サリドマイド事件

日本にもサリドマイド児・梶井正博士(読売新聞スクープ)

投稿日:2018年6月10日 更新日:

日本国内で、サリドマイド児の存在を初めて明らかにしたのは、梶井正(北海道大学医学部)である。

梶井データを伝える読売新聞スクープ「日本にも睡眠薬の脅威」(1962年8月28日付け)によって、日本国内のサリドマイド問題は一気にクローズアップされることになった。

そしてその2週間後(9月13日)、大日本製薬(株)はイソミンとプロバンMの販売中止(及び回収)に踏み切った。レンツ警告(1961年11月)から遅れること約10か月後のことであった。

サリドマイド問題に関する日本国内初の報道は、読売新聞スクープの約3か月前、朝日新聞スクープ「自主的に出荷中止/イソミンとプロバンM」(1962年5月17日付け夕刊)だった。この時既に、レンツ警告(1961年11月)から約半年が経過していた。

しかしながら、その翌日の朝日新聞続報では、「日本国内にサリドマイド児は存在しない」ことにされてしまった。そしてその後も、サリドマイド剤は自由に入手できる状態が続いていたのである。

ちなみに、欧州各国では、1961年末までには回収作業を完了したものと思われる。

梶井正講師、ランセット投稿論文脱稿(1962年6月末)

梶井正博士は、サリドマイド事件当時、北海道大学医学部小児科講師であった。

梶井は、日本のサリドマイド児に関する論文を、いきなり外国雑誌「ランセット」(1962年7月21日発行)に投稿した。その理由と結果について、梶井は次のように語っている。(藤木&木田1974,梶井証言pp.130-131)

「この雑誌が一番早くこういう報告が載るから、世界的に信用があるからと思って書いた」。日本国内では、ランセットはイギリスから通常船便で2か月かけて届く時代であった。

梶井の狙いどおり、レンツをはじめとするサリドマイドに関心を持つ学者たちから一斉に問合せの手紙がきた。ところで、最も反応が早かったのは大日本製薬(株)である。最新号発売から1週間以内には長距離電話がかかってきた。

しかし、そのほかには「日本の国内ではほとんど反響がなかった」。そうした中で、松永英(国立遺伝学研究所人類遺伝部長)がこの論文で初めて梶井のことを知っている。(増山編1971,松永pp.122-124)

松永は、この当時既にレンツの論文を読んでいたが、日本国内でサリドマイド製剤が発売されていることを全く知らなかった。後のサリドマイド裁判で重要な役割を果たした松永ではあったが、その時には出番はなかった。

さて、読売新聞にスクープされた途端、世論は一気に盛り上がりを見せた。厚生省や北海道庁薬務部から資料を要求されたのは、読売新聞スクープ後のことである。

さて、同論文の趣旨は、「札幌市で特異な奇形を伴う自験例を7例持っている。そのうち5例は母親がサリドマイドを服用しており、同薬との因果関係が疑われる」というものであった。

論文投稿後、梶井はその事実を説明するため、北海道庁衛生部(係長応対)と大日本製薬株式会社(札幌支店長応対)を訪問している。しかし、両者とも全く何の措置を取ることもなかった。(同上,梶井証言pp.126-127)

梶井はその後海外に転じ、スイス・ジュネーブ大学助教授やニューヨーク州立大学小児科准教授などを経て、山口大学医学部小児科教授となる。日本のサリドマイド裁判では、ジュネーブから一時帰国して出廷している。(1993年退官・名誉教授、2016年2月死去・享年85歳)

日本にも睡眠薬の脅威、読売新聞スクープ(1962/08/28)

梶井はランセット投稿後、北海道の小児科学会地方会において発表を行った。

内容は、ランセット掲載論文と同じく7症例についてのものであった。これに対して、翌日、読売新聞記者の訪問を受ける。これが、さらにその次の日の読売新聞スクープとなった。

「奇形児7例のうち5人の母親が服用:札幌市内7か所の病院で最近10か月間に生まれた奇形児7例のうち5例まで母親がサリドマイドを飲んでいた」。(読売新聞記事1962年8月28日付け)

こうして、日本にもサリドマイド児が存在することが初めて新聞で取り上げられた。朝日新聞スクープ「自主的に出荷中止/イソミンとプロバンM」(1962年5月17日付け夕刊)から、さらに3か月後のことである。

読売新聞スクープでは「母親たちは妊娠初期の苦痛からのがれるためほとんどが町の薬局で買い求めていた」としている。

少なくとも日本では、サリドマイド製剤は”つわり”にもよく効く、として日常的に服用されていたものと思われる。サリドマイド裁判の証言(元大日本製薬企画室長)でも、「つわりも適応症だとパンフレットに書いていた」という。(川俣2010,p.178)

ところで、読売新聞記事には、厚生省製薬課の技官の話として、次のようなコメントが載っている。

「(前略)サリドマイド系の取り扱いについては東京女子医大と京都大学に動物実験を依頼しているので、これらの結論をまって慎重にきめる」。小山良修教授(東京女子医大、薬理学)と西村秀雄教授(京都大学医学部、解剖学)の二人のことであり、レンツ警告後に委託したものである。

その結果は、小山データ(1962年8月ごろ)、西村データ(同年9月)共に「奇形はない」というものであった。(藤木&木田1974,平瀬証言p.254)

ヒトと各種動物の間の種差や系統の違い、あるいは実験方法によって、催奇形性発現には大きな違いが出るということなのであろう。

日本におけるサリドマイド胎芽症の出生頻度(梶井データ)

梶井は、日本のサリドマイド裁判で原告側証人として出廷している(1971年10月、東京地裁)。その時の尋問で取り上げられた資料の一つに、「甲一二九号証の一」がある。梶井が自ら作成した資料である。(藤木&木田1974,梶井証言p.166)

私なりに、出生児数の部分(棒グラフ)を取り出して、「サリドマイド胎芽症の出生頻度を示すヒストグラム(180例)」として以下のようにまとめてみた。

症例数は180例で、ランセット投稿(7症例)後の自験例に加えて、全国の大学へのアンケート結果や文献から収集したものである。なお、生年月日を付き合わせることによって、重複例を除去している。データは、発症数(死産も含む)を4か月ごとに集計したものとなっている。

梶井は、できる限り患者及び両親のところに自ら出かけて行き、詳しい聞取り調査を行なっている。北海道内はもちろんのこと、本州の事例についても出張の都度可能な限りの調査をしている。梶井の臨床家としての資質、真摯な調査態度によってデータの正確性が高められている。

梶井データによれば、日本における発症数のピークは「1962年9~12月」にある。つまり、レンツ警告(1961年11月)の翌年「1962年1月~4月」に最も多くの妊婦がサリドマイドを服用したことを示唆している。そしてさらに、その翌年1963年及びそれ以降の発症例が確認されている。

1962年9月以降の生まれは、全体180例中の79例であり、その比率は約43.9%にもなる。

参考URL

関連URL及び電子書籍(アマゾンKindle版)

1)サリドマイド事件全般について、以下で概要をまとめています。
サリドマイド事件のあらまし(概要)
上記まとめ記事から各詳細ページにリンクを張っています。
(現在の詳細ページ数、20数ページ)

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2016年11月5日(第2版発行)

Web管理人

山本明正(やまもと・あきまさ)

1970年3月(昭和45)薬学部卒(薬剤師)
1970年4月(昭和45)製薬メーカー入社
2012年1月(平成24)定年後再雇用満期4年で退職
2012年2月(平成24)保険薬局薬剤師(フルタイム)
2019年5月(令和1)現在、保険薬局薬剤師(パートタイム)

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