月(1962年1~4月に服薬)→「1962年9~12月」生まれ
  2. 在庫販売に移った4か月(1962年5~8月に服薬)→「1963年1~4月」生まれ
  3. 完全に販売を中止して回収に入った4か月(1962年9~12月に服薬)→「1963年5~8月」生まれ

それぞれの4か月を詳しく見てみると、以下のようになります。

1.レンツ警告後の「1962年9~12月」生まれがピークとなっている(販売継続)

梶井データ(4か月単位で集計)によると、レンツ警告(1961年11月)の翌年の「1962年9~12月」に、被害者数はピークに達しています。つまり、その8か月前の「1962年1~4月」に、最も多くの妊婦がサリドマイド製剤を服用したものと推測されます。

「1962年1~4月」というのは、レンツ警告(1961年11月)の翌年に当たります。そして、日本では同年5月(1962年)までは、サリドマイド製剤の販売はそのまま継続されました。

2.「1963年1~4月」生まれは、1/3まで激減した(出荷停止)

日本のサリドマイド製剤は、1962年5月にとりあえず「出荷中止」になったものの、店頭での販売は継続されました。つまり、在庫品の店頭販売は、1962年5月(出荷中止)から同年9月(販売中止)まで継続されました。

「1962年5~8月」の4か月間は、ちょうど在庫品の店頭販売が継続されていた時期に当たります。そして、その時のサリドマイド販売量が、8か月後の「1963年1~4月」生まれの被害者数に反映されることになります。

そこで、改めて梶井データを確認すると、「1963年1~4月」生まれの被害者数は、その前の「1962年9~12月」生まれの1/3まで激減しています。

1962年5月の措置(自主的に出荷中止)は不完全なものであり、同年9月まで在庫品の店頭販売は継続されました。しかしながら、この不完全な「出荷中止」措置でさえも、被害者数をそれまでの1/3にまで急激に減らす効果はあったということができます。

3.「1963年5~8月」以降の生まれは、さらに減少した(回収決定)

日本のサリドマイド製剤は、1962年9月になってやっと販売が中止され、回収作業が始まりました。

日本で回収作業が始まった「1962年9~12月」に、サリドマイドを服用した母親から生まれた被害者は、「1963年5~8月」生まれと考えられます。その数は、「1963年1~4月」生まれの3割未満であり、ピーク時である「1962年9~12月」生まれの1/10以下まで減少しています。

そしてその後、少数の発症例が続いています。なお、これらの発症例が、新たに薬局で購入した未回収の商品によるものか、あるいは家庭内で手持ちしていた残薬によるものかは不明です。

ケルシー博士(米国FDA)サリドマイドの発売阻止

サリドマイドは米国では発売されなかった

ケルシー博士(米国FDA)、米国内でのサリドマイド発売を阻止する

新人審査官としてのケルシー博士

サリドマイドは、米国ではついに発売されることはありませんでした。

FDA(米国食品医薬品局)の新人審査官であったフランシス・ケルシー博士が、米国メレル社の発売申請(1960年9月8日付け)に待ったを掛け続けたためです。その間当然ながら、発売を急ぐメレル社とケルシーとの間で激しいやり取りが交わされました。(米国での販売予定名:ケバドン)

その内幕は、レンツ警告の翌年に「ワシントン・ポスト」紙(1962年7月15日付け)の記事で初めて明らかにされました。そして、時の米国大統領ジョン・F・ケネディは、ケルシー博士を米国の救世主としてたたえ、大統領勲章を贈りました(同年8月4日)。

薬理学者としてのケルシー博士

ケルシーは薬理学者でした。

「十二年間在籍したシカゴ大で、抗マラリア薬の研究を続け、安全を証明するため、動物実験をいやというほど繰り返した」経験などを持っていました。薬理学者としての彼女の目には、ケバドンの申請資料は「安全性を示す動物実験が不十分」に見えました。そこで、「追加データを求め、承認を保留」し続けたのです。(「」内引用、朝日新聞記事:1994年11月1日付け)

つまり、ケルシーは初めから催奇形性に注目していたわけではなさそうです。

ケルシーが当初指摘したのは、安全性を示す動物実験が不十分だったことにあります。そしてその後、フローレンスの多発神経炎の記事(英国医師会雑誌:British Medical Journal)を読んで、催奇形性に注目したというのが真相のようです。

なお、上記の朝日新聞記事は、FDA本部のケルシーの部屋で直接インタビューしたものです。彼女は当時80歳で、しかもFDAの現役部長でした。(2005年に90歳でFDA退職、2015年8月死去・享年101歳)

キーフォーヴァー・ハリス医薬品改正法の成立とケルシー博士

サリドマイド事件をきっかけに、米国ではキーフォーヴァー・ハリス医薬品改正法(1962年)が成立しました。
ケルシー博士の活躍は、そのことに大きく貢献しました。

同法によって、米国における「新薬の有効性と安全性の検証プロセス」が標準化され、「FDAの監督権限」が強化されました。山口祐司(大阪市立大学)は、このことが米国の現在における「製薬産業の競争力の根拠となっている」としています。(山口2013,p.111)

サリドマイド胎芽症と催奇形性

主に四肢の欠損と耳の障害に大別される

サリドマイド胎芽症とは、妊娠初期の女性がサリドマイドの影響を受けることによって、胎児(正確には胎芽期)に生じる障害(奇形)のことを言います。

サリドマイド胎芽症の特徴としては、一般的には、四肢、特に上肢の低形成であるフォコメリアphocomelia(海豹肢症―あざらし肢症)がよく知られています。その一方で、難聴や外耳奇形を含む聴覚器に強い障害が出る場合があります。さらに、障害は内臓まで及ぶことも見逃せません。

上肢低形成群と聴器低形成群の2つのグループに分かれる

『サリドマイド胎芽症 診療ガイド2017』p.13では、サリドマイド胎芽症の身体的特徴として、「上肢低形成群と聴器低形成群の2つのグループに分かれている」としています。

  • 上肢低形成群:230人(75%)
  • 聴器低形成群:59人(19%)
  • 混合群:20人(6%)

そしてまた、「上肢低形成群が75%、聴器低形成群が25%ほどとみることができる」とも書いています。少数の混合群(6%)では、耳の方が腕よりも障害の程度が大きいという意味のようです。

ちなみに、「一般に耳の奇形は受胎してから早い時期に薬を投与されたときに起こり、腕の奇形は少し遅れて、脚の奇形はさらに遅い時期に起こる」ことが知られています。(増山編1971,木田p.137)

日本では、死亡率が高く重症例が少ない

日本のサリドマイド事件の特徴の一つとして、死亡率が高い(生存率が低い)ことや重症度が低い(下肢の障害が少ない)ことが挙げられます。

その理由として、無事に生まれたサリドマイド児を死産扱いとしたケースのあることが示唆されています。

森山報告(日本先天異常学会のアンケート調査:936症例)では、日本における各年度ごとの生存率は20%程度となっています。この数値は、例えばレンツ文献(死亡率40%、つまり生存率60%)と比べて異常に低くなっています。

下肢の障害については、『サリドマイド胎芽病診療 Q&A』(2014年)のデータがあります。それによると、上肢低形成型のうち下肢低形成合併例が3名あり、「うち1名が重度低形成で移動には車椅子が必要」としています。つまり、下肢に障害があるのは309例中3例のみと読み取れます。

なお、『サリドマイド胎芽症 診療ガイド2017』p.33では、「日本における下肢低形成者はわずか2/309例(1%以下)である」としています。下肢低形成者が3例から2例に減った理由については、私にはよく分かりません。

日本のサリドマイド事件の特徴(回避できたはずの症例、生まれたはずの症例)

危険期は、最終月経から34~50日の間である

妊娠したかどうか分からない時期が危ない

サリドマイド胎芽症の定義は、「最終月経後の34~50日の間にサリドマイド薬剤を服用した妊婦から生まれた奇形症候群である」とされています。(診療ガイド2020,p.23)

つまり、サリドマイドによる危険期(過敏期)は、胎芽期(週齢で3~7週)の中でもさらに狭い範囲に限定されていることが分かります。それは、月経周期を仮に28日とした場合には、次の生理予定日からおおよそ1~3週間の間になります。

要するに、妊娠したかどうか気付けない可能性のある時期であり、"つわり"の始まる時期(妊娠4~5週(妊娠2か月))とも重なっています。

「サリドマイド胎芽病の過敏期」については、ノバックとレンツによる詳細な研究(82例)があります。それによると、「妊婦のサリドマイド服用による障害は、最終月経初日から数えて34~50日の間に生じることが分かった」としています。(参照:増山編1971,木田pp.137-142)

高橋晄正(東京大学医学部講師)による東京都立築地産院(3例)の分析結果では、「この資料から危険期を求めるなら最終月経の第1日から数えて36~44日ということになる」としています。(同上,高橋pp.209-232)

診療ガイド2017では、「サリドマイド胎芽症では、妊婦の最終月経から36~49日間(児齢22~35日、週齢4~5週)がサリドマイド曝露の臨界期である」としています(診療ガイド2017,p.32)。注)ただし、定義自体は34~50日としている。(同ガイド,p.12)

サリドマイド胎芽病と催奇形性

サリドマイド製剤の催奇形性の強さ

サリドマイドのヒトに対する感受性は特異的に高い

サリドマイドの感受性は、種差(動物の種類による影響力の差)が非常に大きいことが分かっています。
その中で、ヒトのサリドマイドに対する感受性は極めて高くなっています。

それを裏付けるかのように、レンツ博士は次のように述べています。
「西ドイツでの調査によると、外観に異常がなくても、危険期に服用した母親から生まれた児には、必ず異常が発見できた」。(シェストレーム1973,増山:序に代えてp.8)

さらに、「PMDA サリドマイドの非臨床における概括評価書」には、次のデータが記載されています。
「催奇形に必要なサリドマイドの最低量(mg/kg)」は、イヌ100、マウス31、ラット10、サル10に対して、ウサギ2.5、そしてヒト(0.5-1.0)mg/kgとなっている(要約)。
注)PMDA:独立行政法人 医薬品医療機器総合機構

上記のヒトにおける感受性の最低量(0.5-1.0mg/kg)は、体重50kgの成人に直すと、コンテルガンやイソミンの1錠(サリドマイド25mg含有)あるいは2錠(サリドマイド50mg相当)にちょうど当てはまる量となります。

そして、西ドイツでは、薬局で買い求めたコンテルガン(サリドマイド25mg錠)を1回2錠飲んだだけで発症したケースが紹介されています。(栢森1997,p.20)

イソミンそしてプロバンMの被害者数の割合

平沢正夫(ジャーナリスト)は、京都のある小集団において「(7人中)過半数の4人は、母親がプロバンMをのんだために、奇形児がうまれた」例があることを紹介しています。(平沢1965,p.204)

平沢は、その結果について、「庶民にとっては、胃腸薬のほうが、睡眠薬よりもはるかに親しまれている。のむ機会も多い。それだけに被害も大きいのではないか」との見解を示しています。

しかしながら、私の分析結果では、「のむ機会」が多かったのは、プロバンMではなくてイソミンの方になります。
平沢の見解は、データに基づかないただ単なる憶測に過ぎません。

参考までに、私の分析結果を以下にてお示しいたします。

まず大前提として、睡眠薬「イソミン錠」と胃腸薬「プロバンM錠」のそれぞれ1錠中に含まれるサリドマイド量を比較すると、その比率(概算)はイソミン(4)に対してプロバンM(1)になります。

  • イソミン錠:サリドマイド25mg含有
  • プロバンM錠:臭化プロパンテリン7.5mg+サリドマイド6mg含有

そして、当時の各剤の用法・用量を以下のとおりと仮定します。
(参考:2020年現在の臭化プロパンテリン添付文書など)

  • イソミン錠(睡眠薬として)は、1日1回2錠(サリドマイド50mg)服用した(仮定)。
  • プロバンM錠(胃腸薬として)は、1日3~4回、1回2錠ずつ(サリドマイド最大で48mg)服用した(仮定)。

以上から、一人1日当たりの服用錠数は、明らかにプロバンMの方が多かったことが分かります。

さらに、最盛期(1962年1月ごろ)、イソミン錠とプロバンM錠の販売錠数はほぼ等しくなっていました。
つまり、後から発売されたプロバンM錠の販売錠数が、イソミン錠に追いつく形になっていました。

いずれにしても、サリドマイド製剤の全販売期間を通して、1日服用錠数の少ないイソミンの方が、プロバンMよりも服用人数(服用機会)は多かったと考えられます。
それに伴って、被害児の比率もプロバンMよりもイソミンの方が多くなっているはずです。

ただし残念ながら、プロバンMの売上高推移及びそれに伴う患者数の推移が公表されていないため、これ以上の比較検討はできません。

サリドマイド製剤の催奇形性の強さ(コンテルガン、イソミンそしてプロバンM)

サリドマイド仮説の証明

サリドマイド胎芽症の原因はサリドマイドにある

「サリドマイド胎芽症の原因はサリドマイドにある」とするサリドマイド仮説の最も重要な論拠は次の二つです。
疫学調査によって、それらを裏付ける数多くの資料が集められ、サリドマイド仮説は証明されたと言えます。

(1)「奇形児と非奇形児の間で統計的にもっとも差のある因子は、妊娠初期におけるサリドマイドの服用である。すなわち、前者の母親には、妊娠初期にサリドマイドをのんだ確証のあるものが多いのに対して、後者の母親にはそれが少ない(レンツ博士)」。(増山編1971,吉村pp.233-234)

レンツ警告2/3(疫学の考え方、四分表(2✕2表)を理解する)

(2)サリドマイド胎芽症は、サリドマイドが販売された場所(国)と時間(期間)でのみ発生した。

サリドマイド児の発生数は、サリドマイドの売り上げ増加に伴って上昇した。
そして逆に、売り上げ低下とともに減少した。
全てのサリドマイドが回収されて以降、再び同様の奇形を見ることはなかった。
なお、サリドマイド未発売国における同様の奇形は、治験薬によるものなどが少数例あるのみである。

サリドマイド使用量の推移とサリドマイド胎芽病の増減には相関関係がある

サリドマイドによる血管新生抑制作用と催奇形性

サリドマイドの催奇形性に関する有力な仮説の一つに、サリドマイドによる血管新生抑制作用があります。

サリドマイドは、血管新生作用を持つTNF-αの免疫系内での合成を選択的に抑制します。
つまり、サリドマイドの持つ血管新生抑制作用の結果、例えば四肢に育つ組織に血管が作られず、手足の正常な形成が阻害されると考えられています。

サリドマイドには「不斉」炭素が一つある

サリドマイドの催奇形性は「左手型」にある

サリドマイドには、「不斉」炭素が一つあります。
したがって、右手型(R体)と左手型(S体)の鏡像異性体が存在します。
そして、睡眠作用は「右手型」、催奇形性は「左手型」にあることが分かっています。

それならば、最初から「不斉合成」を行って、「右手型」だけを取り出しておけば、サリドマイド胎芽症を防ぐことができたのかというと、ことはそう簡単ではありません。

  • 催奇形性が、「左」「右」のいずれか一方のみにあるということは、事件後に分かったことである。
  • たとえ、事件前にその事実をつかんでいたとしても、両者を完全に分離生産する技術は当時まだ確立されていなかった。
  • さらに、サリドマイドの場合、右手型も体内で少しづつ左手型に変化していく。
    つまり、時間とともにラセミ化して、右手型と左手型が混じり合った状態となる。

結局のところ、サリドマイドそのものを臨床に用いるとするならば、サレドカプセル(効能・効果:再発又は難治性の多発性骨髄腫など)のようにラセミ体の製剤とした上で、徹底した副作用対策を行う以外にはありません。

サリドマイドの血管新生抑制作用と不斉合成

なお、サリドマイドを服用した本人に生じる重大な副作用としては、多発神経炎が知られています。

注)2001年度ノーベル化学賞(キラル触媒による不斉反応の研究)は、野依良治教授(名古屋大学)ら3氏に贈られた。野依良治教授は、2003年10月から独立行政法人理化学研究所(理研)の初代理事長となり、2015年3月末で辞任した。その理研から、STAP細胞に関する論文が発表されたのは、2014年1月のことであった。(英国の科学雑誌「Nature(ネイチャー)」2014年1月30日号掲載)

日本のサリドマイド裁判、そして「いしずえ」や今後のことなど

日本のサリドマイド裁判は民事訴訟である

裁判は東京地裁を中心に進められた

日本のサリドマイド裁判は、1963年6月28日(昭和38)、被害者家族が大日本製薬(株)を相手に、損害賠償請求訴訟を名古屋地裁に提訴したことに始まります。
そしてその後、京都(1964年12月)、東京(1965年11月)などが続き全国で8地裁となりました。
(東京、岐阜、名古屋、京都、大阪、岡山、広島、福岡の8地裁)

当初は、各地域ごとの訴訟団の連絡はなかったものの、間もなく各弁護団、原告団の連絡組織が作られ、東京が中心となってリーディングケースとして訴訟を進めることになりました。(1971年11月には、全国サリドマイド訴訟統一原告団(45家族)結成)

日本でも民事訴訟始まる

東京地裁に提訴以来、約5年をかけた準備手続は1970年11月に終結しました。
その後、証人尋問(原告側・被告側)が、1971年2月から1973年12月まで約3年にわたって行われました。
そして被告側は、1973年12月14日(昭和48)、因果関係と責任を全面的に認め、正式に和解申入れを行いました。

サリドマイド訴訟(因果関係・責任論・損害)

和解交渉の末、一時金、年金(物価スライド制)に加えて、財団法人サリドマイド福祉センター(仮称)の設立が決定しました。(和解確認書調印、1974年10月13日)
それは間もなく、財団法人「いしずえ」として設立が許可(同年12月7日)されることになります。

サリドマイド福祉センター「いしずえ」の取り組み

「いしずえ」の取り組みとして、「サリドマイド被害者の健康管理と福祉の増進、被害者の交流、薬害防止等に関する事業」が挙げられています。
その中で、薬害防止などに関する事業については、サリドマイド復活問題、学校教育への協力、他団体との交流・連携が挙げられています。(いしずえ公式Web、2020年2月以前の確認)

例えば、学校教育への協力ということについては、中学3年生を対象とした厚生労働省医薬食品局『薬害を学ぼう』(2013年)p.3で、サリドマイド被害者の一人である増山ゆかり(いしずえ常務理事)は次のように書いています。

「二度と同じような被害者を出さないために、この薬の危険性をよく知って、慎重に使用してほしい」。
つまり、サリドマイド剤の復活(サレドカプセル、効能・効果:再発又は難治性の多発性骨髄腫)を念頭に置いてのことです。

薬害防止に向けて、被害者からの積極的な発言は重く受け止めるべきと考えます。

サリドマイド被害者のための福祉センター「いしずえ」

中森黎悟さん(サリドマイド児の父親)刑事告発

大日本製薬(株)は不起訴処分になった

ところで、日本でもサリドマイドに関する刑事告発が行われました。
しかし、当該企業は不起訴処分となりました。

中森黎悟さん(サリドマイド児の父親)は、1966年12月7日(昭和41)、大日本製薬(株)を「薬事法違反及び業務上過失致死傷害罪」で京都地検に告発しました。
しかしながら、京都地検は大日本製薬(株)を不起訴処分と決定しました。

それを受けて、中森さんが京都検察審査会に申し立てた結果、京都検察審査会は京都地検の不起訴処分を不当としました。
ところが、1970年8月15日(昭和45)、京都地検は再調査でも不起訴と決定しました。
そして、担当検事はその翌日和歌山地検へ転出しました。

佐藤嗣道理事長は自らの公式Webを見ていない

2020年春(令和2)、安倍晋三首相は、新型コロナウイルス感染症の治療薬として、催奇形性を有するアビガン錠(抗インフルエンザ薬)を緊急追加承認するために前のめり状態になっていました。
そして、同年5月4日の記者会見では、"5月中の薬事承認を目指す"考えを明らかにしました。

コロナ禍の下、医薬品の有効性・安全性の基準が軽んじられかねない状況の中で、私は公益財団法人「いしずえ」のオフィシャルWebを改めて閲覧していました。
そしてそのWeb上で、信じられない文章を発見しました。

「いしずえ」トップページ >> サリドマイド事件-事件の概要/被害の実態
http://ishizue-twc.or.jp/thalidomide/damage-01/

西ドイツでは幼児の睡眠薬「シネマジュース」として販売されたために妊婦の服用が増え、被害の増加につながりました。(2020/04/29閲覧)

もちろん、「幼児の睡眠薬を妊婦が服用した結果、サリドマイド被害者が増加した」はずはありません。
私の指摘を受けて、この文章は事務局で多少手直しをされました。
なおこの文章は、かなり以前からそのままの形で掲載されていたようです。

いずれにせよ、佐藤嗣道理事長(大学薬学部教員、自身もサリドマイド被害者)が、自ら公式Webの内容を確認(校閲)していないことは明らかです。

 いしずえの外部に向けた発信の現況

現在の公益財団法人「いしずえ」は、公式Webを新たに作り替えた(2020年2月ごろ)ようです。
そしてその中では、"公益目的事業4"として、「医薬品の副作用にかかる被害を防止し被害救済を行うための政策の拡充及び促進のための提言、研修教育並びに啓発」を掲げています。(2021/07/10再確認)

「いしずえ」が、今後とも"公益目的事業4"推進のため外部に向かって発信を続けるというのであれば、私は、まずは「いしずえ」自身に関するデータについて、科学的根拠(evidence)を示してからにしていただきたいと希望します。

以下は、特に気になる事柄です。

  1. レンツ警告(1961/11/15)の日付をめぐる解釈の違い
  2. レンツ文献(Lenz1988)翻訳の正確性について
  3. 佐藤理事長は二人の課長の西ドイツ訪問時期とその内容を取り違えている
  4. イソミンを在庫整理してプロバンMを売りまくった(佐藤嗣道の主張)

イソミンとプロバンM、結局その違いはどこにあったのか

鎮静・催眠剤イソミン(1958年1月発売)に加えて、胃腸薬プロバンMを追加発売(1960年8月発売)したことによって、サリドマイド胎芽症が増えることはあったのでしょうか。
あるいは、鎮静・催眠剤イソミンと胃腸薬プロバンMでは、つわりに対してどのように使い分けられていたのでしょうか。
科学的根拠(evidence)はどこにも示されていません。

私は、その手掛かりとして、以下のことを考えています。

つまり、日本のサリドマイド被害者数は、1962年生まれが最大となっています。
この時、その増加率(対前年比約2.8倍)は、イソミン売上高の伸び率(対前年比約2.3倍)よりも大きくなっています。
その差(約0.5倍つまり50%増)は、プロバンM売上高の急増によるものと推測されます。

私は、サリドマイド事件に関する事柄については、公益財団法人「いしずえ」において、科学的根拠(evidence)に基づくきちんとした文章として書き残していただきたいと切に願っています。
その第一歩として、以下のことを要望します。

製品別被害者数の月次推移について、服用目的別にまとめた資料を作成して公表すること。

そのときのポイントは、以下のようになるかと存じます。

  1. サリドマイド服用年月と出生年月(男女の別)
  2. 服用薬剤名(イソミン・プロバンMの別、あるいは他社品名)
  3. 服用目的(睡眠・鎮静あるいはつわり対策など)
  4. 購入日(購入後すぐ服用、あるいは手持ちしていたものかどうかなど)

サリドマイドの復権と今後の展望

ステロイドを上回る免疫抑制作用、抗炎症作用が注目されている

1964年(昭和39)、全くの偶然からエルサレム・ハンセン病病院(ヤコブ・シェスキン院長)で、サリドマイドがハンセン病患者に多発する難治性の皮膚炎(結節性紅斑)に劇的に効くことが確かめられました。

その後の研究によって、サリドマイドはステロイドを上回る効能・効果(免疫抑制作用、抗炎症作用)を有する薬剤として臨床応用が進んでいます。

そしてついに日本でも、2009年2月(平成21)、サリドマイド製剤の販売が再開されました。
効能・効果は、再発又は難治性の多発性骨髄腫です。
さらにその後、らい性結節性紅斑に対する「効能・効果」及び「用法・用量」が追加承認されました。
(藤本製薬(株)のサレドカプセル)

サリドマイドの復権(日本の場合)

基礎研究(催奇形性の解明など)が日本国内で進んでいる

東京工業大学は、2010年3月8日(平成22)、「サリドマイド催奇性における主要な原因標的タンパク質を同定」したことを公表しました。
これによって、催奇性を軽減させたより優れた新薬開発への道が開かれたことになります。

さらに大阪大学は、2016年9月8日(平成28)、「レナリドミド(サリドマイド誘導体)による抗炎症作用のメカニズムを解明することに成功」したと発表しました。
今後、炎症性自己免疫疾患(関節リウマチなど)にいかに応用していくか注目されます。

国立大学法人名古屋工業大学は、2018年2月20日(平成30)、「サリドマイドの催奇形性問題を分子レベルで解明-40年間の謎に終止符-」することに成功したと発表しました。
「今後、催奇形性の無い安全なサリドマイド型治療薬の開発が期待されるほか、新規治療薬の開発に向けての大きな足掛かりになることが期待されます」。

国立大学法人東京工業大学は、2019年10月8日(令和1)、「サリドマイドが手足や耳に奇形を引き起こすメカニズムを解明」したことを公表しました。
「本研究によりp63(タンパク質の一種、当Web作者注)の分解が副作用の原因であることが判明しました。p63の分解を誘導しないサリドマイド系化合物を探索することにより、安全性の高い新薬の開発が可能になると考えられます」。

いずれにしても、今後研究を進める上で、徹底した副作用対策(多発神経炎や胎芽症)が欠かせないことは言うまでもありません。

サリドマイド事件(半世紀後の今)

サリドマイド事件はまだ終わっていない

サリドマイド事件から半世紀以上が経過しました。
その間、2005年(平成17)までに、日本での認定被害者309名のうち12名の方が既に亡くなっているそうです。その原因は、交通事故や肝障害、心不全、突然死、心の病など多岐にわたっています。

また、患者が年齢を重ねるごとに、四肢・耳などの障害による日常生活動作の不自由さや、内臓まで障害が及んでいることによる健康不安が高まっています。

サリドマイド事件は決してまだ終わったわけではありません。

 

サリドマイド事件 ~世界最大の薬害 日本の場合はどうだったのか~
アマゾンKindle第6版(2022/04/10)です。
このページ以外の20数ページ(Web版)を全てまとめた完全版になっています。
図表及びその詳しい説明もあります。

関連URL及び電子書籍(アマゾンKindle版)

1)サリドマイド事件全般について、以下で概要をまとめています。
サリドマイド事件のあらまし(概要)
上記まとめ記事から各詳細ページにリンクを張っています。
(現在の詳細ページ数、20数ページ)

2)サリドマイド事件に関する全ページをまとめて電子出版しています。(アマゾンKindle版)
『サリドマイド事件(第6版)』
世界最大の薬害 日本の場合はどうだったのか(図表も入っています)

www.amazon.co.jp/ebook/dp/B00V2CRN9G/
2015年3月21日(電子書籍:Amazon Kindle版)
2016年11月5日(第2版発行)
2019年10月12日(第3版発行)
2020年05月20日(第4版発行)
2021年08月25日(第5版発行)
2022年03月10日(第6版発行)、最新刷(2022/05/03)

本書は、『サリドマイド胎芽症診療ガイド2017』で参考書籍の一つに挙げられています。

Web管理人

山本明正(やまもと あきまさ)

1970年3月(昭和45)徳島大学薬学部卒(薬剤師)
1970年4月(昭和45)塩野義製薬株式会社 入社
2012年1月(平成24)定年後再雇用満期4年で退職
2012年2月(平成24)保険薬局薬剤師(フルタイム)
2022年4月(令和4)現在、保険薬局薬剤師(パートタイム)