レンツ警告以降もイソミンの販売量が減少することはなかった
POD版、Kindle版共に、Web版よりもきちんとまとまっています。(図版も入っています)
Web版の方が分量の多い箇所も、一部あります。ただし、Web版は全て〈参考資料〉の位置付けです。このWebをご覧いただく際には、〈未完成原稿〉であることをご了解くださいますようお願いいたします。
新聞広告量とサリドマイド児発生数(高野哲夫グラフ)
高野哲夫(立命館大学)は、中森データを使用して「新聞広告量とサリドマイド児発生数」の経時変化を示したグラフを作成している。(高野1981,p.127)
注)アマゾンKindle版には図表が入っています。
高野グラフでは、中森の調べた新聞広告量(棒グラフ)と、日本先天異常学会によるサリドマイド児発生数(折れ線グラフ)を組み合わせて表示している。
注)イソミンの新聞広告は1961年11月でぴたりと途絶え、それ以降は、1961年5月から新聞広告を出し始めたプロバンMが急速に掲載量を増やしていった。
なお、1962年は5月(出荷中止)までのデータとなっている。
改めてグラフを確認すると、新聞広告量(イソミン+プロバンM)は1961年にピークを示し、サリドマイド児発生数は1962年にピークを迎えている。
また、両者のピーク前後における増減傾向はよく似ている。
高野は、自身の作成したグラフについて、「サリドマイド剤の新聞広告と奇形児発生とのあいだに見事な平行関係が認められている(ママ)」としている。
しかしながら私は、サリドマイド剤の新聞広告と奇形児発生との間の「並行」関係は、ただ単に相関関係があるように見えるだけであり、因果関係があることの証明にはならないと考えている。
新聞広告量とサリドマイド児発生数(佐藤嗣道による紹介)
佐藤嗣道(自身もサリドマイド被害者)は、第1回医薬ビジランスセミナー(1997年9月)でこの高野グラフを紹介している。
そして、「レンツ警告を境に睡眠薬の広告をやめ胃腸薬プロバンMを大々的に売りまくったということで、一種の在庫整理と言われてもしかたがないやり方です」と説明している。(ビジランス1999,佐藤p.43)
しかし、そうした事実は確認できない。
中森の新聞広告量と販売量の関係を追求した努力には頭が下がる思いである。
とはいえ、イソミンとプロバンMの新聞広告量の経時変化のみから両者の販売量を推し量ることは、元々不可能であったと言わざるを得ない。
なお、佐藤は公益財団法人いしずえの理事長として、第16回薬害根絶デー(2015年8月)でもこの高野グラフを紹介している。(佐藤2015スライド原稿)
イソミンに替えてプロバンMのみ売りまくったという事実は確認できない
新聞広告量(イソミンとプロバンM)の増減は、果たしてイソミンとプロバンMのそれぞれの販売量に比例しているのだろうか。
さらには、サリドマイド児出生数の増減と比例していると言えるのであろうか。
以下にて、改めて確認をしておこう。
イソミンの販売量は「1962年1月~4月」にピークを迎えた(梶井データ)
梶井正(北海道大学医学部)は、日本におけるサリドマイド児発症数を4か月ごとにまとめて集計している。
梶井データによれば、日本における発症数のピークは「1962年9~12月」にある。
つまり、その8か月前の「1962年1月~4月」に最も多くの妊婦がサリドマイド製剤を服用したことを示唆している。
レンツ警告(1961年11月)の翌年のことであり、朝日新聞スクープ「自主的に出荷中止/イソミンとプロバンM」(1962年5月17日付け夕刊)よりも前の時期である。
なお、梶井データでは、サリドマイド製剤の販売量として北海道における店頭販売量を採用している。
そしてその販売量は、「1962年1月がピークで、1963年1月にゼロであった」。(平沢1965,p.200)
この販売量は、各社の錠剤のみを合計したもので、その中にプロバンMは含まれていない。
したがって、実質的にはイソミンの販売量そのものと見なしてよいであろう。
注)大日本製薬(株)のサリドマイド製剤だけで各社売上合計の90~95%を占めていた。
注)北海道におけるサリドマイド製剤の店頭販売量と全国のサリドマイド販売量との間にはきれいな比例関係がある。(増山編1971,吉村p.256)
イソミンの販売量はレンツ警告以降も減少していない(大日本製薬公表データ)
「大日本製薬が公表したイソミン販売量と奇形児出生数」(プロバンMを除く)の表を改めて確認してみよう。(増山編1971,吉村p.243)
その表から私なりの集計をした結果、イソミンの販売量(錠数)は年ごとに倍以上の伸びを示しており、出荷中止(1962年5月)まで増加し続けていたことが分かった。⇒(イソミン販売量が大日本製薬(株)から公表されている)
川俣は、イソミンの売上高に関して次のデータを引用している。
すなわち、影山喜一1972によれば、イソミンの販売額は、1958年(4,400万円)、1959年(6,100万円)、1960年(1億3,900万円)、1961年(3億2,500万円)そして1962年は出荷中止(5月17日)までの4か月半で(1億6,100万円)となっている。
(影山1972,p.326、川俣2010,p.35)⇒後日影山文献のコピーを入手して確認。
原文献を確認すると、「販売額は既発表の数量を定価で換算したため、実際よりも多目になっていると思われる」としている。
そこで、影山データの販売額から年ごとの増加率を計算してみた。
すると、私なりに集計した年ごと販売量(錠数)の増加率と極めて近い数値となった。
もちろん、私なりに集計した年ごとの販売額(1錠10円で計算)とも似通っている。
影山データも私と同じく大日本製薬(株)の公表データ(錠数)をベースにしていることは間違いない。
なお、影山データ(販売額)では、1錠当たりの定価を10円80銭強として計算しているようである。
いずれにしても、イソミンの売上高は出荷中止(1962年5月)まで増加し続けている。
プロバンMの販売量は、1961年の秋から1962年の冬にかけてピークに達した(大日本製薬の話)
サリドマイド裁判において、大日本製薬(株)の取締役は、イソミンとプロバンMの売上高について次のように証言している。
「プロバンMというのは、期におきましては、大体一億ちょっと越したぐらいですから、37年ごろ。(中略)イソミンは大体一番多いときで6~7千万です」。(サリドマイド裁判1976,第4編,p.264)
注)四半期決算(3か月ごと)の数値である。
そして、「(大日本製薬によると)プロバンMの販売量は、1961年の秋から1962年の冬にかけてピークに達した」という。(平沢1965,p.205)
以上、梶井データと大日本製薬の公表データ(いずれもイソミン販売量)及び大日本製薬の話(プロバンMの販売量)を総合すると、日本のサリドマイド製剤は、レンツ警告(1961年11月)の翌年になって最も売上げを伸ばしたものと思われる。
サリドマイド児の原因薬剤別(イソミンとプロバンMなど)発症数は公表されていない
レンツ警告(1961年11月)以降、“イソミンに替えてプロバンMのみを売りまくった”というのが事実であるならば、「1962年9~12月」以降に生まれたサリドマイド児は、圧倒的にプロバンMによるものが多くなっているはずである。
しかしながら、サリドマイド児の原因薬剤別(イソミンとプロバンMなど)発症数を示したデータは公表されていない。
結局のところ、“イソミンに替えてプロバンMのみを売りまくった”という事実を証明する資料は何一つ無い。
参考URL
- 中森データ:イソミンとプロバンMの新聞広告(縮刷版20万ページの分析から)
- 梶井データ:日本におけるサリドマイド被害児数(梶井データ/いしずえデータ)
- 大日本製薬(株)が公表したイソミン販売量と奇形児出生数
関連URL及び電子書籍(アマゾンKindle版)
1)サリドマイド事件全般について、以下で概要をまとめています。
⇒サリドマイド事件のあらまし(概要)
上記まとめ記事から各詳細ページにリンクを張っています。
(現在の詳細ページ数、20数ページ)2)サリドマイド事件に関する全ページをまとめて電子出版しています。(アマゾンKindle版)
『サリドマイド事件(第7版)』
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2016年11月5日(第2版発行)
2019年10月12日(第3版発行)
2020年05月20日(第4版発行)
2021年08月25日(第5版発行)
2022年03月10日(第6版発行)
2023年02月20日(第7版発行)、最新刷(2023/02/25)本書は、『サリドマイド胎芽症診療ガイド2017』で参考書籍の一つに挙げられています。
Web管理人
山本明正(やまもと あきまさ)
1970年3月(昭和45)徳島大学薬学部卒(薬剤師)
1970年4月(昭和45)塩野義製薬株式会社 入社
2012年1月(平成24)定年後再雇用満期4年で退職
2012年2月(平成24)保険薬局薬剤師(フルタイム)
2023年1月(令和5)現在、保険薬局薬剤師(パートタイム)